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           読 書 猿   Reading Monkey
            第76号 (スバラシキ市民社会号)
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■■黒沢隆『集合住宅論の試み』(鹿島出版会)===============■amazon.co.jp

  Living Room---戯れに「(人が)生きる余地」とでもカナを振ってみる--
に、今和次郎は戦後日本に移入されんとするピューリタニズムを見てとった。
接客と家族団らんをともに行う場所、すなわち「自分も、家族も、隣人も、す
べて神の子で、同格の存在者」として「同席」する場所。大正のはじめ、『日
本の民家』において「民家」なるものを発見した彼は、Living住むことを通じ
てLiving生きることを語る希有の人だった。
 「生きること」について言うのに、結局「形容詞」でもって語ってしまうよ
うな奴は信用できない。「こう生きるべきだ(こう生きるのが《正しい》)」
などというおばさん相手の新興宗教道徳家とか、住めないような家をつくって
おいて「生きることは厳しいんだ」と言ってしまうボクサー上がりの建築家な
んかそうだ。
 「近代」の形成が、「爆発」といっていい人口増加と、都市へのその集中を
伴うものである以上、集合住宅は近代都市の前提であり必然であった。事実こ
の国でも、総人口の一割強を集め、それに数倍する情報とマネーフローを集中
させる東京の、住宅ストックの65%が集合住宅である。
 都市住居のドミナントを構成する集合住宅が、これまで都市計画家や建築家
の目に止まらなかった訳ではない。しかし、日本の過規制な建築法規たちが、
そして融資基準を通じて仕様規定でがんじがらめにする住宅金融公庫融資が、
集合住宅を(住都公団を含む)ごく一部のディベロッパーの独占物としてしま
い、旧態然の「標準設計」のみをいつまでもはびこらせることになってしまっ
た。やがて建築家や設計家ばかりか研究者までが「手のつけようのない問題」
から手を引いて、セミパブリックな領域へ関心自体を集中させていった。まる
で治安維持法下の思想家たちのように。
 そしてバブルの地価高騰が都市を「人の住めない場所」とし、一方でピラ
ミッド(あれは死者の家だ)よろしくモニュメンタルな大建築が立ち並んだ
(携わったゼネコンはこの不況に息も絶え絶えなのに、あの建築家たちは未だ
バブルな夢を見続けてるかのように「思想」を語っている)。
 Living住むこと=生きることを語らない「建築思想」は、どのような意匠を
纏っても「家屋は末なり」と語った明治の東京府知事 芳川顕正の末裔である。
巨大公共事業に対応する住宅(無)施策が「財産としての家屋」という考え方
をのさばらせ、地価を・法体系を・金融システム・商品=技術体系を、「人が
住めない」ものにしてしまった。しかし終わった訳ではない。ディティールか
ら住戸、住棟、住宅政策へと貫く透徹したこの書の分析は、何かが始まりつつ
あることを、始まらなければならないことを確かに告げている。
 建築家の思考が、諦念に追いやられていた「生きること=生活」を取り返す
ために、それと切り結ぶ。ついぞ欠けていたもの、「住宅論=生きる場所につ
いての批評」が始まる。


■■平田清明『市民社会と社会主義』(岩波書店)=============■amazon.co.jp

 外国語の、それも日本語への「誤訳」から論を起こすとなると、ある種の反
感を引き起こさざるを得ない。知にまとわりつこうとする人は、必ずその方面
へのコンプレックスがあるから、「おまえはわかってない」と言われればやっ
ぱりアタマに来る。
 日本ではたかだかサヨク用語でしかなかった、それも「資本家(おかねも
ち)」といった貧乏人の怨恨まじりの把握しかされなかった「ブルジョワ
ジー」というコトバこそ、「市民」を指すのだという、真っ当な指摘を軸にこ
の書は展開していく。
 「ブルジョワジー=市民」だと、いったい何がどうだというのか。あのレー
ニンの目標が「ブルジョワジーなきブルジョワ社会」だからといってどうだと
いうのか。マルクスが「市民社会は、全歴史の真のかまどであり、舞台であ
る」と言ったからといって、どうだというのか。

 作者が、スイスのある都市にて。
 「ジュネーヴで、ルソーが安楽椅子に坐っている島を見ながら、モンブラン
橋を渡ると、日本でスイス独立記念碑と呼ばれるものが立っている。二人の人
間が肩をくんだ像である。この像のうしろには“8つのカントンのコンブル
ジョアジー”と大きく彫られている。」
 「急に降り始めた雨を避けて、街路に出ているレストランのテーブルで休ん
でいる時、隣に坐った二人の老婦人に尋ねたところ、彼女たちは直ちに答え
る。“私たちは違うカントンの人間だが、今こうして一緒に相談している。あ
なたは違った国の人間だが、ジュネーヴの眺めを、スイス人と楽しんでいる。
これがコンブルジョアジーだ。”
 よく知られているように、スイスは、4つの民族と4つの言葉を持つ国であ
る。高い山と原野で隔たった、言葉も通じぬ人間たちが、ハプスブルグ家の支
配に反抗するために、1353年、コンブルジョアジーという形式で、まった
く人為的に作り上げ、維持してきたもの、それが今日のスイスである。人為的
に作り上げた国、ペイ(地域)のうえに《共−市民関係》として人為的に作り
上げた人間生活の一状態、それが、国家としての国なのである」

 ルソーがいう、社会契約論という論理的虚構(フィクション)がもつ歴史的
真実性。


■■サノフ『まちづくりゲーム』(晶文社)================■amazon.co.jp

 少数派に回ることは、今の世の中、あまり気分のいいものではない。
 「民主主義は多数決」だなんて、大抵の人が忸怩たる思いをしたことがある
はずなのに、いやいやながらも信じ込んでいる。「何故、多数決が民主主義に
おいて意志決定の手段となるのか」を考えもせず、ましてアローの「投票のパ
ラドックス」も教えもせず、小声で「少数意見の尊重も大事だ」とだけ言い添
えれば「デモクラシー」を教えたことになるだなんて、(だいたいどうやって
尊重すればいいか誰か知ってるのだろうか?)、陰謀臭い感じすらある。
 みんなで何か決めるのに、いつもいつも多数決や根回しや強行採決に頼らな
ければ本当にいけないのだろうか?
 さて、いくつかの国では、公共の建物(役所が建てるものというより、みん
なが使うもの、という意味だ)を建設する場合には、地域住民(要するに普通
の人たち)の賛同を得なければ工事できないことになっている。「住民参加」
というやつだ。多くは「説明会」をやってお茶をにごしていたけれど、次第に
そういう訳にはいかなくなった。「住民参加」というのは本来はそういうもの
でないことくらい、人々がいい加減気付いてきたのだ。
 専門的知識もない、しかも複数の人々が集まって、コトバでごまかしようの
ない、建物というはっきりした形のあるものを「決定」するにはどうしたらい
いのか。この本には、いちいち実践済みのそんなやり方が詰まってる。あらゆ
る場面ですべてがうまく使える訳ではないが、どう考えてもロクなもんでない
「多数決」しか知らないよりは、そうした「やり方」があり得ることを知って
いるだけでも随分ましだ。
 このあたりの「手法」をたっぷり導入した世田谷まちづくりセンターが出し
ている『参加のデザイン道具箱』シリーズは、この手のマニュアルのピカイ
チ。多くのファシリテーター(まちづくり助っ人)がこっそり/おおっぴらに
参考にしている。


■■メアリ・マッカーシー『フィレンツェの石』(新評論)==========■amazon.co.jp

 「実に奇妙なことだが、フィレンツェにおいては不名誉の観念は、絵画を介
して表現された。有名な大悪党たちは、バルジェッロの外壁に描いてもらっ
た。当時バルジェッロは牢獄であり、処刑の場でもあった。彼らの肖像は、ア
フリカの郵便局の廊下に貼ってある“お尋ね者”の顔に似て、時間とともに色
褪せ、火ぶくれしていった。もっともフィレンツェの犯罪人のほうは、“お尋
ね者”ではなく、もうすでに権力の手に落ちていたのだが。描かれたイメージ
の薄っぺらな感じ、脆さは、失墜した名声にはふさわしく、そのことは“虚栄
の篝り火”のさいに強調された点でもある。そのとき居合わせたあるヴェネ
ツィア人の態度を非難したフィレンツェ人」は、ヴェネツィア人の肖像を絵に
描いて見せ、それを火で焼いてみせたのである。

 フィレンツェ人のこの態度は徹底していて、遠近法という疑三次元的技法を
身につけた画家たちはそれで一儲けすることもあった。ジョン・ホークウッド
というイギリス人傭兵隊長は、フィレンツェのために大いに働いた。フィレン
ツェ人たちは、彼の記念像を作ることを約束したが、結局、彼の死後、絵でご
まかした。パオロ・ウッチェッロという遠近法にぞっこんで身を持ち崩した画
家に、彼の記念像を(立体的に)描かせたのである。国が雇った外国人に、永
遠の名声の象徴である大理石はもったいない、という訳だった。これはフィレ
ンツェ人の、個人的栄光に対する憎悪の証拠でもある。

 一方、大理石、石、青銅の堅さこそは、不断の安定と恒久性の理想を表現し
ている。広場の彫像たちは、市民道徳の典型ないし模範であり、その素材つま
り大理石やブロンズは、そうした教訓が永遠に伝わって欲しい、また伝えなけ
ればならないという、希望ないし不動の信念の象徴であった。
 ルネサンスのイタリアには、他にも(たとえばロンバルディア人など)彫刻
の才能に恵まれた人々がいた。しかし他の都市で公共の、つまり市民の建築事
業がはじまると、フィレンツェ人は必ず招聘された。



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