結合通信(2回生配当)15:

 今日は洗脳学の授業。先生は、元EST(エアハルト・セミナー・トレーニング)のトレーナーで、今は自分の学校で、洗脳師を養成しています。
 「やあ、たくさん集まったな。
 これから君達を洗脳するとしたら、----仮定の話として聞いてくれ----、さてまず何をするか。薬物やマイクロウェイブ、これは高くつくから、使わない。あとで話すつもりだが、洗脳のテクニックは総じて高くつく。そしてもっとも洗脳しやすいのは、そんな費用を負担できない、つまり自分では洗脳のテクニックを自分で用いることもできなければ利用することもできない連中だ。これは覚えておくといい。
 さて、この教室に入っている100人だかの人間を洗脳する場合、まずこんな風に出入り自由なのはいけない。それと整列された椅子にすわらせるか、もっとすし詰めにして、とにかくその場で自分の意志では動けないようにすることだ。騒いでるなら、黙らせる。皆をいっせいに、こちらを向かせる。
 洗脳の目的は、誰かの意識を自由にコントロールすることじゃない。可能だが、これだけの人数を相手にすれば、コスト(手間暇)が馬鹿にならないし、4割ほどは廃人になると見積もっておかなくてはならない。そして大抵の場合、そんなことは必要でない。状況に順応し、命令に従順であれば、君達が実際には何を考えていようが、私にはどうでもい。私が望むのは、国歌を涙ながらに歌う人間ではない。その場で国歌に異議を唱えずだまって立っていられる人間、「厳粛」な儀式をあえてぶち壊しにしようとはせず、意に反することであろうとそうやってやり過ごすことのできるだけの人間だ。
 とにかく私は、君達に一つの動作をさせるだろう。深呼吸してもらっていいし、軽く片手を上げてもらってもいい。こうして少しずつ君達から自由を奪っていく。
 そんなことが何になるのか、と君達は思うだろう。息を吸うにしろ、手を上げるにしろ、私は私の意志でそうしているのだ。その証拠に、私はいつでも自分の意志でそうしないことができる、と。それこそ私の思うところだ。君達の自由意志などには興味はない。だから、それは丸まま残しておいてやろう。
 自分の意志で息を吸ってる人間は少ない。自分の意志で息を止めて死ねる人間はほとんどいない。人間は多くの場合、意識と関係なく、定められたとおり動作する。それを「自由意志」が追いかけるだけだ。この仕組みは私にとって好都合だ。人間は操られることを好まない。アメリカの著名な心理学者B.F.スキナー教授は、「人間は自分が環境によって形作られる有機体にすぎないということを、受け入れようとしない」と云っている。彼は著作『自由と尊厳を超えて』で、人間がかかえる唯心的なもの----自我だとか人格だとか魂だとか精神だとか、その他好きなように呼んでさしつかえのないものが、存在するという観念が、社会的なトラブル(社会神経症)のすべての根源だと断じている。さらにスキナーの考えでは、アメリカの平均的な男女は、自分にとって何が好ましいことなのか理解できない。だから適切なマインド・プランニングが必要なのだ。彼は自身のオペランド行動の理論を基礎に、マインド・プランニングに必要な技法----、昆虫から人間にまで有効な「行動修正」のプログラムを開発した(事実それは多くの病院や刑務所や感化院や学校で用いられている)。また同様にプログラム学習やティーチング・マシンを開発した。スキナーや彼の崇拝者(操作主義教育学者、新行動主義心理学者たち)は「洗脳」とはいわない。「洗脳」というのは、「革命」という言葉とおなじく、中国の『孟子』に起源を持つ言葉だ。
 スキナーの「操作主義」は、今云ったように、結果として有益なものを生み出したが、その「人間観」はまったく浅薄なものだ。私が「好都合」と云うのは、スキナーが否定した「唯心的なもの」の機能のことである。この「唯心的なもの」のおかげで、私はスキナー教授よりずっと容易に、つまりコストをかけず、人を「操作」することができる。マインドコントロールに「心理操作」の必要はなく、実際には「行動操作」だけが必要であることを示した点でスキナーたちは正しい。ただし、スキナーたちが「成功」したのは、彼らが否定した「回路」を通じてだ。スキナーは人間精神についてあまりに無知であり、そしてあまりに無邪気に「神」の役割を担おうとする平均的なアメリカ人にすぎない。
 「信念」の形成について一例をあげよう。ある娘は父親に気に入られたいという理由で、子供時代ずっと「よい子」で通した。ところで彼女は「よい子」を続けるうちに、決して父から満足に愛されなかったにもかかわらず、「よい子でなければ、父に愛されない」という信念を強めていった。「よい子は愛される」という「仮説」を検証する証拠はどこにもなく、むしろ反証ばかりが次々彼女の前に現れたにもかかわらずだ。何故なら彼女は実際に「よい子」としてふるまったから、つまり「よい子は愛される」というのが否定されれば、彼女のこれまでの行動がすべて水泡と化すからだ(彼女の「精神」には、それが自分のすべてであるように感じられる)。世界には「救われ」もせず、その当てすらないのに、今だ神を信じ続ける人間が億の単位でいる。
 実際にそうさせることが肝要だ。だがスキナーたちは、警察力や国家権力や苦痛なしで、人間を彼らの「診療椅子」に座らせることができない。だが私は、必ずしも恐怖や苦痛を必要としない。必要なのは「理由」だけだ。例えば君は、今の自分に不満足だ、能力を発揮できていない、自分を内側から変えたいと思っている。私は君に、たとえば効果ある「呼吸法」についてアドバイスするだろう。これで君を私の好きな仕方で呼吸させることができる。もちろん君は自分の意志でそうしているのだ。あるいは君はどこか身体の不調をおぼえている。そうしたら私はそれを直す「体操」をレクチャーする。これで君の身体は私の思うままだ。私は「理由」を提供するだけだ。君には私に従う「理由」がある。逆にいえば、私に逆らう理由ががない。
 君が人の社会で生きていくように教育を受けたなら、理由のない限り、人の命令に従うように作られている。そうでないもの、「正当な理由」なしに権限委譲を拒むもの、「義務」を怠るもの、まっすぐ歩けないもの、じっと静かにできないものは「できそこない」だ。治療されるか、隔離される。そういった人間には薬物や電気ショック、マイクロウェーブを使う理由がある。我々はそういった連中を残らず「診療椅子」にしばりつける制度を有している。そして「まともな人間」ならば、命令を実行する。多くの人間が決められた時間を守ろうとする。遅刻すると分かれば早足になる。遅れそうになれば、罪悪感や不安を覚える。そして実際に不利益を被るだろう。こうして繰り返し彼はプログラムされるという訳だ。
 洗脳にとって最大の障害は別の洗脳だと考えられている。実際はまったく逆だ。すでに洗脳されているが故に、別の洗脳が可能になる。あらゆる信念形成や信仰や教育が私の用いる回路となる。そして洗脳されてない/されそこなった「できそこない」、これは数が少ないから、多少コストをかけてもかまわない。アクネチン(スクシニルコリン塩化物)という薬物を投与されると、横隔膜を含む骨格筋への神経伝達が阻害され、窒息感や溺死感を覚える。まず指先が、続いて腕と脚が鉛のように重く感じられ麻痺してくる。しびれは胸のあたりにも及び、横隔膜が麻痺して空気を吸い込めなくなる。息ができず、窒息するんではないかという恐怖を覚える(しかし実際に死ぬことはない)。これは「嫌忌療法」として、カルフォルニアの最も「開けた」刑務所や精神病院で、社会病質者やアルコール中毒者や同性愛者を治療するのに通常使われている。「暴力や反社会的行動と薬物・電気ショックが生み出す不快感との間に強い連想を作り出す」という療法だ。アクネチンは、どんな知能の低い者にもはっきりと不快感を(あるいは死を)味合わせることができるし、どんなタフな受刑者にも2、3回の投与で反抗心をなくすことができる。プロリキシンという本来は強力な精神安定剤も、強く持続的な嘔吐感を生み出すため、同様の目的で使用される(精神安定剤なので、医者であれば「手におえない患者」に対し、いつでも正式に処方箋を書くことができる)。




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