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           読 書 猿   Reading Monkey
            第27号 (こたつでみかん号)
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■■ル−・リ−ド『ニュ−ヨ−ク・スト−リ−』(河出書房新社)=======■amazon.co.jp

 図書館でルー・リード詩集を借りてきて読んだ。中にインタビューが2本
入ってる。ルーに対するインタビューじゃなくてルーがインタビュアーなん
だ。その内の1本、チェコの大統領ヴァーツラフ・ハベルにへのインタビュー
というよりはルポ、これが凄くかっこよかった。
 ハベルって人はもともと文学者だったんだね。旧東欧、共産党政権下の反体
制知識人(←ああ、なんかとんでもない文字面だな)。迫害されたり投獄され
たり、それが今や大統領だ。ルーのインタビューに応えてハベルが語り出す。
「私たちのこの革命は他のすべての面とは別に音楽的な面をもっています。特
に音楽的な背景を持つ革命。」60年代終りにチェコではロックが禁止されたん
だってさ。でもアンダーグランドにもぐってやってたやつらもいた。ヴェル
ヴェットの影響を受けてたやつらが。やがてそいつらも逮捕され、それに対す
る救援活動をハベルらが組織する。「紳士や学者や、ノーベル賞受賞者たちを
説得」して。そうした中で憲章77というレジスタンスと反体制のコミュニティ
が作られていったと。ああ、全くジジェクの言ってたとおりじゃないすか。
 大統領はルーに今夜クラブで演奏するのかと尋ねる。ルーは俺はプライベー
トな人間だから、あなたの為になら演奏したいが、わけのわからないところで
はやらないと答える。ハベルは、いやそれなら友人達だけの集まりだから大丈
夫だと言う。
 ルーはその夜クラブに向かう。すでにチェコのバンドが演奏している。
「私は突然曲に聞き覚えがあることに気づいた。彼らはヴェルヴェット・アン
ダーグラウンドの歌を演奏していた」「一夜漬けの練習でできるものではな
かった。」「編曲、強調されたライン、間のとりかた、まるで時間を遡って自
分自身の演奏を聞きに戻ったような感じだった。」
 そしてルーはプレイし、彼らとのセッションを堪能する。演奏が終り、多く
の人々がルーの許にやってくる。
「私の音楽を演奏して刑務所に入っていた者もいた。刑務所に入っていた時、
自分を勇気づけ慰めるために私の歌詞を暗唱していたと大勢が言った。中に
は、私が15年前に書いたエッセイの中の一行「誰もが音楽のために死ぬべき
だ」を覚えている者もいた。それは私にはとてつもない夢で私の最も遠大な期
待をはるかに越えるものだった。」
「ヴェルヴェットと私自身のアルバムは表現の自由ーー好きなことについて好
きなように書く自由についてのものだった。そして、その音楽はここチェコス
ロバキアに安住の地を見いだした。」
か、かっこヨすぎる。
ヴェルヴェットとチェコ(しかもチェコはウォーホールの故郷でもあるんだ
ぜ)なんて、ジジェクよりもポル・ポトよりもセンデロ・ルミノソよりも決ま
り過ぎてるぜ。

■■堀田善衛『時空の端ッコ』(ちくま文庫)===============■amazon.co.jp

 司馬遼太郎がどれだけエライのか知らないが(もちろんどの程度なのかは
知ってるし、どういう連中がどんな意図を持って今頃持ち上げてるのかも知っ
てるが)、堀田善衛はその500倍はえらい。今年は堀田善衛のことを書こう。
ちいさな随筆集が文庫になったので、ちょうどいい機会である。
 この本には、ちょうどヴァーツラフ・ハベルがアメリカ議会でやったかっこ
いい演説の話も載っている。……アメリカがチェコを助けるには何をしたらい
いかと良く聞かれる。私の答えは、いつもの通り逆説的になりますが、ロシア
をもっと援助して下さい、それがチェコに対する最大の援助です。無類にかっ
こよくて、大胆不敵だ、かつ国際情勢的にだってめちゃくちゃ正しい。
 たとえば堀田善衛はラジオを聞く。ヨーロッパにいたときは、パレスチナ放
送を聞いたし、アルバニアのラティナ放送を聞いた。どちらもその論説がてん
でファナティックでなく冷徹で関心した。パレスチナの方は聞く度に、放送局
がダマスカスだったり、バクダートだったり、ベイルートだったり、アルジェ
だったりしたが、これは「領土を持たないものの声(知性)」というものだろ
うという。日本に帰ると、その短波放送も聞けなくなった。情報はあふれてい
るが、「領土を持たないものの声(知性)」は、ここではもっと情念的で幼稚
な「世界情勢」に取ってかわられている。
 学生時代、日本放送協会が日欧直接交換放送というのがあって、もちろん堀
田氏はラジオを聞いていた。まずはドイツからゲッペルスの威嚇的な演説が流
れた。次にフランスからシャンソンが流れた。リュシエンヌ・ボワイエが
"Parlez-moi d'amour"(聞かせてよ、愛の言葉を)を歌ってた。法学部の予科
にいた堀田は当時の法学生なら誰もがそうだったようにドイツ語を学んでいた
が、それを聞いてアテネ・フランセへ通いだした。
 スペインやフランスの庶民は、自分の国家の政策が納得行かないとき、ラジ
オのチューニングを合わせてローマ法王が何をいうのか聞くという。湾岸戦争
の時、やってみたが日本ではバチカン放送入らなかったが、その時法王は、あ
の後、何度も引用される演説をやっていた。「……片方はオスマン帝国以来の
歴史に則って戦おうとし、片方は国連という現代の方によって戦おうとしてい
る。しかし歴史と法は相なじまないものである。戦争によって解決できる問題
ではない、もし戦うとすれば重大な後遺を残すであろう……」

■■山本常朝『葉隠』(岩波文庫、他)==================■amazon.co.jp

 宮本武蔵は「いかに敵を殺すか」についての書を記し、山本常朝は「いかに
自分を殺すか」の書を書いた。
 『五輪書』は殺人者としての武士の実践書(Howtoもの)であり、一方
『葉隠』は奉公人(役人)としての武士の心得書である。宮本武蔵は戦(いく
さ)を経験していた。その最後の戦から100年、元禄時代は、武士の心がま
えが「実戦」から「割腹」へと移行した時代だった。いえば、責任は「果た
す」ものでなく、「取る」ものになった。
 荻生徂徠は正しく「『武士道』なるものはない、『武芸』があるだけだ」と
言った。「武芸」が失われたところに、「武士道」は成立したのである。

■■『ウィトゲンシュタイン全集6』(大修館書店)==============■amazon.co.jp

>「もし異国の種族の所へ行って、その言語が全く分からず、どのようなことば
>が〈よい〉とか〈きれい〉とか等に当たるかを知りたいと思ったら、諸君は何
>に目をつけるだろうか。ほほえみ、身振り、食物、玩具に目をつけるだろう。
>(〔反論に対する答え〕もし火星へ行って、そこの人間が棒の突き出ている球
>状のものであったとしたら、何に目を付けていいか分からないだろう。あるい
>は、もしある種族のところへ行って、そこでは口から出てくる音が単なる呼吸
>音だったり音楽だったりして、言語が耳で述べられるとしたら、どうか。)こ
>のことがわれわれをどれほど通常の美学〔と倫理学〕から引き離すことか。」
>
>(ウィトゲンシュタイン「美学、心理学および宗教的信念についての講義と会
>話」6)

「〜とはいう/〜とはいわない」のような、言語使用から攻めるやり方があ
る。この引用はその絡み。このやり方自体が(あるいはこのやり方で「ある倫
理」「倫理一般」あるいは「あるセンス」「センス一般」をまな板にのせる分
析=「倫理学」や「美学」自体が)、「異国の種族」の前で試練に合う。この
くらいでは日常言語学派ていどだが(つまり「ほほえみ」とか「身振り」と分
節化できれば、不確定に陥る/その正当化は不能だけれども、とりあえず対応
付け=翻訳は可能である、しかし)、ウィトゲンシュタインなら、さらにそこ
で「棒の突き出ている球状のもの」=火星人(笑)にまで遭遇してしまう。目
を付けることすらできない(笑)。

■■ボナール『ギリシア文明史』(人文書房)============■amazon.co.jp

 まちがいもないではないが、すごぶるおもしろくってためになる総合ギリ
シャもの。おもしろさだけなら、ブルクハルトのごっつい「ギリシャ文化史」
よりも上だと思う(もっとも、あれも専門家にはいろいろ言われる本だが)。
訳書についてだが、もう少し丁寧な本作りをして欲しい。3冊もあるのに、索
引もない。揚げ足取り的な注をつけるくらいなら、その前にやることがあるだ
ろうに。

 しかし、本の内容はすごぶるおもしろい。

 たとえばボナールにかかれば、アキレウスにつぐ戦士もこんな具合だ。

>「テラモンの息子アイアスの勇気は重々しい。それは抵抗の勇気である。彼は
>肩幅が広く、背が高い大男だ。彼の勇気は岩のごとくであり、誰一人彼をびく
>ともさせることはできない。ひとつの譬えは、彼の一徹ぶりをよく表している
>(叙事詩にふさわしくない卑俗さから、われわれの古典学者たちを憤慨させた
>あの譬えだ)。
>
> “畑の畔をいくロバが頑なに立ち止まって子供たちに逆らう。打たれて何本
>棍棒が折れようと平気で、生い茂る畑の中に入って麦を喰っている。子供たち
>は棍棒でしきりに打つが、しょせんは子供の力、とうてい追い出すことはでき
>ない、すっかり満腹するまでは。大アイアスはそのように戦った”(ホメロス
>『イリアス』11 558-562)
>
> アイアスはねばり強い勇気を持つ。攻撃でぬきんでた活躍をすることはあま
>りない。「猪」のような体躯がそれにはむかないのだ。身体も重いが才気もの
>ろい。馬鹿ではないが限界がある。彼には理解をこえるものがある。彼がアキ
>レウス*2のもとへ使いの将として来たときも、何故この英雄がブリセイス*3の
>ためにこだわるのかがわからない。「一人の娘のために! われわれは七人
>も、すばらしい女を提供しようというのに、そのうえに山と贈り物をするとい
>うのに!」と彼は叫ぶ。
>
> アイアスの鈍重さは守勢の場合にずばぬけて役に立つ。彼への命令は定めら
>れた場所に留まることだ。だから彼はそこに留まる。限界があるというのは文
>字どおりの意味である。そこを通り越してはならないところという意味の限界
>である。ホメロスは彼を「塔」とか「城壁」とか呼んでいる。それはコンク
>リート製の勇気である。
>
> 守備に当たった船の上で、彼は守備範囲の端から端まで「大股に」板子のう
>えを飛び歩き、次から次へと襲いかかる敵兵を槍で突き殺し、必要とあれば、
>なみはずれて大きな刺又をとって戦った。彼の雄弁は戦士のそれで、たった一
>言「退くな!」である」

 すべての詩人の父ホメロスが、まるでディケンズのようである(笑)。
 そしてそれは正しい(笑)。
 
> (オイディプスの)熟慮に基づく行動と共同体に奉仕する行動(彼はその「才
>能」の、洞察と行動力の悪用、つまり個人の利益を公共の利益に優先させようとす
>る悪意をもたない)、これは古代における人間的完成である。このような人間がど
>うして運命の罠に捉えられるのか。
>
> それはただ、まさしく彼が人間であり、彼の人間としての行動がわれわれの条件
>をつかさどっている宇宙の掟の支配下にあるからなのである。オイディプスの過ち
>を宇宙の(あるいは神の)意志に帰してはならない。宇宙はそのようなことに関与
>しない。それは、我々の善意にせよ悪意にせよ、人間の次元において我々が築いた
>道徳をまったく意に介さない。宇宙は、行為そのものにしか関与しない。宇宙は、
>行為がその秩序を、我々の人生がそのなかに入り込むがしかし我々には異質なもの
>としてとどまるであろうその秩序を、混乱させることがないよう防ごうとする(そ
>れは宇宙が、諸力の平衡状態を維持せんとするリアクションである)。
>
> 現実はまったき存在である。あらゆる人間の行為はそのなかで反響する。ソポク
>レスは、人間をいやおうなく世界に結びつける「連鎖」の掟を強く感じている。誰
>であれ行動するものは「行為」という存在を生み出す。それは、行為者から離れる
>と、それを送り出した行為者には予測できないような仕方で世界の中を動き続ける
>のである。それにもかかわらず、最初の行為者は最後の結果について-----妥当性
>においてではなく事実において-----責任がある。妥当性において、この責任は、
>自分の行為の結果をすべて知っていた場合をのぞき、行為者に帰せられるべきでは
>ないだろう(その意味では、オイディプスは無実である)。彼は結果をしらない。
>しかし、人間は全知でないが、行動しなければならない。ここに人間の悲劇があ
>る。行為のすべてが我々を危険にさらす。オイディプスという最高の人間は(人間
>であり、かつ最高の人間=行為者であるが故に)、つまり最大の危険にさらされて
>いるのである。
>
> かくして、まれにみるきびしさの、見方によってはまったく現代的な責任観が示
>されている。人間は、彼が欲した事柄について責任があるのみならず、彼の行為が
>結果の予測の手段も、ましてその防止の手段もまったくなしに引き起こした事件に
>照らしてみるとき、まさに彼が行ったことが明らかとなる事柄(結果)についても
>責任がある。
>
> つまり宇宙は、我々がまるで全知であるかのように、我々を取り扱う。このこと
>は、あらゆる運命にとってなんと陰険な脅威であろうか。もし我々の知識がたえず
>無知と混ざりあるならば(そのとおりだ!)、もしそこで我々が生きるには行動す
>ることを強いられる世界が、その秘密の働きゆえに我々にとってなお暗黒同然であ
>るならば。ソポクレスは我々に警告している。人間は、諸力の平衡状態(バラン
>ス)が世界の生命をなすような、そうした諸力の総体を知らない。したがって、
>(その意味で、生まれながらにして盲目の虜である)人間の善意は、人間を不幸か
>ら守ることにおいて無力である、と。これこそ詩人がわれわれにその悲劇(『オイ
>ディプス王』)で明かす知識である。

 ボナールにかかると、悲劇作家ソポクレスがまるで、スピノザのようである。
 そしてそれはあまりに正しい。


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