ダランベール × ヘーゲル

順序の問題


 ダランベールは「百科全書序論」の中で、百科全書のための「3つの順序」を示してみせる。一つは序論第一部で展開される「学問の系統発生」であり、一つは第ニ部で語られる「人間精神(学問)の進歩の歴史」である。そして最後にもうひとつ、彼らの「百科全書」の企画が、そもそもイギリスのチェンバースの「百科辞典」の翻訳・増補版としてスタートしたことからくる「アルファベット順」という、最も恣意的・偶然的な、しかし結局は最も前面に出てくることになる順序である。
 「学問の系統発生」は、精神がおよそ自分だけで思考した時にたどっていくと想定される、あるいは同じことだが、精神が同時代の中だけで思考した時にたどっていくと想定される、(非歴史的な)精神の生成史的順序と一致している。これが「人間精神の系統図」として「百科全書」に付けられている知の系統図の原理である。最も太い幹だけをあげてみるなら、それは「歴史(神話)→理性(哲学)→想像(芸術)」という順序を示す。それは、いわば「諸学はいかなる合理的進歩をたどるべきであったか」と「認識の発生・発展段階」との一致である。
 ダランベールが参考にした、ベーコンの「知力による学問分類」は、これに対して「歴史(神話)→想像(芸術)」→理性(哲学)」という順序を示す。哲学と芸術(文学)の順序が逆なのだ。ダランベールにとっては、この順序はむしろ、「実際に(歴史的には)諸学はいかなる順序で発展したか」に対する答えなのだとする。ベーコンは精神の合理的展開よりむしろ、ルネッサンス以降の実際の学問の歴史を範例に、この「学問分類」を作ってみせたのではないかというのである。つまりダランベールにとっては、精神のあるべき展開と実際の歴史とは異なっており、「人間精神(学問)の進歩の歴史」は、精神が歴史や蓄積の中で思考していったもの/「暗黒の中世」からの脱出という社会的諸条件や文化的蓄積の中で発展していったものなのである。
 おなじく「エンチクロペディー」を書いたヘーゲルには、生成史的順序と歴史的順序の区別はない。ないどころか、すべては生成史的順序となってしまい、いやそれどころか、その語源(エンサイクル;円環をなす+パイデイア;知識)通り、すべては精神の運動の円環の中に封じ込められてしまう。
 しかしその円環を最も激しく瓦解させるのは、第3の順序、すなわち散文的この上ない、あの「アルファベット順」である。
 「アルファベット順」が「百科全書」に採用されるのは、主として読者の「検索」の便のためだとされる。だがこの「検索」こそ、ヘーゲルが思いも付かなかったことなのだ。系統は樹木(トゥリー)となる。しかし、その枝の末端たる諸学は、もはや幹を通じてしか結び付けられないほどかけ離れてることをダランベールは認めている。当時の最新知識のみならず、これまで不十分にしか取り上げられなかった様々な技術知・職人の知までも含もうという学問の系統樹は、今や「検索」の用を足さぬほど、巨大で生い茂ったものになったのである(ついでにヘーゲルについていえば、彼はその壮大な野心にちょうど都合よく、当時の学問的水準から遅れていた人なのである)。そして分類が、諸学の探求を不必要にすることは決してない。なんとなれば、「すべての知識のかわりに百科全書の樹だけですます」ことは、世界旅行とたった1枚の地図を引き替えるにも等しい所業だからだ。ロックにならって、ダランベールもこういうだろう。「あるのは個物であって普遍ではないのだ」。彼はつまりこう云っているのだ。「あるのは諸学であって、体系ではない」。ディドロ=ダランベールらの「百科全書」が、「それぞれの著作であるべきであった項目」からなるのはそういう訳だ。(→ディドロ×ヘーゲル


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