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           読 書 猿   Reading Monkey
            第119号 (こしにねがいを号)
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■読書猿は、全国の「本好き」と「本嫌い」におくるメールマガジンです。
  姉妹品に、『読書鼠』『読書牛』『読書虎』『読書兎』『読書馬』『読書
羊』
  『読書龍』『読書蛇』『読書鳥』『読書犬』『読書猪』などがあります。
 ■読書猿は、本についての投稿をお待ちしていました。

■■ フランクル『夜と霧』(みすず書房)===================■amazon.co.jp

 「心が折れる」という言い方をよく目にするようになったと思う。
 ナチス収容所関係の本だと思われているこの書は、「地獄のような場所で、
《心が折れ》たらどうなるか。また《心が折れ》ないようにするには、どうした
らいいか」が書いてある。
 収容所では、物理的・肉体的苦痛よりも、人間扱いされないことがキツイ。
 収容所では、人間扱いされないために、「いまにみてろ、いつかきっと」とい
う気持ちになりやすい。
 収容所では、いつこの生活が終わりになるかわからないので、「いつかきっ
と」の「いつか」が、何時なのかわからないので、こたえる。
 収容所では、だから「いまにみてろ、いつかきっと」とか「世が世なら、おれ
だって」と思っている人ほど、《心が折れ》やすい。
 収容所では、「いつか」がわからないので、日常の細々した損得にこだわり、
そのために詐術をつかったりして、心がすさんでいく。それに気付いて、余計心
がすさんでいく。
 収容所では、《心が折れる》と「腸チフス」になって(というか潜伏していた
症状が全面的に出てきて)死に至る。
 現代人は、どこかで組織に属してたり、関係したりしている。すべての組織
は、全面的でないにしろ、いくらか(部分的には)収容所っぽいところがある。
なかにはかなり収容所っぽいところもある。
 ロングセラーだというこの本、ひょっとして「サラリーマン」とかに売れてる
んじゃなんだろうか。
 あ、「《心が折れ》ないようにするには、どうしたらいいか」について書き忘
れた。「教育者としてのスピノザ」という節あたりに、書いてあります。

■■金山宣夫『世界20ヵ国ノンバーバル事典』(研究社出版)==========■amazon.co.jp

 いわゆる「みぶり事典」。当然、全世界が対象になっている。
 たとえば、「指を上にむけてつぼめる」というジェスチャーの意味は、
 →くれ、少し、こまかい(日本)、くれ、貸せ(韓国)、少し、お願いします
(香港)、たのむ、少しくれ、もう少し(フィリピン)、たのむ、助けてくれ、
くれ、おめぐみください(インドネシア)、少し、こんなに小さいもの(タ
イ)、ほんの少し、くれ(マレーシア)、受け取る(ビルマ)、少し、小さい
(スリランカ)、少し、くれ、どうぞ(インド)、少し、もう少し、ほんのすこ
し、小さい(シンガポール)、カネ、小さいもの、すばらしい(オーストラリ
ア)、カネ、くれ(アメリカ)、たくさん、こんなに沢山、混雑(メキシコ)、
たくさん、人混み、カネをくれ(フランス)、少し、小さい、手にのるだけの、
くれ、少しでいいからくれ(ナイジェリア)、まってくれ、ゆるゆると(チェニ
ジア)
 ※中国以外のほとんどで、通用する。ただし効果は小さい。

 今回は、なんか、字で紹介するのが難しいモノばかりなった。

■■飯島朋子『図書館映画と映画文献』(近代文芸社)==============■amazon.co.jp

 「図書館映画」の話をどこかで書くか話すかしたらウケた。
 図書館と映画という組み合わせは、琴線に触れる何かがあるらしい。
 
 図書館映画とは、図書館が出てくる映画のことをいう。
 『ベルリン天使の詩』のベルリン市立図書館や、『ティファニーで朝食を』 の
ニューヨーク市立図書館など、実在の図書館が登場する事は多い。
 一方で『ソフィーの選択』では、その機械的・官僚的応対でソフィーを卒倒させ
る黒縁メガネの司書が登場、邦画特撮で『ガス人間第1号』では、生体実験でガ
ス人間(透明人間) になり、日本舞踊の女師匠に恋慕を募らせつつ悪事を働くの
はやっぱり図書館員(しかも主人公)である。ステレオタイプ化された本の番人
は、それが高じて、世捨て人だったり鬱屈が高い圧力となってすごいことしでか
しそうだったり、何だか得体の知れない人物として造形される。

 図書館情報学という学問には、世間一般の図書館に対するイメージを考える一環
として、映画や小説やテレビドラマや漫画などで、図書館もしくは図書館員がど
のように描かれているか、ということを論じた研究分野がある(ホントだよ)。
 図書館映画はその中で研究もされているのである。文献リストは、たとえば
http://www.bekkoame.ne.jp/~ichimura/libmvdb/ref.htm
にある。

 読書猿としては、「図書館映画」について書かれた本を探してみた。
 これは『映画の中の図書館』という名前で出ていた本の改題増補版。
(上記の文献リストにもあったのに、その時は気付かなかった)。
 この本の著者の飯島朋子氏も、図書館映画のサイトをお持ちだったはずなのだ
が、手持ちのURLではいきどまってしまった。ご存じの方あれば、情報求む。

■■手塚治虫 『鉄腕アトム』(秋田書店)===================■amazon.co.jp

 またしても確証のない話で申し訳ないが「鉄腕アトム」は「よい子」である。
 「よい子」であるところのアトムは、「よい子」ではあるが、しかしキレる。
いや、むしろ「よい子」であるが故に、その「正義」が極まったところで、その
「正義」が相手に納得されないがために、キレる。
「この、わからずやめ!」
そして尻からマシンガンをうつ。
 ほんとうに、2003年あたりにこんな「よい子」がいれば、マスコミはその
「少年犯罪」について特集記事でも組むかも知れない。心理学者や教育学者や社
会学者は分析したりされたり、テレビで激論を交わしたりするかも知れない。リ
ベラリストは、こんな特定の正義を押しつけるばかりか、そのために「暴力」に
訴えるこの行動を決して是認しないだろう。
 アトムは、当初はかなりの天然ボケの人工知能である。我々がロボットに求め
るのは「腹芸」や「根回しの巧みさ」ではなく、馬鹿正直さであるからだ。天馬
博士はアトムを亡き息子に似せて作った。手塚治虫は、アトムをかなり「素
(す)」に近いものとして創作した(ピノキオに比べれば、はるかにマシだとし
ても)。アトムもきっと、そういう場面に通りかかれば「王様はハダカだ」と言
うだろう。そういうことはなかったことにする申し合わせが、彼には通用しな
い。そういうところは、確かに「よい子」っぽいと思う。

■■白石豊(編)、篠田和江(画)『まんが・スポーツ上達の基礎理論』(自由現代社)=■amazon.co.jp

 一昔前の学参まんがみたいなテイスト(というかそのレベルのマンガ、二昔前
の少女マンガ風)。が、スポーツ上達の基礎理論というのの中身が、おもしろ
い。
 というか「できないことをできるようにする」という点において、「学校」や
「教室」といった「やり方」は、スポーツに対しても、理論、方法論、実践、成
果、副作用等、どれをとっても大きく遅れをとってしまった感じがする。

■■Herbert,J.Gans『People, Plans, and Policies』(ColumbiaUniversity Press)=■amazon.co.jp

 品切れ・絶版になった本の復刊を求めるのに「復刊ドットコム」
www.fukkan.com/というのがある(このあいだ『王様のレストランの経営学』とい
う本に一票投じたが、全然票が伸びないでやんの)。
 「こんな商品、あったらいいな」というのを商品化して欲しいときのための、
似たようなシステムに「たのみこむ」www.tanomi.com/というのもある。
 その中間で、本としては存在しているのだけれど邦訳がないときに、その「翻
訳書商品化」を求めるシステムも、あったらいいなと思う(あと諸般の事情から
ダメ翻訳を垂れ流す人たちから、版権を引き剥がすためのシステムもあればいい
と思う)。
 この.Gansさんは、かなり有名だと思うが、どうやら邦訳がないらしい。今では
日本経済新聞社からも邦訳が出るほどの人気者である、J.ジェイコブズさんが
『アメリカ大都市の生と死』という本を書いて、都市計画や再開発が都市のコ
ミュニティを滅ぼすってなことを書いたのと、相前後して、Gansさんも有名な
『アーバン・ヴィレンジ』というのを書いた。都市スラムは環境的には荒廃して
いるようにみえても、社会的には非常に機能しておりスラムの再開発はそれをか
えってめちゃくちゃにしちゃう、というのである。
 最近はなんでもかんでも「まちづくり」というが、ジェイコブスさんはまちづ
くりの守護聖人みたいなところがある。土地利用を純化させるモダンな都市計画
への批判、人々の交流をさまたげる高層住宅やストリートから隔絶した住宅の批
判、まちの住宅の、そして人々の多様性が大切だという主張、なによりも人々の
交流あるコミュニティの重視など……、いまでもありがたいまちづくりのコンセ
プトが登場してる。
 Gansさんは、ジェイコブスさんの仕事の重要性を認めながらも、いくつかの留
保をつけている。ひとつは、ジェイコブスさんはあまりにデザインの問題に集中
しすぎていて、大きな問題を見落としてしまっているのじゃないか、というこ
と。もう一つは、つっこんでみると、ミドルクラスによる、下町コミュニティや
古い建築へのノスタルジーに過ぎないんじゃないか、ということ。
 ひとつづつ見ていこう。
 ジェイコブスが批判している建築家たちと同様に、彼女自身も物理的決定論に
陥っている。ジェイコブスは、多様性がないから町に活力がなくなり、人々がで
ていくことになり、まちがスラムになるという。多様性を許容するデザイン、例
えば様々な人種・階層(人々)の共存、様々な機能の共存(たとえば職住共存)
を実現するデザインが町を救うのだという。よいデザイン、望ましい物理的環境
を作り出せば、人々は自然に集まり、活気ある暮らしを営んでいくというのだ。
けれど、たとえばマイノリティのコミュニティは、建築的にも人種的にも、ちっ
とも多様性がないが、ちゃんとストリートのにぎわい=コミュニティがある。
 物理的決定論に陥るあまり、社会・経済的な側面を見落としているのもまず
い。ジェイコブスは、人々を不幸にするまちのデザインが、都市計画家やプラン
ナーの報じる伝統的な都市計画思想、たとえば人口密度を下げたり、土地の高度
利用を目指すことから生まれるという。けれども、そうした「デザイン」はただ
デザイナーの頭から出てきた訳ではなく、むしろ社会的社会的に強いられたもの
ではないか。
 またスラムは多様性の欠如から生じるというが、人々はよそに多様性を求めて
移転するでなく、むしろ多様性が増えるとむしろとどまりたくなくなるのではな
いか。少なくともミドルクラスの子育て世代が郊外に移るのはそういう理由では
ないのか。ミドルクラスは、ストリートでなく、互いの家庭内で社会活動する。
ストリートのにぎわいよりも、マンションや低密度公害でのプライバシーを重視
する。彼らのコミュニティや友人、仕事、余暇を過ごす場所は、都市のあちこち
やもっと外に広がっている。彼らは近隣だけにとどまっておれない、職住共存な
んて真っ平。子供の教育=社会化に、文化混合の近隣はふさわしくない。近所の
商店よりも選択の自由を求める。上昇志向をえじきにする、足引っ張り合い的な
ご近所ゴシップを嫌う、等々。ジェイコブスはプランナーの思想に悪因を求める
が、かれらや市場はミドルクラスの欲求の反映なのではないか。
 ジェイコブスは怒りのあまり、民間ディベロッパーにできもしなければやる気
も起きない働きを要求している。それから連中がワシントンへの有力なロビー集
団であること、そしてその結果うまれた政策が現在の窮状を招いたのだというこ
とも、ジェイコブスは忘れてる。
 ジェイコブスは、ミドルクラスのノスタルジーを描いて、同様にミドルクラス
の、その反政府、反官僚、反計画、反専門家の姿勢(ニュー・ライトのお好みで
もあった)を文字にして、人気者になった。むしろジェイコブスの人気は、(言
い過ぎるならば)ちょうどよく社会経済のしくみを「忘れて」いることにあると
も言える。そこでは問題もやられ役も、分かりやすく「目に見えるもの」にすり
替えられている。だからこそ、人は頑張りようがある。「デザイン」は意図され
たものであるから、正しい意図を持ちさえすれば変えることができる、と信じや
すい。実は、「デザイン」は決してデザイナーの自由な感性によって生まれた中
空に浮いたものではなく、社会経済的なさまざまな力に強いられ翻弄されるもの
なのだけれど。
 なんか、Gansさんがいまいち受けない理由(邦訳のない理由)がわかってき
た(でも、全国の自称「まちづくり」野郎に読ませたいとは思わない?)。
 ちなみにジェイコブスさんの最初の翻訳は、某建築家による、有名な誤訳満載
本。ほんと、どっちがよいのか、よくわからない。でも、やっぱり「翻訳タノミ
コム」とか「版権放棄タノミコム」とか、いりませんか?


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