ヘーゲル × シェリング

第一ラウンド後半−決別


 「世界精神が馬にのって通る」。
 ナポレオンを見たヘーゲルは、書簡でそう述べている。
 フランス革命後、ヨーロッパの命運を握ったナポレオンはドイツにも進駐し、イエナも占領した。1806年、10月13日であった。この時ヘーゲルの手に握られていた原稿が、やがて『精神現象学』と呼ばれる書物となるのである。
 ヘーゲルをイエナに招いたシェリングは既にヴュルツブルグへと移り、ヘーゲルが助教授となっていた。シェリングはシュレーゲル兄の妻カロリーネと恋愛関係に陥り、シュレーゲルと別れた彼女と結婚し、イエナに居られなくなったのである(1803)。
 イエナでのシェリングとヘーゲル、彼らはシェリングの同一哲学を中心として強固に結び付いていた。それから三年、ヘーゲルは今やシェリング同一哲学の最も強力な敵対者として現れる。そのシェリング批判が劇的に表現されたのが『精神現象学』序言である。
 そこでヘーゲルは、シェリングの絶対者を「全ての牛が黒くなる闇夜」と呼び、シェリングの方法は「ピストルから発射されでもしたかのように、直接的に、いきなり絶対知から始め」るものであるとしている。
 シェリングの同一哲学、それは精神と自然とを通底させるものであった(→ヘーゲル対シェリング 第一ラウンド前半、→シェリング対スピノザ 精神と自然、平行論)。
そのためにシェリングは、もはや精神でも自然でもない無差別としての同一性を絶対者として始源に置く。ヘーゲルが「全ての牛が黒くなる闇夜」と呼んだのは、シェリングのこうした無差別であった。簡単に言えば、「味噌も糞もいっしょくただ」というのである。
 これに対してヘーゲルが提出するのが、段階的発展の図式である。ドイツ観念論は、シェリングによって既に、自然を無視できなくなっていた。もはやフィヒテのように自我だけで済ますわけにはいかない。しかし、自然そのものを原理とすること(シェリング自然哲学)も、精神と自然とを同一視すること(同じく同一哲学)も認められなかったヘーゲルは、自然を、精神が精神として発展する段階であるとしたのである。自然とは、精神が自らを忘れた状態(精神の他在)である。シェリングはかつて、自然と精神との連続性を強調して、自然は眠れる精神であり、精神は目覚めた自然であると言った。これに対応させるなら、ヘーゲルにとっては自然とは病んだ精神である。その病を癒し、精神が自分自身を知るような地点にまで引き上げねばならない。その結果として精神は、主観性と客観性との統一としての絶対精神へと成長する(これはフィヒテ的な自我ではないが、結果として精神一元論ではある)。ヘーゲルの哲学の対象となったのは、こうした精神の自己生成の過程である。ここではなるほどシェリングと同様に、精神と自然とは同一化されはする。しかし、それは初めから同一なのではなく、段階的な過程を経て同一と「成る」のである。
 そのための方法として提示されたのが「弁証法」である。シェリングの場合、初めから絶対的なものが存在するのだから、これを一挙に掴まえてしまえばよい。そのための方法は知的直観という「ピストル」である。しかし、ヘーゲルの考えでは、精神が精神と成るように、認識も、過程を経て、つまり媒介的に(直接的にではなく)進んで行かねばならない。要するに、ヘーゲルが主張しているのは、「ため」がなくてはならない、「前戯」がなければならない、ということなのである(→ヘーゲル対スピノザ)。
 ヘーゲルの『精神現象学』には、他にも多くの図式が重ね合わされている。例えば、これは人類の歴史的発展を表現したものであり、人間の生涯の成長過程を描いたものでもある。十代で学位を得、二十代前半で大学に職を得た早熟のシェリングに対して、晩成型のヘーゲルは、自らの成長過程をこの著作に織り込んだと言えるかも知れない。この著書の序文は、シェリングだけを批判しているのではない。しかし、やはりそれまでの因縁からしても、この批判が最もこたえたのはシェリングである。ヘーゲルにこの著作を送られたシェリングは、恐らく序文だけしか読んでいない。今や二人の決裂は決定的となった。
 ヘーゲルの晩年、ラガーツの温泉で偶然出会った時、ヘーゲルは既にドイツ哲学の頂上を極めていた。シェリングに声をかけたヘーゲルを、シェリングは無視したと言われている。
 そして、ヘーゲルが死ぬまで、シェリングは雌伏を強いられることになるのである。
そして、彼の逆襲の舞台となったのは、奇しくもヘーゲル学派の中心であったベルリンだったのである。


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