History of computer1

どうしたらぼくは、あのひとのマニュアルになれるのだろう。/コンピュータの歴史

ぼくらは、コンピュータで何か出来ると思っていました。
    (めんどくさい)
        預けてもいない預金を引き出したり、大嫌いな学校や病院をめちゃくちゃにしたり、今ここにいない人にコンサートのチケットをとってあげたり、そういう「大人」なら面倒くさくて、とてもやる気にもなれないことも、簡単にやってのけられると思っていました。
        コンピュータ自体が相当「面倒くさい」ことが知れたのは、随分前のことです。
    (すごいちから)
        АСУП(アスプ、企業自動管理システム)を開発した、ソビエト連邦最高会議代議員、ウクライナ科学アカデミー副総裁、ウクライナ科学アカデミー付属サイバネティック研究所所長である同志グルシコフは、次のように言いました。
「АСУПの経済効果は、普通年間の支出減で測ることになっていますが、それだと、公式の数字で464300ルーブルと言われています。
「АСУПへの投資が普通の旋盤や機械への投資より2倍半から3倍も有利だと言うことを、あらためて確認しましたよ」
同志グルシコフは、位相数学を専門にする優秀な「抽象」数学者であるだけでなく、5等級金属工であり、7等級電気工でもあり、総じてコンピュータの専門家である以上に優秀な労働者でもありました。
    (われらが敵、コンピュータ)
        同じく工場労働者であったシモーヌ・ヴェイユという人は、「大嫌いなもの(我々の文明の三つの怪物的疎外者)」として次の3つをあげました。すなわち「金」と「機械主義」と「代数」です。
        その全部の統合として、「大きなコンピュータ」はこの世に生を受けることを知らない人はあまりいません。
        (「兵器」としてのコンピュータ)
            コンピュータってのは、そもそも軍事目的で作られました。だから出生からして「兵器」です。「兵器」だから金を注ぎ込むのは当たり前で、注ぎ込むばかりで全然世の中潤わないのも当たり前なのです。
            ところが「兵器としてのコンピュータ」というのは、今や前時代の遺物になってしまいました。早い話が役に立たないからです。それは当時と今とでは、戦争の仕方が変わってしまったからでした。
    (特別の神官)
        何しろ「コンピュータ」はその頃、とても大きくて、取扱もすごぶる大変で、普通の人は目にしたり手を触れたりしただけで、癒すことの出来ないトラウマを負うと信じられていたので、よく知られているように、僕らの代わりにコンピュータと口を聞いてくれる「特別の神官」という人達がいました。コンピュータは、まるで神様みたいに「ものすごくて」、特別の神官しかアクセスすることが出来なくなっていました。
        コンピュータがどんどん小さくなり、「石頭」(計算と記憶しかできない、融通の利かない、知性の非人間的奇形発達の象徴)にまで落しめられた後も、それはあまり変わりませんでした。
    (ブラックボックス)
        コンピュータを教わりに行くと、かならず「ブラックボックス」と言う言葉を聞かされました。その後、先生はいつもこう言いました。「あなたたちはユーザーだから……」
        コンピュータの「中身」を理解する必要はない。その「恩恵」に浴するだけでいい。
        「恩恵」を受けるために必要なこと、つまりそこで学習すべきことは、「原理」などではなく、「作法」でした。
        「理解は不用、忠実に従え」
        コンピュータを最初に「習う」と、「(ちゃんとそこにあるのに)そのキーに触れてはいけません」「マニュアルにある順序で操作してください」と「マナー」を教えられ(しつけられ)ました。何か「指示」されるたびに、ぼくらは「どうしてですか?」と聞き返したくなりました。けれどぼくらはそうしませんでした。先生が何か「知っている」とは思えなかったからです。
    (原理)
        けれど「原理」を教えられても、結局何の役にも立ちませんでした。
        というのは、「原理」はいつも「二進数」だとか、なんだとか途方にくれるものばかりだったからです。
        誰にも「部品」から「全体」を組み立てることは出来そうにありませんでした。
    (パーセプトロン)
        デジタル(ノイマン)/アナログ(ウィーナー)
            コンピュータが「でじたる」なものになったのは、そんなに昔のことではありません。「計算」なら、「あなろぐ」コンピュータの方がずっと速いので、昔のドミナントは「あなろぐ」でした。サイバネティックスを始めた近目のウィーナーは(もとは百科事典売りの仕事をしていました)「あなろぐ」な光学的コンピュータを作ったし、情報理論のシャノンも1962年にもなって、「これからはネオ・アナログ・コンピュータの時代だぜ」と言ってその世界を沸かせたりしました。ことによると、悪魔との呼び名の高いフォン・ノイマンの誘いにぼくらはうっかり乗ってしまったのかも知れないのです。
        1次分離/バックなんとかで非線型/ニューロ
            一度抹殺されて、80年代に入って復活してきたニューロ・コンピュータですが、抹殺された初代のそれを「パーセプトロン」といいました。100個の光電管からなる「人工網膜」、出力装置としてブラウン管、そして脳髄を模した本体部分は「学習」するに従って、「ノイリスタ」と呼ばれる素子が網状に連結を増殖していくという代物でした。パーセプトロンの「学習」=「教育」はさながら犬の調教で、人工網膜からの入力に対してブラウン管に「正しい出力」が出力が出れば、「Yes」、「誤った出力」が出れば「No」の刺激を与えてやると言うものでした。
            今では、パーセプトロンの「能力」(の限界)は、数学的に証明されていますが、怪しげな実験の噂におひれはひれがついたのか、命令に従わないパーセプトロン、注意散漫になって間違いを犯すパーセプトロン、「もはや生き続けることは出来ない」とブラウン管に表示して、学習の成果をすべて消去し「自殺」してしまうパーセプトロンなどがいたという話が残っています。
        (謎の死)
            開発者のローゼンブラッドが突然事故死してしまい、すべては闇の中に消えてしまいました。
        アンチパーセプトロン
            ミンスキー
                こびと理論
                    小さな人間(ホモンクルス)のこと。心理学では、人間の行動が、その人の「奥深くにいる別の人間のようなもの」(たとえば魂とか精神)に依存するという、非生産的で矛盾した考え方。(その小さな人間の行動は、その「奥深くにいる」もっと小さな人間に依存するとでもいうのだろうか?以下、同様 and so on...)
                「心の社会」
            ヒュームの内観踏査報告によれば、自我なるものは存在せず、そこに見出し得るのは、「知覚の束」あるいは、
                「諸知覚の共和国」
 「存在するとは知覚されることである(Esse est percipi.)」=仮想現実
 バークリーは「抽象」を退けることで、比類なき観念論に到達した。バークリーによれば、存在するものはすべて、思考にとって現前する対象でなくてはならない。物体などというものは、それ自体実在する訳でなく、自我の中における(色、味、感触といった)表象の束にすぎない(→ロック対バークリー)。
 それでは、とヒュームは更に問うてみる。「私」、「私の心」、自我なるものは存在するや否や?何を馬鹿な。そう問うているのは一体誰なのか、考えてみればわかるではないか。しかし改めて問うてみれば、自我なる感覚印象はない(我々はさまざまな印象や仮説から「自我がある」と推論しているに過ぎない)。自我は知覚されない。したがって(バークリーに倣って「抽象能力」の乱用を制限するなら)、自我なる観念は存在しない。
 ヒュームは決して皮肉を云ってるのではない。彼はバークリーの論旨に賛同し、さらにそれを押し進めているのだ。ヒュームにもう少し「詳しく」語ってもらおう。----「自分」と呼ばれるものの中をもう少し詳しく見てみよう。そこで出会うのは、自我なんてものでなく、もっと個別的な、たとえば暑いとか寒いとか、明るいとか暗いとか、愛とか憎しみとか、苦しみとか快楽とか、そういったものである。こういった個別的な知覚なしに決して自分自身と呼ばれるものを捉えることはできないし、個別的な知覚以外のなにものもそこに見いだすことはできない。つまりこういうことだ。自我などというものは、それ自体実在する訳でなく、さまざまな知覚の束にすぎない。あるいは知覚印象・観念の一過的な構成の結果(うたかたのようなもの)にすぎない。
 どうしてそれら、現れては立ち消え/生まれては消費されていく個別的知覚・印象たちが、「私の感覚」「私の欲望」「私の思考」なんかに束ね上げられ、すり替えられてしまうのか(いかにして見聞きしたこと以上を語り、与えられた個別的知覚・印象を越えていくのか、いかにして「結果」であるにもかかわらず「原因」であるかのように機能するようになるのか=つまりいかにして「主体」となるのか)、その境位をヒュームは見ているのである。
    (なんでもできる)
        「コンピュータって何が出来るの?」
「おぼえたり、けいさんしたり、ならべかえたりできる」
「じゃあ、私と同じことが出来るのね」
        万能チューリングマシン
            チューリングマシン
                機械が計算するということ
                人が紙と鉛筆を使って計算するところを、最小の単位で実現したもの
                翻訳するチューリングマシン、設計するチューリングマシン、分類するチューリングマシン、作曲するチューリングマシン、証明するチューリングマシン、……。
                (テーピング)
                    テープと本体(テープヘッド)。
                        外部記憶装置(メモリ)と有限内容状態(頭脳モデム、Aレジスタ)
                    「黒板の前に立ち、文字を目で見て、頭に記憶して、文字を書く」のモデル。
                    チューリングマシンのテープは1次元である。
                        逐次処理の「記述」
                        テープの始め/終りのマーク
                        終らない機関/終りさえすればHappyEnd
                    「はじめに〜ありき」
                        事態の生起を、1次元の意味論モデルで記述するための魔法
                        「語り起こし」が、事態の生起に追い付く(「語り」が「事態」に平走する)
                        「はじめ」とは、あらゆる「事態」の始めである。ここにおいて、(てんでばらばらであった)「事態」が、「事態」全体=すべての「事態」として、取り扱われる。すべての「事態」に対して、「はじめの事態」が置かれる。「はじめの事態」は、単に置かれるのではなく、「すべての事態」に先行して、そして「すべての事態」を導出するものとして、置かれる。「始源」によって、「事態」は、「事態」全体=「事態」の集合として取り扱われ、さらに「事態」の集合に順序構造が持ち込まれる。すべての「事態」が残らず配列化される。諸「事態」(のシンタクス的構造)は、たかだか1次元意味論モデルで「記述」されるまでに退化する。
                        「はじめに言葉ありき」
                            さらにまさしく事態は反転する。「事態」はもはや記述されるのではなく、語られ口にされるものに過ぎなくなる。一度口にされたものである以上、それ以上の次元の意味論モデルは必要でない。せいぜいが、かつて語ったとおりにさえ語れば(かつて「最初」に語られた「語り」が、だから「事態」と「語り」の限界である)それで十分なのだ。
        (人工知能)
            前史−アルゴリズム・マシン
                単純に見えたアルゴリズムなるものの威力にみながびっくりしていた。なんだってできるのではないか?
            60年代−発見法(ヒューリスティック)の時代
                「知識」より「考え方」が大事。アルゴリズムの発見法が一般的に解決すれば、すべての問題が(人の手を借りることなく)コンピュータによって解かれるだろう。
            70年代−知識(フレーム)の時代
                一般的発見法(ジェネラル・ヒューリスティック)の挫折
                「知識」をどう組み込むか?
            80年代−AIの衰退
                AI挫折としてのニューロ復興
        でも今では、
コンピュータは、
                せいぜいが「ウソ世界」の常連さんになるくらいしか役に立たなくなりました。少し前なら、「たやすいことだよ、想像してごらん」だったのが、随分お金がかかることになりました。LOVE&PEACE
                        (コンピュータの歴史)
    最初の「計算機」は、山から切り出されたのではなく、海底から引き上げられたものでした。1901年、ギリシャ南方のアンティキテラという島の近くで、海綿をとっていたおじさんが発見したそれは、長方形の箱に目盛り盤と歯車がたくさんついていて、目盛盤には黄道十二宮の名前と1年の月数が刻まれていて、歯車は惑星の周期を機械化したもののようでした。いわば天体運動のモデルである「アンティキテラの機械」(推定制作年はB.C.82年)は、太陽の年周運動、惑星の出没・留・逆行、代表的な星座の出没、太陽・月の蝕の周期などが計算できました。
    親孝行な神学者ブレーズ・パスカルが歯車計算機を作ったのは1642年でした。その後、易経に凝って「これからは二進数だ」とはしゃいだり、命題に数を割り当てる(だいぶ後にゲーデル数として用いられる)なんてことを思い付いたり、計算機を改良したり(足算だけでなく、引算かけ算割り算まで出来るようにした。これは19世紀になって商品化されました)したライプニッツという人は、もちろんあまりその後のためになったことはしませんでした。さらにあとに、でかい望遠鏡を作って空を見ていたハシュールという人の息子でやっぱり天文学者になったハシュール.Jrに「めんどくさい天文学の計算をなんとかできないだろうか」と持ちかけられたのがバベージというおじさんでした。
    バベージという人は、「差分機関(ディファレンシャル・エンジン)」という機械の模型を作り、国から1500ポンドの助成金を巻き上げました。ところが技師や職人さんたちがいきなりストライキに入り、「差分機関」は完成しませんでした。
    


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