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           読 書 猿   Reading Monkey
            第31号 (新しいスキップ号)
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■■高浜虚子編『子規句集』(岩波文庫)==================■amazon.co.jp

 猫は年4回発情する(交尾期がある)が、寒明けのが一番盛んである。なの
で、「猫の恋」は春の季語。ついでに言うと、鹿は秋に交尾し、妊娠期間は8
カ月。したがって「孕鹿はらみしか」は、春の季語。

   恋過ぎて盗みの猫と叩かるる  石塚友二

 ちょっと面白い。「猫」も恋するが、「人」も恋する、ちょっと面白い。

   恋猫の恋する猫で押し通す   永田耕衣

 この間実家に帰ると、父親がこの人の句集(文庫本)を持っていた。「恋
猫」は、「浮かれ猫」で、春先に、にゃーにゃーうるさいやつがそれである
(これも当たり前)。「恋する猫」は、人(他人)にゃ迷惑なもんだ、でも
「押し通す」のは、いっそいい。

   おそろしや石垣壊す猫の恋   子規

 これなどは「押し通す」どころの騒ぎでない。何が「写実」だ、パワー俳
句。露伴が言ってるけど、「俳句の写実は、フィックスで撮るというのでなき
ゃいけねえ。写真機のおきどころを、ひとつの句で変えるのは関心しねえ」の
だそうだ。俳句は、写真というより活動(写真)なのである。エイゼンシュタ
インもモンタージュ論の中でそう言ってた、と思った。あるいは映画に触れ
た、寺田寅彦だったか。

 なお、この句集には

   今年はと 思ふことなきにしもあらず

というものまである。こんな気の抜けるような句を、元旦早々詠んでどうする
んだ(もはやカメラがどこにあるか、なんて話ではない)。
 しかもこの句には、「三十而立と古の人もいはれけん」との但し書がある。
何が「いはれけん」だ(笑)。

しかし、なんといっても一番は、

   日蓮の 骨の辛さよ 唐辛子

である。まいった。

■■ヘロドトス『歴史』(岩波文庫)■=================■amazon.co.jp

 流れの最中にあって、その位置を確かめる困難。ガリレオの(そしてニュー
トンの)相対性原理は、たぶんこんな風にも説明される。そして、それは多
分、「歴史の流れ」の中で「歴史」を記述しなければならない、歴史家の困難
でもあるだろう。「歴史相対主義」とは、何かの悪口でも諦念でもなく、そう
した困難につけられた名前だった。

 「時の流れ」を「時の刻み」として知るためには、流れにスケール(ものさ
し)をあてがわなければならない。そして「時の流れ」の外にあるものなど何
もないのだから、そのスケール(ものさし)もまた「時の流れ」の中から取り
出されなければならない。歴史家が、まるで「時の流れ」の外に立っているか
のように書くことができるとしたら、それは取り出されたスケール(ものさ
し)故にだ。確かにそこには一種の欺瞞がある。けれどどんな欺瞞もトリック
もなしに、人は何事か語ることができるだろうか。

 しかし歴史家が、今のようなスケール(ものさし)を時間にあてがうことが
できるようになったのは、そう古い話ではない。「歴史の父」たちは、西暦の
ような年号、共通の「時の刻み」を用いることはなかった。そんなものはまだ
存在しなかったからだ。

 「歴史の父」たちは、時間の中で起こった事どもを記述するために、「時の
流れ」にあてがうことのできる「時の刻み」を必要とした。けれど、それも
「時の流れ」の中から、作り出さなければならなかった。
 繰り返されるもの、続いてきたもの、にまず目がつけられた。誰それはどの
時代に生きた人か? 彼は第7回オリンピックの時に、男盛り(40歳程度)
だった。といった具合だ。
 司馬遷は、皇帝の交代・連鎖(「本紀」)を、他すべてを同期させる「外
部クロック」として、「時の流れ」の中から抽出した。「時間」がこうして歴
史の中から取り出され、そうして歴史にスケールとしてあてがわれた。

 一方、古代ギリシャの「歴史の父」は、別のクロックを用意した。なんとな
れば、オリンピックはたかだかヘラス(ギリシャ)だけでしか通用しない単位
でしかなかったからだ。「我々の歴史」なら、それでいい。我々の歴史から、
何かを取り出し、「外」に据え付ければいい。ちょうど時計の針をそうしてい
るようにだ。
 言うまでもなく、時計の針が示すのは、本来はなんの関係もない文字盤との
位置関係だけで、それが「時刻を示す」と考えるのは、時計の針の運行も、宇
宙すべてのものと同様に「時の流れ」のうちにあることを我々が認め、なおか
つそれを「時の刻み」として代表させ・取り出しているからだ。「時の刻み」
は、疎外されたものであるが故に、「時の流れ」の内にある、ほかすべてのも
のの「時刻」(時間における位置)を指し示すことに用いることができる。
 だが古代ギリシャの「歴史の父」が書こうというのは、「我々の外」をも含
めた歴史だった。だから彼に課せられたのは、世界のすべてに共通するような
何かを、歴史の中から取り出すことだった。「年号」のような、あらかじめ
用意された「外部クロック」はなかった。

 「歴史の父」ヘロドトスが採用したのは、皇帝(の交代・連鎖)でなく「帝
国」そのものだった。「帝国」とは、具体的にはアケメネス朝ペルシャであ
り、そして抽象的には「拡張そのもの」、つまり「侵略線の軌跡(locus)」と
して定義されるような時空間延長体である。ペルシャ帝国は、「時の流れ」と
ともに、侵略をつづけ、拡張し続ける。ヘロドトスは、世界のそれぞれ(種
族、地域、出来事)を、それぞれが「帝国(の拡張)」と遭遇した順序に従っ
て、記述する。歴史的事実と民俗誌的記述と地理・博物誌が、つまり時間的事
象と空間的事象の両方が、「帝国」というクロックによって、「記述」という
一次元構造にふさわしいように、整列・順序化されるのだ。実のところ、(何
らかの)整列・順序化の末に「時の流れ」が見出され、整列・順序化という操
作が背景に退くことで、(すべてをその内に投げ入れることを可能とする)
「歴史」がようやく登場するのである。だから彼は、「歴史の父」であって、
「最初の歴史家」ではないのだろう。

 ヘロドトスはこのように書いた。

■■大島弓子『綿の国星』(白泉社 他)==================■amazon.co.jp

 むかしむかし、てんぷら学生ならぬ、「コロッケ院生」のHさんに連れて行
かれた、K大でのI田せんせい(「表現主義論争」なんかの著作がある)の自
主ゼミ「(通称)G研」での話です。
 何が話題になったかと言うと、そこに至る経過はおもいだせないのですが、
「前期 大島弓子」と「後期 大島弓子」のどちらを支持するかなんとか、そ
ういうというものでした。ああ、このひとたちは、なんてめんどくさい話をす
るんだろうとおもったのですが、この「前期」/「後期」を分かつ分水点とし
ての作品が、あの『綿の国星』であり、これについては、「前期」を支持する
者、「後期」を支持する者、そろって「つまらない」と批判してました。『綿
の国星』というのは、大島弓子の作品のうち、現在唯一白泉社のコミックスに
入っていた作品です。
 「前期」を支持する者があげるのが(カフカについての著作なんかがある、
3原O平せんせいなんかがそうでした)、たとえば『雨の音が聞こえる』(確
か小学館の文庫で買えました)。「後期」を支持する者があげるのが(これが
Hさん)、たとえば『山羊の羊の駱駝』『秋日子かく語りき』(ASUKAコ
ミックだな)でした。
 というわけで、新参者の私も、どちらの支持に回るか、決断を要求されたの
ですが(マンガでこんなめんどくさいことになったのは初めてでした)、なに
しろその時は『雨の音が聞こえる』も『山羊の羊の駱駝』『秋日子かく語り
き』も読んでいなかったし、さらには読んだことのあるいくつかの大島弓子の
作品を、歴史順に整理することもできていなかったので、いきなり「前期/後
期」というのは殺生な話でした。だいたい何故『綿の国星』を境に分かたなけ
ればならないのか、それ以前、以後の作品群は何か共通点をそれぞれ持つとで
もいうのだろうか、持つとするならばそれを指標にして議論すべきではないか
と、確かまだティーンエイジャーだった私は思いました。

で、後になって考えたのがつぎの奴です。つまり大島弓子の作品は、

 a.頭の弱い女の子が主人公のもの
 b.頭のおかしい女の子が主人公のもの

の二つに分けられる。たとえば前期作品群を代表させられていた『雨の音が聞
こえる』はa群に分類されるし、後期作品群を代表させられていた『山羊の羊
の駱駝』『秋日子かく語りき』、『綿の国星』以前の『バナナブレッドのプ
ティング』だってb群に分類される。もちろん言ってる側から破綻しているの
ですが(確か普通の女の子の奴もあった。それに頭が「弱い」と「おかしい」
を区別しがたい場合だってある)、でも頭が弱くてなおかつおかしい場合だっ
てあるよな、とそのとき思いました。もう、「G研」には行きませんでしたけ
どもね。

 「a.頭の弱い女の子が主人公のもの/b.頭のおかしい女の子が主人公の
もの」というのは、実は『綿の国星』の救済用でした。
 前期と重ならないでもないa群の作品では、主人公たる「頭の弱い女の子」
は、とにかく「泣いて走る」。これが基本です。頭の弱い女の子−彼女は「不
幸」です。ですから「泣いて走る」、でないと「不幸」の所在が、主人公のと
ころであるとわからないから。彼女は「不幸」なので、物語のエンディングに
は(ほとんど「時間の彼岸」に)ハッピーエンドが用意されています。ラスト
には、「時間の彼岸」にジャンプして「幸福」になる、大抵いきなりウエディ
ングです(これはこれで考えると恐い話だ)。
 b群、頭のおかしい女の子−彼女たちは、ただもう「悲惨」です。「頭がお
かしい」ことが「悲惨」な訳でなく、また「頭のおかしい」ことが「悲惨」を
呼び寄せる訳でもありませんが。ただ一つだけ確かなことがあって、彼女は泣
きません。「泣いて走」ったりはしないのです。
 さて、『綿の国星』の主人公は「チビ猫」、生まれたばかりの、自分が人間
になれると思っている猫です(サバ・シリーズの主人公は、猫と暮らしている
おばさん=大島弓子で、これとはちがいます)。彼女は生まれたばかりなので
無垢で無知です。これは「頭が弱い」に対応します。また彼女は猫なのに自分
が人間になれると信じています。これは「頭がおかしい」ということです。こ
のあいだ「頭が弱くてなおかつおかしい場合」といいましたが、まさに「チビ
猫」がこれにあてはまります。だから彼女は「不幸」で「悲惨」なのです。

 ポスト『綿の国星』の作品としては、「ブーケ」の寡作作家、内田善美の作
品に『草迷宮・草空間』(集英社)というのがあります。
 子供の頃、自分はやがて「猫」になるのだと信じていた、そしてやがてそれ
が不可能だと知った、人間の男の子が成長して、こころ(魂)を持った日本人
形を拾うところから物語は始まります。
 彼女(日本人形)は、話し動き回り、「ねこ」という名前を持っています。
彼女は猫のように(育て親である猫の助言により)、誰かに拾われるのを待っ
ていたのです。彼女はまだ生まれたばかり(意識を持ったばかり)で、この世
のことを何も知りませんが、意識を持ってしまった以上、自分が歳を取りやが
て人間になることと信じています。
 男の子(人間)の視点から描かれるこの作品では、もう彼女は「不幸」で
「悲惨」でもありません。彼女がやがて知るのは、「自分が人間になれない」
ということ、「なりたい自分が、なれない自分であること」でなく、ただ男の
子(人間)と自分(人形)が「違うものである」ということ、それはすでに
「自分が、何者かであり、何者かになっていくものである」ということだから。

 「草、草、魂が降ってきたよ」


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