ディドロ × ヘーゲル

叙述の順序


 ヘーゲルは、彼の『哲学史講義』の序論で、「アホの画廊」ということを言っている。哲学史といっても、単に古典的な学説をあれこれ集めてきて展示して見せるだけでは、単なるアホの画廊に過ぎないというのである。「なぜなら、博識とは、単に無用な事柄をどっさり知るだけのことだからだ。」
 ヘーゲルは、自分の哲学体系の最もまとまった叙述に「エンチクロペディー」の名を冠したが、この言葉は要するに、今で言う「百科辞典」である。ヘーゲルも、最初は、「哲学の全領域を扱う」という網羅的な意味でこのタイトルを付けたようだが、哲学史において「アホの画廊」を排除しようとする彼のことだから、百科辞典と言えども、単なる知識の集積にはしないのである。そして、そのために必要なのは、内在的な論理である。つまり、あらゆる知識をまとめあげ(統一し)、配列する原理である。それがいわゆる弁証法的展開である。そのことは、ヘーゲルのおける叙述が、常に論理的展開と歴史的順序の二つの側面をあわせ持っていることからも理解できる(『精神現象学』では、これが更に「人生」の経過とも重ねられる)。つまり、ここで重要な働きをしているのは、ものごとを前へ前へと進める推進力としての「時間」なのである。
 普通、「百科辞典」はアイウエオ順であるとか、アルファベット順であるとかで並べられる。だから、「中世」と「近代」よりも、「近代」と「金玉」の方が近い関係にあることになる。勿論、その関係には何の意味もない。それは偶然の関係である(アリストテレスなら「付帯的」な関係だと言うだろう)。しかし、ヘーゲルは勿論そんなことでは満足しない。だから、アイウエオ順、アルファベット順といった恣意的な順序ではなく、内的な連関がなければならないのである。
 哲学に「百科辞典(百科全書)」の概念を初めて持ち込んだのはディドロであったが、彼の「百科全書」理解は、ヘーゲルに比べて遥かに散文的である。そもそも、ヘーゲルがエンチクロペディーを一人で書いている(あたかも絶対精神が一人で世界を作るように)のに対して、ディドロは多くの項目を自分で書いたとは言え、あくまで彼の立場は編集者にとどまるのだ。それは様々な執筆者の、ばらばらな、統一性のない見解や寄せ集めの知識が陳列されているにすぎない。ヘーゲルに言わせれば、そんなものは「アホの百貨店」だと言うだろう。しかし、逆に、ヘーゲルのエンチクロペディーでは、個々の内容は、それ自体が意味を持ち得ないのである。なぜなら、意味を決定するのは、それら自身ではなく、全体の理念だからである。これに対してディドロの「百科全書」では、個々の項目そのものに意味が込められている。
 例えば、「百科全書」には何故か、「スキタイの羊」という項目がある。「スキタイの羊」とは、ある種の植物のことであって、スキタイ、即ち中央アジアにあるとされていたもので、その木の枝同には羊がなって、ぶら下がっているというのである(南方熊楠は「ダッタンの羊」として紹介している。例の「ワクワク島の乙女」の羊版である)。
 この項目が「何故か」百科全書にある、というのは、勿論そんな木はありはしないからである。羊歯植物か、綿花の見間違いがヨーロッパにそう伝わったのだろうなどと推測されている。そして、「百科全書」の執筆者兼編集者であるディドロも勿論そんなものを信じてはいないのである。しかし、百科全書はすべての知識を網羅するのだから、こんな項目も許されるのである。しかも、しかし、実はこの項目にはちゃんとした存在意義がある。ディドロは、こんな、誰も見もしないものを、「文献」に載っているからといって、そのまま信じることの馬鹿さ加減(権威主義)をおちょくっているのである。つまり、「スキタイの羊」とは、一種の「擬態」なのである。これは、一体誰が何を書いているのかさえ判然としない「百科全書」だからこそ可能なやり方である。「擬態」は編集者の特権なのだ。
 こうした擬態は、他にも数多く見られる。なぜなら、当時は歴とした「検閲」が存在したからである。もっとも、当時の検閲官(国家の出版管理機関)の中には、ディドロの友人もいたから、発禁措置などについて予め情報はだだ漏れであった。しかし、ディドロが相手にしていたのは、国家的な検閲だけではない。宗教界、学界、宮廷を始めとする世間そのものが検閲機関であったと言える。そうした検閲を潜り抜けるためには、先鋭な主張に隠れ蓑を被せることは不可欠だったのである。


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