結合通信(2回生配当)17:

 おじさま、私たちの船は今ちょうど南回帰線を超えた辺り、計算では南緯24度2分西経38度40分の位置にいます。ブラジル海流に乗って万事順調。明後日には、サントスの港に寄港します。
 あちらでは、フンボルト博士が私たちを待っててくれる予定。というのも、私たちの船には、彼の新しい四分儀と木星観測用の望遠鏡が積んであるからです。博士が先に寄港した港では、宣教師たちが幅をきかせていて、連中の大嫌いな(そして博士の命より大事な)測定器がみんな取り上げられそうになったのです。博士自身も領事官邸に軟禁されて、大好きな植物採集やスケッチも、もちろん地磁気の測定や天体の観測もできず、クロノメーターひとつで2日もすごしたそうです。「経度はそれで計算できたけど、なんと心細かったことか」と博士は後に冗談混じりに(でも半ば本気で)私たちに云いました。
 その後のちょっとした活劇については、あまり書くわけにはいきませんが、「男爵」っていう、当地のものすごく強い柔術家の人が手を貸してくれました。博士は無事脱出し、測定器は追手の目を晦ますため、カモフラージュされ、私たちの演習船に乗って港を出発したという訳です。

                           水曜日

 サントスにつきました!
 博士はあいかわらず、話をするときも、馬の上でも、カヌーに乗っていても、かぎ煙草入れ型の六分儀をいじくって、いつも太陽の高さや川の湾曲度を計っています。そうしないと落ち着かないんです。「赤ん坊のおしゃぶりみたいなもの」だそうです。
 そうそう、博士といっしょに月食の観測をする約束をしました。この間の「活劇」と観測器を運んでくれたお礼にと、博士が誘ってくれたんです。
 観測に絶好の岬があると、私たちは港から昼の間に歩いて移動です。その間にフンボルト博士といろんな話をしました。

 「あ、航海年鑑」
航海年鑑というのは、月の満ち欠けと位置など天体の位置を日時ごとに表(テーブル)にしたものです。海の上を航海するとき、一番大切なのはサワーキャベツをおなか一杯食べること(ビタミンがいっぱい取れる食事をして壊血病を防ぐこと)ですが、その次に大切なのは、自分の位置を知ることです。海の上は目印(ランドマーク)がないので、何かの方法を使って経度と緯度を知らなくてはいけません。経度を知る一番手っとり早い方法は、正確な時計(クロノメーター)を持って行くことです。クロノメーターはある特定の子午線(1884年以降はイギリスのグリニッジ天文台を通過する子午線)の標準時刻に合わせておきます。そして行く先々の地点の標準時刻(太陽の南中時刻-一番高く上がった時刻-が午後0時です)と、クロノメーターの時差から、経度が分かります。地球は1日(1440分)で一周(360度)しますから、4分の時差が1度の経度差に当たります。……ところが、長い航海でもどんなひどい環境におかれても狂いの生じない特上のクロノメーターは長いこととても高価でした。それで航海士のために、天体を、例えば月の運行を時計の針に見立てる方法が(航海天文学として)発展しました。月の運行計算は大変複雑ですが、一度誰かがやっておけば、誰でもその結果を用いることができます。標準地での計算結果と当地での観測結果のずれから同じように経緯差を知ることができます。航海年鑑はそれらの計算結果を載せたもので、航海士のために毎年出版されているのです。
「博士、航海年鑑ですね。船から持ってきたのですか?」
「いいえ、これは私専用に、いつも持ち歩いているものです」
「これも『赤ん坊のおしゃぶりみたいなもの』ですか?」
フンボルト博士は笑って答えました。
「半分はね。私はいつも、海の上で航海士が自分の位置を確かめるのと同じことを、地面の上でやってるのです。かぎ煙草入れ型の六分儀は携帯用ですが、そっちの馬にはハトレー四分儀や羅針盤や経緯器を積んでます」
「陸の上の航海術ですか?」
「そうです。私に必要なのは迷わないための道しるべ以上の、精密な地図です。ヨーロッパでも当地の地図がいかに頼りにならないか、思い知りました。山一つ分、平気でずれていることもあるんです。私の研究の一つに世界各地点での地磁気の測定がありますが、その結果を書き入れる地図をどこに行っても私たちは手に入れられませんでした。
地元の人々は隣町にいくのに何日かかるか、自分たちの背中に控えたあの山の頂上へいくにはどの道をいけばいいか知っていましたが、いったい何km離れているのか、頂上の高さは何mなのか、いっさい知りませんでした。学者たちも同じです。これは日常生活では目印や道順さえ知れればそれほど精密な地図が今まで必要とされなかったと言うこともありますが(おかげで陸の地図は海図よりも正確さについては50年は遅れていました)、かつてなされた誠実な測量も、時計制作者の仕事のおかげで(他にも観測機器の精度向上のためでもありますが)、今ではすべて怪しげなものになってしまったのです。だから進むごとに地図を作り、地図ができるごとに進むというやり方をとらなくてはなりませんでした」
他の計器も見せてもらいました。
「このクロノメーターは、見た目が懐中時計とかわりないから、没収されずにすみました。でも、時計の時間を見られたら、グリニッジ標準時だからばれたかもしれない」
「こっちはバロメーター(気圧計,晴雨計)ですか?」
「ええ、でも天気の予想というより、高度計(altimeter)に使ってます。これは失敗がありました。高い場所へ登るとそれだけ気圧が低くなってそれで高度を測定するのですが、バロメーターが変化し切るのに、たっぷり1~2時間かかるのです。せっかちな相棒に急かされた旅で、あとから測量結果と照らし合わせたら、随分誤差がありました。計器の故障に気付かなかったのかと思ったのですが、原因は私たちの性急さにあった訳です」

 博士の生まれたヨーロッパでは、フンボルト博士は「旅する研究所」とあだ名されてます。博士より10年前に世界探検に出発した、ラ・コンダミン博士は、お供に植物学者、医者、数学者、写生官、時計細工師、機械制作者などを連れていきましたが、フンボルト博士は彼等の技能を残らず身につけているので一人で十分なほどです。フンボルト博士は、旅の各所で、最高精度の経緯度の測定、地磁気の方向・傾斜・強さ、大気圧の数値分布や含有酸素量や空中電気、植物の採集等を、ほんの数人の仲間で行なって幾のです。ここでいう「せっかちな相棒」のボンプラン氏は、博士の親友でパリの開業医で、何にもまして登山家兼探検家です。「彼の診察を受けるくらいなら……」と博士は言いますが、ボンプラン氏の決断力と勇気は何よりも(博士の大事な計器と同じくらいに)信用をおいてるみたいです。「つまり彼は病院で患者を見てるより、こうして旅をしていた方が世の中に訳に立つのです。少なくとも誤診される病人が増えない分だけ」。件の「急かされた旅行」も、ボンプラン氏が当地の不安定な政情を鑑み、危険を避けるべく奔走した結果なのだそうです。時に自分の命よりも観測を選んでしまう博士がなんとか無事に観測旅行を行なえるのは、かなりの部分ボンプラン氏に負ってるみたい。
 そのボンプラン氏の話。
「聖職者はどこでも、いや辺鄙なところへいくほど、ぼくらの観測を目の敵にするみたいだ。奇跡を解剖し、信仰に疑いも持たせるとでも思うんだな。なにしろ、あの老ゲーテだって、光学装置を忌み嫌っていたからね。まったく中世に生きていやがるんだ。敬虔な土地の人々も同じことで、あるところでは(それもヨーロッパでだぜ)、30人くらいの村人に取り囲まれたことがあるな。ぼくらが月に祈りを捧げていやがるという訳さ。邪教のふるまいだとね。実際フンボルトはそのとき、セクスタント(六分儀)覗いて月の高さを測ってた。そしていきりたってる村人に『うるさい、じゃまだ』」
「うわあ。……あの、今晩は月食観測ですよね」
「そうだなあ。月見てるだけであんなだから、こんな南米の海岸で、月が食われるの見ていた日には……」
「こらこら、馬鹿なこというもんじゃない、ボンプラン。お嬢さんたちが驚いているじゃないか。……そういうことがあってからは、夜の観測には、人のいないところを選ぶようにしてるのです。他にも余計な光が入らなくて、具合がいいですから」

 「ボンプランはね、私たちの旅を『バロメーター旅行』と言うんですよ」
「ああ、君はしょっちゅう、足を止めてはあれを覗いてたからな。その度に1時間あまりの小休止だ。ちっとも先に進みやしない」
「ほら、このとおり。もう少し気が長ければいい相棒なんですけど」
「博士はバロメーターでその山の高さを測ってるんですよね。どうしてそんなにしょっちゅう測定しなきゃならないんですか?」
「ああ、お嬢さん。私は高さよりもむしろ『山の形』を測っているのです。それにはできるだけ詳しく、それぞれの土地の高さを知らないと。つまりです、私たちは、ちょうど真上から見た、普通の地図も作りますが、それより重要だと思っているのは、上から巨大なナイフを下ろして切り分けてみせた、その地域の断面図です。私は若い頃、地質学という学問をやっていて、それで口の悪い友人(そこにいるのもその内の一人です)、私を「山師」と言うのですが、金や銅を探す調査なんかをしました。大きい鉱山に縦横無尽に穴を穿つのです。縦穴、横穴、たくさんのトンネルができて、その中のどこから銅がとれたかなどを記録するのです。元より鳥になって見下ろしても、地面の中は見えませんよね。地図というのは、そういう上空からの視線によって描かれた平面図なのです。かわって私たちは、トンネルの地図のためにたくさんの断面図を描きました。7号トンネルが実は3号トンネルのすぐ下を通ってる、そういうことが分からないと、新しいトンネルで古いトンネルを壊してしまうからです。それともう一つ、私たちは断面図を見ることで、はじめて鉱山がどんな形をしてるか、知ることができました。私たちが旅できるのは、道に沿って、つまり一本の線の上でしかありません。地図なんか作っていますが、その面の上すべてを走破できたわけではない。けれど私たちが歩いてきた起伏がどんな線を描いているか、それはどんな「形」の上を歩いてきたからそうなったのか、そういうことを記していくことが必要なのです。山という奴は、頂上だけでできているのじゃない。てっぺんに登ったつもりが、実は向こう脛をかけ上がってようやく、膝小僧まできたところだということもある訳です」
博士は一枚の断面図を見せてくれました。
「あともう一つは植物です。見えますか、あの山の頂上に雪が残ってる。ここはこんなに暑いのに。緯度で言えば、あの頂上はここと同じくらいですよ。北半球なら北へいけば、ここ南半球なら南へ行けば、気温がさがることは誰だって知っています。あともう一つ、高く登ればやはり気温はさがっていく。おおよそ100mにつき0.6度の割合で。私たちはこの大陸で、赤道直下にすばらしい山を見つけましたよ。何千メートルもあって、そのふもとは熱帯雨林のジャングルなのに、頂上は雪と氷の氷点下の世界なのです。この図がその山のデータですが、この山ひとつで夏から冬まですべての季節を抱えてる。言い替えると、この山一つが、赤道直下から北(南)極まで、地球の気候をまるごと持っている。熱帯、亜熱帯、温帯、亜寒帯、寒帯……、それぞれの気候に生息する植物層が、この山ひとつにすべて登場します。こいつは地球のミニチュアです。大切なのは高度なのです。これには横から見た断面図をもって記述するほかない。なにしろ北(南)へ行くかわりが、上へいくことになる訳ですから」

(つづく)




目次へ
inserted by FC2 system