ヘーゲル × シェリング

第一ラウンド前半−蜜月時代


 ヘーゲルとシェリング、それにヘルダーリンを加えた三人はチュービンゲンの神学生の仲良しグループ。フランス革命の知せを聞いて学校の庭でファイヤー・ストームをしたりしたし、ヘーゲルの遺稿の中に残されていた「ドイツ観念論最古の体系」という断片は、未だにヘーゲルのものなのか(筆跡はヘーゲルである)、シェリングのものなのか(内容的にはシェリングっぽい)論争が尽きない、それくらい密着した関係であった。
 しかし、ヘーゲルはシェリングよりも年長さんだったが、ちょっとボーっとしたところがあったので、才気渙発なシェリングの方が先に世に出ることになった。ヘーゲルはシェリングに導かれ、付き従う形で進んで行った。実際、ヘーゲルの最初期の出世作である「フィヒテとシェリング哲学の差異」(いわゆる「差異論文」)は、フィヒテを叩いてシェリングを持ち上げる、というものだったのである。この時既にシェリングはイエナ大学の助教授をしていたが、その同じイエナ大学に、ヘーゲルはようやく講師として登場することになる。
 ここで二人は協力して「哲学の批判的雑誌」というものを出した。無署名の論文は、これまたどちらが書いたのか分からないものもある。
 この時期のシェリング、そしてヘーゲルにとっての課題は、フィヒテ的な観念論をいかに越えるかということであった。シェリング初期の自然哲学は、フィヒテの主観的観念論を客観的観念論によって補完するという、話としては非常に分かりやすいものであった。フィヒテの哲学の原理が自我であるのに対して、シェリングの自然哲学の原理は産出的な自然の概念である。フィヒテでは絶対的な自我が世界を構成していくのに対して、シェリングでは創造的な自然が世界を形成していく。
 しかし、シェリングは自らの自然哲学を越えて、そうした精神と自然との絶対的な同一性を原理として立てることになる。シェリングのいわゆる同一哲学である。これは既に、もはや単なる主観的なものでもなく単なる客観的なものでもない、そうした絶対者を出発点におく。この時期のシェリングはスピノザの強い影響下にあり、同一哲学期の代表的著作である「私の哲学体系の叙述」(1801)は、スピノザの主著「エチカ」が採用している幾何学的形式を借りており(もっとも、出来栄えは『エチカ』よりも遥かに杜撰)、内容的にもスピノザ主義的と言われるものであった(→スピノザ対シェリング)。スピノザも、精神を構成する思惟と、物質を形成する延長とを唯一の実体の属性として統一し、その実体を体系の基礎に置いたからである。
 ヘーゲルの「差異論文」(1801)も、こうした同一哲学の観点からフィヒテとシェリングとの差異を明らかにしようとするものであった。
 しかし、この同一哲学の立場は、シェリングにとっては一つの頂点であったに対して、ヘーゲルにとっては「投げ捨てられるべき梯子」でしかなかったのである。この後二人には、明暗くっきりとした各々の運命が待ち受けているのであった。以下、緊迫の第一ラウンド後半を待て。


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