デカルト × ゲーリンクス

精神と身体、松果腺と神


 デカルトの「我思う故に我あり(コギト・エルゴ・スム)」からは、幾つかの帰結が引き出せるが、同時にそれはアポリア(難問)への出発点でもある。例えば、「私が考えているという事実だけから私の存在は確かめられる」の逆として、「だから、私の存在を確かめるのには、他のものは必要ない」と言える。他のもの、というのは、要するに物体のことである。ここからデカルトは、精神と物体とは全く別のもの(別の実体)であるという帰結を引き出した。ここから悪名高いデカルト的二元論(実体的二元論)が生じる。
 この、さわやかとも言える程にすっきりした帰結がなぜ困るかというと、それでは精神と身体との関係がうまく説明できないからである。実は、デカルトは、他の人にあまりこんなところを突っ込んで考えて欲しくなかった。デカルトが意図したのは、「私は思う」というその確実な地点の確保と、後は方法論を確立することだった。逆に言えば、上のようなアポリアを生むような「形而上学」を打ち立てることは彼の好みではなかったのである。
 が、人々はこの点を放っておいてくれなかった。放っておかないばかりか、解決までしようとしてくれた。これが歴史(哲学史)の流れ、ヘーゲルの言う「理性の悪だくみ」というものであろうか。ああ、誰も僕のことを分かってなんかくれない! 或る意味で、デカルトに続くスピノザ、ライプニッツたちがそれぞれ平行論、予定調和説として提出したのもこのアポリアへの解答であったと言える(とするのが哲学史である)。しかし、スピノザたちの前に、この解答を試みたのが、いわゆる「機会原因論者」たちである。ここではゲーリンクスを取り上げる。
 ゲーリンクスは「僕がはっきり分かるものは僕がしたことだ」という凄い原理を提出した。なぜこれが凄いかというと、逆に言えば、「どうしてそうなるかが僕に分からないことは、僕がしたことじゃない」ということになるからである。デカルトは「私は考える」から出発したのだが、ここに至ってその原理は極端に狭められる。確かにデカルトも、「私は考える」の立場、要するに「意識」の立場を強調したのだが、ゲーリンクスはそれを対偶の形で考えることによって、無意識を発見すると同時にそれを排除するのである。しかし、では、この「意識されない」活動はどこからやってくるのか?答は一つしかない。「神」である。
 デカルトは、精神と物体=身体をあれほど明確に分けておきながら、その相互作用とか結合とかを否定しきることができなかった。彼は精神と身体との繋がる「場所」を発見してしまった。それが「松果腺」である。これは脳の中にあって、松の実の形をしているのでそう呼ばれるのだが、これがデカルトの言うように、精神と身体が繋がる「場所」だとすると、精神は身体の一部なのか? だからゲーリンクスはそうした馬鹿げた仮説はすっぱり捨ててしまう。「松果腺」が精神に繋がっているって?だとしたら、松果腺という身体=物体は、自分が何をしているかを知っているはずじゃないだろうか?だから、松果腺は精神に働きかけたりしない。勿論他の物質もだ。物質は意識を持たない。
 確かに僕は自分の腕が動いたり、内臓がぴくぴくしたりするのを「知っている」けど、それが精神の原因だとは知らないし、自分=精神がそれらを動かしているとも知らない。
 こうしてゲーリンクスはデカルト以上に二元性を突き詰めて、精神と身体を未練なく切り離してしまう。しかし、それは逆に言えば、精神でも身体でもないもの、神がうまく調整してくれているからである。神が原因であり、原因は神しかない。精神は身体に、身体は精神に直接働きかけることはない、ないけどれども、神を媒介としてつながっていると言える。また逆に、神によってしか精神と身体の相互作用は説明できないし、繋がっていない。まことに神は万能である。


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