マールブランシュ × ライプニッツ

奇跡の経済学


 デカルトのアポリアは精神と物体がどのように関係するのかという問題だった。機会原因論は、この問題を受けて、精神と物体をよりラディカルに切り離すことを試みた。
精神と物体は関わらない。では精神はどのように身体や物体を認識するのか?その答は、神だった(→デカルト対ゲーリンクス)。神を媒介として、精神は物体を見る。マールブランシュの言い方では、「我々はすべてのものを神において見る」のである。
 こうしてまことに神は忙しいことになった。物体世界では指でキーボードを叩いている、これに合わせて精神の方にその様子を見せてやらねばならない。YだAだLだAだNだEだBだAだNだAだLだAだNだAIだ。おっと、今度は窓の外を見るぞ、空があって森があって、草がそよいでいる、鳥だって飛んでいるだろうし、虫だって動いている、ああなんてこったいおっかさん、それが蟻だったなんて、もう数え切れないや、オーマイガッって呼んだところで、そうだ俺が神だったのだ。それも一人だけじゃない、一体どれくらいいるんだ、おお神も仏もあるものか! ライプニッツは、そんな忙しい神に同情する。勿論ライプニッツだって、神ならそれくらいのことは出来るだろうと思う。しかし、それは如何にも効率が悪い。単に忙しいだけではない、そんな神は「ピーッ(○禁)」じゃないだろか?一々一々精神と物体を合わせるなんて、それは一種の「奇跡」のようなものだが、そうしょっちゅう「奇跡」ばっかりじゃあ、奇跡のインフレになってしまう。もっと頭のよい方法があるんじゃないのか。そうだ、奇跡は一回でいい。一々合わせるんじゃなくて、始めからぴったりと合うようにしておけばよい。精神という時計と、物体という時計が、寸分の違いもなく対応するように、予め作っておけばいいのだ。神はそれくらいの腕をもった職人なのだ。これがライプニッツの「予定調和」である。


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