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   読 書 猿   Reading Monkey
    第133号 (切断面号)
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■■八木教広『エンジェル伝説』(集英社コミックス)============■amazon.co.jp

 誤解は、頻出のストーリー構成要素である。誤解は、大抵の人間の相互作用がそうで
あるように、(1)増大/拡大する(誤解が誤解を生む)か、(2)縮小/解消する(
誤解は消え、なんらかの理解に帰着する)か、そのいずれかである。
 「誤解が誤解を生む」エピソードはストーリーに長さを与えることができるだろうし、
「誤解が理解に至る」エピソードはストーリーを終結させることができるだろう。ストー
リーは一定(有限)の長さを持たなければならない。誤解に始まる相互作用のプロセス
は、ストーリーを持続させ、また終結させることができるので、ストーリーに長さを与
え、なおかつその長さを有限の範囲におさめることに役立つ。

 『エンジェル伝説』は、天使の心と悪魔の姿(顔)を持つ男子高校生(北野誠一郎)
が主人公の漫画である(1993年から2000年まで月刊少年ジャンプ(集英社)に連載、前
世紀末の作品だ)。不躾に分類するなら、誤解を軸にしたシチュエーション・コメディ
である(ここではとりみきの、ギャクマンガのより限定的な定義「マンガのルール自体
への参照・介入を行っているものをギャグマンガ、ただ笑える設定/エピソード/ストー
リーからなるものをシチュエーション・コメディと呼ぶ」を採用する)。誤解を軸とし、
なおかつコメディ(喜劇)であるので、ストーリー(エピソード)は定義からして、(
1)誤解から始まり理解(という大団円)へ向かって進む、かと思いきや、実際には(
2)北野君が誤解され、北野君もまた誤解する(誤解の拡大再生産)→誤解した者は恐
怖に耐え切れず、誤解(と北野君への恐怖)を抱えたまま退場、といった場合が多い。
 『エンジェル伝説』においては、理解も理解者も希少である(傑作中の傑作といわれ
る第1巻では皆無である)。それは理解が、代償なしには得られないからである。たと
えば理解は、北野君を凶悪な(あるいは最強の)不良と信じ、なおかつ(その恐怖に打
ち勝って)勝負を挑むことを通じて得られる。最初に北野君を理解するのは、古武術を
父から学び、強くも無いくせにいばっている不良を許せないと思い、不良と勝負するこ
とも辞さない(というか、好んでそうしている)格闘少女(小磯良子)である(彼女は
最初から北野君に強さを感じていても、恐怖を感じていないので、特権的な場所から始
めることができた)。北野君と彼女は、ラブコメ的な迂回と遅延のせいでなかなか仲は
進展しないが、こぶしを交わした(というか、彼女が一方的に攻撃し、天使の心を持つ
北野君が専守防衛に徹した)あとすぐに、彼女は北野君の本質(不良ではなく、暴力を
好まない心優しい「普通の人」であること、しかし不意打ちとはいえこれまで無敵だっ
た彼女を倒した不良たちを無我夢中で倒し、危機にある彼女を救うことができる実力の
持ち主でもあること)を知り、それからまもなく互いの思いを確認し合い、周囲にも認
められ公認のカップルとなる。
 理解へ進むエピソードには、次のようなものもある。教育委員会から北野君を倒すた
めに送り込まれた少女(白滝幾乃)は、北野君に闘いを挑むが、いくら攻撃してもたい
してダメージを受けず、いつまでも反撃しようとしない北野君に耐え難い恐怖感を感じ
る。彼女はその恐怖を克服するために、学校中で辻殴りを敢行するが(これは暴漢騒ぎ
と見なされる)、最後に小磯良子と戦い敗れることで(良子は幾乃の戦わずにはおれな
い心情を理解しており)、自分の恐怖が、北野君への恐怖ではなく、自分が敗れること
への恐怖であったことを理解する。
 物語が進むに従って、(2)誤解(恐怖)したまま退場、というエピソードは減り、
(1)誤解から理解へ進むエピソードが増えていく。大演壇(?)を迎える最終巻に収
録された回では、北野君を「この人にはかなわない」と思い舎弟となり、ほとんど最後
まで不良と信じ続けてきた竹久君の「誤解」が解け、あるいは北野君と対戦した不良た
ちが、どれほど北野君を理解しているかが彼らのセリフを通じて語られる。理解は,あ
る種の和解であり,物語の終焉でもある。

 誤解の起源は、ひとつは北野君の天使の心と悪魔の姿(顔)のギャップであるが、で
は彼が天使の心と天使の姿を持っていれば、ギャップはなく誤解もまた生じなかったで
あろうか。そうではなかろう。北野君の天使のこころと、天然ぼけの分別とのギャップ
から、やはり誤解は生じただろう(別の方向に向かって、かもしれないが)善良なる北
野君の、それ自体は社会的倫理に照らしてまったく正しいがしかし、ほとんどいつも文
脈とマッチしない言行(行いと発言)。北野君はいたるところで誤解されるだけでなく、
それと同じくらいに(多くは誤解を拡大する方向へ)誤解する。

「いつも正義に基づいて行動しなさい。一部の人は感謝し、それ以外の人は衝撃を受け
るだろう」(マーク・トゥエイン)


■■『ジュニア・サイエンティスト』(日本宇宙少年団)============■

 『ジュニア・サイエンティスト』は日本宇宙少年団が発行する月刊紙である。
 日本宇宙少年団をご存知だろうか。団なので、団長がいる。副団長もいる。宇宙少年
団なので、団長はもちろん宇宙飛行士である(毛利衛氏)。副団長も宇宙飛行士である
(古川聡氏、山崎直子氏)。ちなみに少年団なのだが、理事長もいて、これは松本零士
氏である。
 日本宇宙少年団には、全国に支部・分団がある。全国に約120の分団があり、約600人
のリーダーのもと、約5,000人の団員が活動している。活動の例としては、
・ペットボトルでロケットを作って飛ばしてみよう
・熱気球を作って飛ばそう
・宇宙開発の現場や科学館を見学して科学に親しもう
・望遠鏡で土星の輪や人工衛星を見よう
・みんなでサマーキャンプをやろう
・野原を歩いて自然を観察しよう
・インターネットで情報を交換しよう
などがある。
 ここまでくると、活動は日本だけにとどまってはおれないだろう。なにしろ宇宙少年
団である。国際宇宙少年団機構(Young Astronauts International)というのが、19
87年に組織されていて、12ヶ国が加盟し、「Peace through Space」、「Go to Mars
Together」を合言葉に宇宙的な国際交流が行われている。
 団員になると、入団時に次のものがもらえる。
★ YAC(Young Astronauts Club-Japan=日本宇宙少年団)団員証
★ 宇宙パスポート
★ 団員バッジ
★ 宇宙年鑑(スペースガイド)
入団すると特典として、
★ 会報が届きます。
★ YAC主催のイベントはもちろん、JAXA(宇宙航空研究開発機構)のイベントや、国
際宇宙少年団機構(YAI=Young Astronauts International)加盟国主催の国際コンファ
ランスにも参加できます。
★ 宇宙関連施設の見学、宇宙飛行士や科学者などのお話を聞く機会があります。
★ 各地域にある分団に入って、分団活動に参加できます。

 このように偉大な宇宙少年団はどのようにして誕生したのだろうか。
 ホームページによれば、宇宙少年団は、1984年、米国に於いて青少年の科学技術離れ
を憂慮した、レーガン元大統領の宣言のもとに結成された。日本では1986年8月、茨城
県つくば市に於いて日本宇宙少年団の結団式が行われ、同年11月に内閣総理大臣の許可
を得て、文部科学省管轄の財団法人として発足したそうである。

■■プライス『リトルサイエンス・ビッグサイエンス』(創元社) =======■amazon.co.jp

 プライスは、その筋では有名な、科学の計量社会学の人。科学をいろいろに計った。
 20世紀に入ってからの科学研究の発展は度を超している。発表される論文の数も、
それをのせる学術誌の数もうなぎ上りである。何より科学者が凄い勢いで増えた。人間
自体が爆発的に増えた20世紀。人口はわずか50年で2倍となった。しかし科学者の
数は、たった15年間で2倍になったのである。
 プライスはこうした計量から、自然に推論できる(しかし結果だけ聞くと驚くべき)
結論を導きだした。このまま行けば、人口一人当たりにつき2人の科学者が存在する時
代はもうまもなくである。誤解でも誤植でもないことを示すためにもう一度言おう。我
々の二人に一人が科学者、なんて生易しいものではない。すべての科学者の数が、全人
口の2倍になる、というのである。ついでにいえば、そうした科学者たちが使う研究費
もまた、我々の有り金を寄せ集めた額の2倍はどうあっても必要になる日もまた、そう
遠い日のことではないというのだ。
 もちろんこんなことは不可能である。全人口よりも科学者の数が多くなるなんてあり
得ない。研究費についても同じ。科学研究の発展は、単に量的にみても、早晩どうして
も越えられない壁に阻まれることは間違いない。その時(科学のドゥームズ・デイ=最
後の審判の日、とプライスはいう)は、どう控えめに見ても、来世紀を待たない、20
世紀中にはおとずれるだろう、とプライスは、1963年に書いた。


■■藤子・F・不二雄『ドラえもん』(小学館)================■amazon.co.jp

 「科学では説明できないこと」と多くの人が言う(それもちょっぴり勝ち誇った口ぶ
りで)。彼らの中には、科学知識を豊富に持っていたり、科学的方法論についておおよ
そ理解している人もいるが、その大半は科学についてあまり詳しくないと自他共に認め
る人たちだ。逆に、そんな人たちにあっても、「科学の限界」について何らかの(どの
程度正確かはともかく)推測を立てることができるほどに、科学は現代社会に普及して
いる。
 まず毎日の生活が、そのすみずみまで科学(を応用した成果)の影響を受けている。
一挙手一投足が科学(を応用した成果)に関わらずには行えないほどだ。いわば我々の
誰もが科学に「包囲」されている。我々の日常は、科学(を応用した成果)でほとんど
埋め尽くされている。
 日常はおそらく容易なことでは変わらない。多くの人たちが、日常が、今日も明日も
ほとんど同じだと踏んで行動する結果、同じような毎日が繰り返し維持される。そして
我々の「終わらない日常」を、背景装置として支えているのは、予測と反復可能性をも
たらした科学とそれを応用した成果たちであるかのように思える(もちろんそれは過ぎ
た投影(いいがかり)である。科学はこれまでに世界に大きな変化を与えててきたし、
今後もそうする可能性は大きい)。
 しかし多くの人は、科学の「作り手」側にではなく、「受け手」側に立つ。多くの人
にとっては、科学は応用可能な知識でなく、すでにパッケージングされたコモディティ
としての科学である(本来コモディティとは商品取引市場において売買されるような同
種なら互いに差のない商品のこと。工業製品において競争商品間の差別化特性(機能、
品質、ブランド力など)が失われ、主に価格あるいは量を判断基準に売買が行われるよ
うになることをcommoditizationコモディティ化といい、コモディティ化した「単なる
商品」をコモディティと呼ぶ)。つまり多くの人が用い日常的に接するのは、出来合い
の「科学の成果」でしかない。その域を越えて、一個人が自分だけに都合の良い変化を
もたらすために用いるには、科学はあまりにも取扱いが難しい(そのことを繰り返し我
々に教えた物語に『ドラえもん』がある)。加えて実行しようとすればとても(個人で
はまかないきれないほどの)コストがかかる(なにしろ科学の個人的使用は大量生産品
ではかなえられないから)。実際、高度な科学技術を応用するにはますます巨額の開発
投資、設備投資が必要だ。一個人として科学のある分野をマスターすることすら、多く
の時間と知力の投資が必要である(しかも、それで得られるのは科学全体からすれば、
極めて限られた領域にすぎない)。科学は、経済的にも、時間的にも、知的にも、「持
てる者」のものであって、「持たざる者」のものではない。社会学者マートンが述べた
「マタイ効果」は(彼が指摘した領域を越えて)、健在である。
 それ故、大多数の「持たざる者」にとって、「科学では説明できないこと」は、日常
を包囲しているはずの科学の「ほころび」であり、変わらない日常からの(「一発逆転」
を狙える通常ならざる)脱出の可能性であるかのように見える。だからこそ、少なくな
い人々が、科学に投資する代わりに(たとえば医者にかかる代わりに)、「科学では説
明できないこと」に対して(見るからに怪しい淫祠邪教やインチキ療法に)自分の努力
と財産を費やすのである。



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