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           読 書 猿   Reading Monkey
              第0号 (創刊準備号)
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■■ホルスト・ガイヤー『馬鹿について』(創元社)■■==========■amazon.co.jp

 これはもう、紹介するだけで勘弁して欲しい。

まず裏表紙には、こんなことが書いてある。

| 人間は愚鈍という実り豊かなひざに抱かれて、永遠に変わら
| ぬ夢を見続けているのであり、そのおかげで初めて生きて
| 行こうという気になれるのである-----愚鈍が、ただ愚鈍だけが
| この人生の守り神であって、これによって初めて錯覚の
| ヴェールが織られ、仕合わせな誤謬が知能のヤリ玉に上がらずに
| 済み、人生が辛抱できるようになるのである。

つぎに初版の序には、こう書いてある。

| 馬鹿のことを書くよりも、天才のことを書く方が、よほど割りのいい仕事に
|ちがいない。
| 伝記作家というものはありがたいもので、天才を描いてみせる学者は、そこ
|に描かれていた天才の栄光のおすそ分けにあずかるものだが、本書の著者には
|こういう余得はありそうにもない。
| しかし馬鹿と天才の数を比べてみただけでも、心の貧しいもの(これは聖職
|の言い方ではなく、俗人流に、つまりニイチェ的に言って)の問題の方が、ず
|っと切実深刻だ、とすぐ判ろう。天国はいざ知らず、この地上の最大多数は馬
|鹿が占めているのだから。だが一口に人間は馬鹿だと言っても本当はどうなの
|だろう?
| そこで、あてもなしに無駄口をたたくのはやめにして、ではこの問題につい
|て確かなことだけを書いていくことにしよう----「人はその能力以上のことを
|為す義務を持たず」(人事尽くして天命を待つ、あるいはこれを本書のテーマ
|に当てはめて「馬鹿は分不相応のことをやる」と言い直してもよい)という格
|言を忘れないようにしよう。

いちいち正しい。この名著は何度も版を重ねた。第三版の序。

| ザルツフレンのK.マイヤー・ロテルムント氏のご懇篤なご教示によると、
|修正耐えざる愛情を持って、馬鹿の問題と取り組んでいた一人のフランス文豪
|があった。それは利口で軽はずみなボヴァリー夫人と、忠実で愚鈍なその猟人
|医師シャルルを組み合わせた小説家であるグスタフ・フローベル(1821-
|1880)である。エミール・ゾラがフローベルについて語ったところによると、
|「彼には馬鹿は一種の刺激ともなった。彼は酷い馬鹿の実例を発見すると、心
|から夢中になって何週間もそのことを話し続けていた。……彼がその作品の中
|で適切に表現した人間の痛ましい無意味さよりも、彼の心を動かしたもの、そ
|れは誰しもが免れ得ない凡愚、凡俗であった」
| 引き続き、このような馬鹿の実例をお知らせいただければ誠に幸いである。
|
|          オルテンブルグ 1955.3.1
|                         ホルスト・ガイヤー

第六版の序は、偉大なるスペインの思想家に捧げられている。

| ホセ・オルテガ・イ・ガセットは1955年1月5日、本書の第一版刊行に
|際し、私に書簡を寄せ、優美なドイツ語で「熟読吟味させていただこう」と言
|ってくれた。 その年の10月18日、スペインの生んだこの偉人は永眠し
|た。生前に変わらぬ畏敬の念を個人の霊前に捧愚べく、巻頭に彼の座右の銘を
|原文のままあげさせていただく。
|
|          オルテンブルグ 1956.6.1
|                         ホルスト・ガイヤー

そしてこれが、その巻頭語である。

|  私はよく考えあぐねたものである。誰も
|  が馬鹿とかかり合い、馬鹿を相手にして、
|  深刻極まる迷惑をこうむっているという
|  のに、(私だけが知らぬのかもしれぬが)
|  なぜ馬鹿の研究とか、「馬鹿についての
|  エッセイ」という本がないのか、と。
|
|        ホセ・オルテガ・イ・ガセット

■■ソロー著,佐渡谷重信訳『森の生活』(講談社学術文庫)■■=======■amazon.co.jp

「こうして私は幾日かを過ごし、小さな斧で材木を切ったり、刻んだり、さらに間
柱や垂木を伐りだしていたのだ。人に何かを語り伝えるようなものなく、また学者
のようなさまざまな思考にふけるでもなく、ひたすら自分のために歌をうたってい
たのだ。

 人々はあまたの事を知るという
 されど見るがよい! 悉く消え去ってしまったよ----
 芸術作品も、科学の知識も
 また、あまたの生活用品も。
 吹きやまざる風だけが
 誰もが知っていることのすべて。」
                 (ソロー『森の生活』佐渡谷重信訳)

こんな歌、歌えない。

これは好みの問題じゃなくて(それを出すとめんどくさいが)、技術的な問題であ
る。ぜったいに斧振り回しながら、歌える歌じゃない(賭けてもいい)。

訳者は、前書きでこう言っている。
「明治期以降ソローは日本に紹介され、神吉三郎訳をはじめすでに数点の翻訳が出
版されているが、惜しむらくは満足のゆく内容ではなく、日本の読者はいままでソ
ローを本当に味読することができなかった。私がここに新訳を世に贈る所以であ
る。浪費社会と自然破壊によって地球が破局を迎えようとしている今日の時代に、
われわれがソローに耳を傾け、その知恵と人生哲学を真に学ぶべき時であると信
じ、私は賢明なる読者諸氏に本書を捧げたいと思う。……活字(漢字)は思想の眼
である。そして、言葉は一語一語の中に魂を宿し、読者の肺腑をえぐるのである。
それ故に、私はなによりも訳語を慎重に選び、明晰な文章の完成に力を注いだつも
りである」(1991年1月1日)

 善意を持って受け取れば(私にだって「善意」くらいある)、この訳者は、この
本を「シソウショ」として翻訳しようというのだろう(「その知恵と人生哲学」っ
てなくらいだから)。したがって、その「シソウ」を伝えることが第一で、そのた
めに「訳語を慎重に選び、明晰な文章の完成に力を注いだ」のだろう。90年代に
もなって、しかも正月に何言ってんだい。

 つまり、あの歌にも、「ソローの思想」が込められているのだ。だから「ひたす
ら自分のために歌をうたっていた」りするのだろう。斧で木を切ってる最中の人間
が、そんな脳味噌だけに汗かくようなことすると思ってるのだろうか(いやするか
も)。

 もっとも、「歌えない」のはこれに限ったことではない。日頃眼にするのといえ
ば、「歌えない」訳の方が圧倒的に多い(用途に限っても、それでいい場合が多
いってことでもあるのだ)。上の訳のひどさは、もちろん「歌えない」以上のもの
で、たぶん人間性からいって問題がある。

 フェアじゃないから、ソローがどう書いてたかを載せる。

So I went on for some days cutting and hewing timber, and also studs
and rafters, all with my narrow axe, not having many communicable or
scholar-like thoughts, singing to myself,

Men say they know many things;
But lo! they have taken wings-
The arts and sciences,
And a thousand appliances;
The wind that blows
Is all that anybody knows.

 蛇足で、「歌」に入るまでを訳してみた。

「そんなふうにして、ぼくは、何日か木材を切ったり削ったりした。間柱や垂木も
やった。鼻歌まじりに、みんな自分の小さい斧でやった。誰かに話せるようなこと
や、学者みたいな「立派な考え」なんかちっとも浮かばなかった。」

 「歌える」訳、募集。

■■オイゲン・ヘリゲル『日本の弓術』(岩波文庫)■■==========■amazon.co.jp

「哲学者という人種の悩み事を,健全に生きられる人が一緒に悩んでやる必要な
ど,どこにもない」(池田晶子『考える人』)←バカ

オイゲン・ヘリゲル『日本の弓術』、日本の神秘にあこがれ仙台の帝国大学に赴任
した新カント派の哲学者が、禅に基づいた愛国心やら武士道を無批判に至高のもの
と称揚するこの書にも、感動的な部分が二箇所ある。

 ひとつは、的に当てることへの執着を、何度師に諭されてもぬぐい去ることので
きないヘリゲルに、師がこう言って、「あなたの悩みは不信のせいだ。的を狙わず
射当てることができるということを、あなたは承服しようとしない。それならばあ
なたを助けて先へ進ませるには、最後の手段があるだけである。それはあまり使い
たくない手であるが」、夜もう一度、来るようにと告げる。
 弟子は夜になって師を訪問する。師は無言で立ち上がり、弓と二本の矢をもって
着いてくるようにと歩き出す。針のように細い線香に火を灯させた師は、先ほどか
ら一言も発せずに、やがて矢をつがう。もとより、線香の火以外の光はない。闇に
向かって第一の矢が射られる。発止(はっし)という音で火が消え、弟子は矢が命
中したことを知る。そして漆黒の中、第二の矢が射られる。師は促して、二本の矢
を弟子に改めさせる。第一の矢はみごと的となった線香の真ん中をたち、そして第
二の矢は、第一の矢に当たりそれを二つに割いていた。
「私はこの道場で30年も稽古をしていて暗い中でも的がどの辺りにあるかわかっ
ているはずだから、一本目の矢が当たったのはさほど見事な出来映えでもない、と
あなたは考えられるであろう。それだけならばいかにももっともかも知れない。し
かし二本目の矢はどう見られるか。これは私から出たものでもなければ、私があて
たものでもない、この暗さで一体狙うことができるものか、よく考えてごらんなさ
い。それでもまだあなたは、狙わずにはあてられぬと言い張られるか。まあ、私た
ちは、的の前ではブッダの前にあたまを下げるときと同じ気持ちになろうではあり
ませんか」

 この逸話は、のちにドイツに帰った弟子がこのことを『日本の弓術』という講演
で語るまで、(師とこの弟子にしか)知られなかった。かつてドイツ人の弟子と、
弓道の師との間を通訳した日本人は、講演の速記録を読み、さっそく師にこのこと
を尋ねた。
「不思議なことがあるものです。「偶然」にも、ああいうことが起こったのです」
師は笑って答えた。

 もうひとつはそのずっと以前、異国の弟子が、まだそんな域にも達していなかっ
たときの話だ。何事も理屈で納得しようとする頑迷な弟子を持った師は、このうる
さい質問者を満足させるものが見つかるかもしれないとの希望を持って、日本語で
書かれた哲学の教科書を何冊か手に入れた(!)。その後、しばらく経って、師は
首を振りながらそれらの本を投げ出し、こんなものを職業として読まなければなら
ない弟子から、精神的にはろくなことは期待できないわけがだいぶん分かってき
た、と親しいものに漏らした。

 「偶然」が起こるのは、その数年後である。

■■加藤尚武『現代倫理学入門』(講談社学術文庫)■■=======■amazon.co.jp

 加藤尚武がいうような、存在論になった倫理学というのはさ、要するに「世の中
こうなってるんだから、こう生きろ」ってことでしょ。
 このおっさん、結局功利主義しかないじゃないか自由主義バンザイなんだけど、
功利主義(最大多数の最大幸福みたいなやつね)がいかがわしいのは、効用(幸
福)が計算できないからじゃなくて、逆にいかようにも計算できるからじゃない
か。『経済倫理学』(中公新書)の痴呆経済学者もそうでさ、どんな前提もないと
言い張って、理性の法廷より言論の市場原理だとかいってさ、いきなり「計算」は
じめる訳だけど、その値札つけがもう思いっきり都合いい。価値の恣意性を「価値
中立」にすり替えて、おもいっきり「都合のいい前提」から「都合のいい答え」出
してるだけだ。
 世の中の「問題」、これはいつだって誰かの都合によって選定(あるいはねつ
造)されたものだけど、その都合にそった「価値判断」を提供するのが、こいつら
のいう「倫理学」でさ、そりゃどっかからお金がっぽりもらえるけど、その時の言
い草が「計算したら、いろいろ問題はあるけど、とにかくこれが一番ましなんだか
ら(世の中今のところそうなってるんだから)、これがベターなんだ(ベストなん
てないんだ)、だから逆らうな」、短くまとめると「世の中こうなってるんだか
ら、こう生きろ」ってなものだもの。こんなの倫理でもなんでもないじゃない。こ
んなのにはちゃんと、昔から短い名前があってさ、「支配者のイデオロギー」とか
いうんだよ(笑)。
 だいたい倫理は、「問題」に対して「答え」を出すようなものじゃないよ(「品
行方正」や自己抑制や、理性的=合理的に生きる仕方なんかじゃもちろんない)。
「悪口」としてはこれで十分だから、これで止めるけどさ。


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