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   読 書 猿   Reading Monkey
    第129号 (墜落号)
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■読書猿は、全国の「本好き」と「本嫌い」におくるメールマガジンです。
 

■■ヤコブ ラズ 『ヤクザの文化人類学』(岩波現代ライブラリー)===■amazon.co.jp

・現代ヤクザに学ぶ最強交渉・処世術
・ヤクザに学ぶ組織論
・現役ヤクザに学ぶ 女の落し方
・ヤクザに学ぶできる男の条件
……といった本があるのは何故だろう? 
ヤクザが我々にはない能力を持っているからだろうか?

『ヤクザの文化人類学』のヤコブ ラズ は、日本社会を映す鏡=他者と
して、やくざ社会を分析している。
神話や昔話などで、よそ者=他者が、我々=世間一般にはない異形の力
を持っているのと同じ理由で、やくざは「能力」を持っている。
よそ者=他者が「持っているとされる力」は、実のところ、我々が一般
社会に属するために(そこから排除されないために)断念せざるを得な
かった「欲望」のことであり、またそうした「欲望の追求」のことであ
る。
我々にとっては、やろうと思えばできないことはないが、しかしそうす
ることは我々の社会では道徳的な制裁、白眼視、やんわりとした交流の
拒絶などを通じて、「まともな人間なら、してはいけないこと」、そして
「己の欲望としてあからさまにすることすら避けるべきだ」とされてい
る、そんな「欲望」や「欲望の追求」が、異形の力の根本を為す。

男性の成功をあらわすシンボルとなる「カネ」や「オンナ(美女)」は、
いや「成功」なるものが本来的に、「他の誰かも欲望しているもの」
「手にすることで他人からうらやまれるもの」のである。それ故にすべ
ての人が「成功」することは不可能である(「成功する=羨望される」
ためには、「羨望する=成功していない」者の存在が不可欠であるか
ら)。また「成功」への耐久レースは、羨望のネガティブな圧力にどれ
だけ耐え得るか、たとえば自分が元々属していた集団からの排除され離
脱しなければならなくないことを耐えられるかといったことが大きな部
分を占める。「カネ」を手に入れることのみに注力すれば、いまより他
人がうらやむという意味での「成功」に一歩近付けるかもしれない。し
かし「カネ」を手に入れることのみに注力すれば、さまざまな非難や排
除といった有形無形の制裁に直面することになる。

やくざという日本社会の「他者」は、はじめから日本の一般社会から排
除されている。それ故に「成功」の最大の障害である、羨望による排除
を免れている。むしろ逆に、やくざ社会の成功者は、やくざ社会の内外
に、自分が成功したことをヤクザらしい格好、振る舞いなどを通じて呈
示しなければならない(たとえばふんだんにカネを使い、何人ものオン
ナをはべらせ、また囲う)。こうしたパフォーマンスは、やくざ社会で
成功した彼個人にとってのみならず、まだ成功していないやくざ社会の
新参者たちの欲望を駆動し、やくざ稼業への動機付けを調達する。

もちろん、やくさ社会は、一般社会より厳しいルールによって律され、
絶え間ない自己呈示と自己証明を強いられる、ストレスフルな社会であ
り、ルールを逸脱した際の制裁も、一般社会よりも遥かに厳しい。しか
しそれは「成功」を欲望することを邪魔立てしたりはしない。


■■ティク・ナット・ハン『ビーイング・ピース』(中公文庫 )====■amazon.co.jp

ベトナムは、南方経由の小乗仏教(まだ教典になる前の口語のような仏
教:ここでは教えはおぼえやすいように詩や句の形で口伝されました)
と、中国経由(ベトナムは南越として中国の影響下にあった時代があり
ます)の大乗仏教(理論づいて僧以外の人々をも含んだ広がりを備えた
けれど、また漢字数文字にコンパクトにまとめることできる仏教)の両
方が共存しているおもしろいところで、そのせいか、ベトナム戦争時
に、国連軍(アメリカ軍)にも共産主義にも味方せず、破壊された村を
再建する平和運動する僧侶の団体なんかができました(何千年も変わら
なかった戒律を書き直して/例えば「嘘をついてはならない」という戒
律は、「たとえ、自らの安全が脅かされる恐れがあっても、不正義のあ
りようについて声を大にして述べる勇気を持ちなさい」になってい
る)。当然、どちらにも嫌われ迫害をうけるのですが、この人たちは今
では世界中に散らばってEngaged Buddism(かかわる仏教、行動する
仏教、とか訳されてます)というのをやってます。
 ティク・ナット・ハンはそんなベトナム出身の仏教徒のひとりです。

 ベトナムでは、
「鐘を叩く」とか「鐘を鳴らす」という言い方はせず、
「鐘の音を招く」という言い方をするらしいです。

お寺では、
鐘の係の人が、次のような詩を黙唱した後に、鐘の音を招きます。

 体、言葉、心をまったく一体にして、
 鐘の音に寄せて、この気持ちを伝える。
 聞く人が乱れた心から目覚め、
 すべてのあせりと悲しみを超えるように。

そして鐘の音を聞いた人は、思考を休め、
三度息を吸って吐いて、次のような句を唱える。

 聴け。聴け。
 このすばらしい音が、
 私を真の自己に戻す。

鐘の音は、我に返る音、あるいは自己を〈招き入れる〉時に用いる音で
あるそうです

■■松岡 圭祐『催眠hypnosis』(小学館文庫)============■amazon.co.jp

この小説は、極めて啓蒙的な配置で構成されている。事件も登場人物も、それ
から彼らの不幸と幸福も。

まず登場人物は大きくふたつに分かれている。「催眠を理解するもの」と「催
眠を理解しないもの」とにだ。前者には、主人公を含むセラピストたちが属
し、後者には、ニセ催眠術師タレント、世界的な外科の名医、登校拒否の娘が
セラピーにかかることを拒絶する父親、刑事、人のいいおでん屋の老夫妻その
他が属する。
物語は、調和から分裂へ終結するのでなく、不調和から回復へと移行する。つ
まり古い分類では悲劇ではなく、喜劇ということになる。

パチンコに夢中でわが子を危篤状態にさせ自殺を図った若い母親は、天才的外
科医の完璧な手術によって急死に一生を得るが、彼女への道徳的批判はパチン
コのもつ催眠的仕掛けを解説する主人公の上司であるセラピストによって退け
られ、また完璧な手術にもかかわらず発生した手足のけいれんは、それをTV
が手術の失敗を報じたことをきっかけに自己催眠してしまったのであり、これ
またそれを見抜き、催眠療法をほどこした上司セラピストによって救われる
(ついでに手術のミスを指弾された天才外科医=上司セラピストの分かれた妻
でもある、も救われる)。

一輪車に乗れずいじめられている小学生の女の子は、これまた主人公の部下で
ある若き女性セラピストの支持的なアドバイスと催眠によって、一輪車に載れ
るようになり、一家は大喜び、父親の催眠についての偏見も消える。

そして物語のメインストリーム、病状を理解してくれるものを周囲に持たず、
無理解な登場人物たちにつつき回された、物語の中心人物である女性は、主人
公の催眠療法をもって劇的ともいえる回復と、周囲の驚愕をともなう理解とを
得る。彼女のマネージャをしていたニセ催眠術師タレントは、最後に主人公の
催眠を評して、「地味だな。これでは芸にならない」といい、そして「だが
本物だ」と付け加える。

催眠を理解しなかった者たちは、催眠を理解することで(いくらかずつ)救わ
れる。逆に理解しないものは救われない。無知蒙昧な状態のものが、蒙を啓
(ひら)かれ救いに至るこの物語は、まったく「啓蒙的」である。

突っ込みどころ満載であったとしても、だ。

触れるべき逆説があるとすれば、催眠についての意識調査を行った数少ない研
究のひとつ(小泉晋一(2001)「大学生の催眠観に関する調査」『催眠学研
究』46(1), pp.40-46.)によれば(催眠療法は、心理療法と超常現象の間に
位置するものとして、大学生たちに認識されている)、この小説を原作にした
ストーリーはまるで異なる映画こそ、近年では催眠への偏見をかきたてた「悪
いマスコミの影響」の最たるものとして指弾されていることだ。

■■Michele Dillon ed., Handbook of the sociology of religion ,
           Cambridge University Press , 2003.========■amazon.co.jp
近代化が進むと脱魔術化がすすんで、宗教やおまじないみたいなものは
廃れていくだろうと、かつては言われてました。ところが全然そんなこ
とはなくて、それどころか近代化ということでいえば、より近代化の影
響が進んでいるよりはずの若い世代にこそ、呪術的な新々宗教やおまじ
ないは人気があるようです。

ひとつの説明は、近代化に伴って生じる個人主義化がもたらす難問に、
そういった宗教が(答えではないにせよ)不足を補ってくれるからだ、
というものです。

個人主義はふたつのものをもたらします。ひとつは個人の生き方の幅
(自由)を、もうひとつは(というか最初のものの裏返しですが)他人
の生き方への不可侵性を、です。

伝統社会から近代社会へ進むと、格段に個人の生き方は自由になりま
す。かつての「こういきるべきだ」という規範やモデルは廃れ、最低限
の規範(法律)を守っていれば、あとはどうでも好きに生きてかまわな
いことになります。けれど、このことは人にとって負担ともなり得ま
す。「どう生きてもいいのは分かったけど、いったい自分はどんな風に
生きたらいいのだろう?」

近代化が進み個人主義が浸透すると、他人の行動や生き方に対して文句
をいう理由と動機付けが低くなります。「どう生きてもそれは他人の自
由」だからです。相手が法を犯したり、他人にひどく迷惑をかけている
なら別ですが、基本的には他人の生き方に口出しすることは、相手の自
由を侵すことだし、それ自体が「いけないこと」になるからです。しか
しこれは裏返すと、自分の生き方について周囲の人たちは「何も言って
くれない」という事態を生むことになります。人は他人に承認される欲
求を持っていますし、他人からの承認で持って自分の生き方に自信を積
み重ねてもいく訳です。他人の生き方に口出ししない社会は、他人から
の承認も得られにくい社会となります。

こんな自由で哀れな近代人に対して、宗教(やそれに機能的に類似のも
の)はつぎのものを提供します。それは世界観、因縁、実感です。

世界観は、一般的・普遍的な意味付けの枠組みです。世界についての
(ある程度)一貫した説明を与え、人々がいったい何をすべきなのか、
何が良いことであり何が悪いことなのかを示す規範を与えます。(理念
的には)何でもできる、どう生きてもよかった近代人に対して、「こう
生きなければならない」という選択の不可能性を提供します。穏当な宗
教なら、それは現実的には「こういう風にしか生きようが無い」生き方
に寄り添った、世間的道徳とつかず離れずのものに落ち着きます(たと
えば「親を大切にしろ」とお道徳みたいなことしか説かないのが新宗
教、「親を捨てろ」と道徳以下のことを説くのが新々宗教です)。

因縁は、個別的・個人的な意味付けの枠組みです。あなたは(たとえば
前世がこうだから、うまれた星がこうだから)、そんな人間なのだ、だ
からこっちの方向へ進みなさい、とその人個人ごとに具体的な生き方と
役割を提供します。業が深いから、このつぼを買いなさい、とか。人は
理由の無いことを、より堪え難く思います。そして因縁は、何も無いと
ころにも理由を提供します。「業が深い」人が買わされる壷(あるいは
その他の対人サービス)は、不幸の除去手段ではなく、むしろ不幸の理
由づけなのです。

実感は、多くは信者ネットワークでの活動(要するに宗教活動)によっ
てもたらされます。なんとなれば、そこには個人が担い果たすべき役割
があり、そして何よりもそうした行動に対する他の信者の承認(そして
不承認)があるからです。布教活動は、宗教活動の中でもメインとなる
活動です。それは新人をリクルートして宗教組織を維持するという役割
の他に、「入信していない人たちを勧誘して拒絶される」という他では
得難い経験を、すでに信者となった(しかしあまり活動期間はまだ短
い)者に与えます。他人の生き方に口出しすることのない近代社会で
は、こうまであからさまに他人から拒絶されることはあまりありませ
ん。拒絶は非日常的で、強烈な体験です。拒絶は、入信者の感情をたか
ぶらせ、何故と自問自答させ、もはや自分の「居場所」は信者ネット
ワークでの活動以外にはないのだということを確認する一連の宗教体験
の引き金となります。

その他にも、情報統制や心身統御のテクニックを用いた「自分は変わっ
た!」という実感を与えることもあります(たとえば一人を取り囲んで
激しく罵倒するといったテクニックは、企業での新人研修などにも使わ
れました)。自分の現状になかなか満足する機会のない(他人から承認
が得られない)現代人は、「自分を変えること」にとても夢中になりま
す。

こうして「宗教」は、近代人が背負う個人主義のアポリア(難問)に対
して、解決とはいかなくても、難問を回避する手段を提供できるので
す。こうした近代人のニーズに応えるのは、もちろんいわゆる「宗教」
ばかりではありません(マルチ商法や自己啓発セミナーやカイシャなど
が同じ機能を果たしてきたのは有名なところです)。
 


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