マッハ × ボルツマン

科学と仮説


 マッハが目指したのは、科学の方法についてのクリティーク(一種の「科学論」)であるが、それはいわゆる「科学論」の方法までもその射程にふくめている。マッハは科学(知識)の基礎について考え始めるとき、「世界について何か述べる」ということ自体を一旦棚上げする。(客観)「世界」とそれを認識する「主体」といった二分法は、科学だけでなく多くの科学論が前提としてきたものであるが、その分割の境界設定(→ボーア対ノイマン)、あるいは分割することそのものが間違っている可能性は否定できない。
 そこでマッハのいう「一般的方法論」は、(客観的)実在も、そして感覚も、前提としない。「感覚」について語ることはすでに一つの理論(仮説)を前提にしているからである(マッハ『感覚の分析』)。実在や感覚抜きで、しかし科学について何かいえること;科学の要素は、結び付き合って、より高度な複合状態を作るだろう。その作り方は様々だが、よりましな作り方があるだろうし、その基準として「より単純な」複合状態を採用するといったことはいえるだろう。いたずらに理論を複雑にすることは、こけおどし以上の何の益もないからだ(「思惟の経済」)。
 ここではまだ「要素」は何ものでもない。さて、マッハの目的は、科学及び科学論のクリティークだから、ここまで諸前提を棚上げした後には、少しずつ注意深く選択された前提を再び採用して、実際の科学との突合せを行なうことになる。ここで「要素=感覚」という宇宙論的仮説を採用する。これは「認識」を取り戻すのに、最低限必要な前提である。ここにおいて原子論やニュートンの絶対空間が吟味されるのだ。
 マッハのやろうとしたのは、原子や絶対空間といった「形而上学的仮説」の廃絶というより、むしろ科学の仮説性を再構成してみせ、明るみに出すことだった。「要素としての感覚」にしてもクリティークのための仮説であって、それ自身クリティークを免れないのは明らかである。ここを外すと、単なる「要素感覚一元論」となり(それこそ「形而上学」だ)、科学は仮説抜きでなければならない、「仮説抜きの科学」としての「現象論的物理学」こそあるべき姿だという、「マッハ主義」に堕してしまう。
 さてその「マッハ主義」に、余計な仮説だと原子論を批判されて、ボルツマン(ウィーン大学でマッハの後「自然科学の方法と一般理論」の講座を担当した)は、マッハら「現象学者」に対し仮借ない反撃を加えた。ボルツマンの批判は、直接にはマッハやヘルムホルツのエネルゲティークに対するアトミスティークの擁護といった形を取るが、しかし対立の根はもっと深い。ボルツマンが批判するのは、「現象論的物理学」のいう《仮説なき物理学》の主張である。
 ボルツマンによれば、科学はいずれにしろ仮説的であり(しかしこれはマッハが示してみせたことでもある)、仮説的部分を持つが故に、経験(事実)を越えている。これが科学「理論」の価値である。ボルツマンは、「経験(感覚要素)一元論」に対して、「事実と理論の二元論」を主張する。このことは次のような帰結を含んでいる。科学は経験の結合術ではない。故に科学の進歩は、経験の増大に沿ってなめらかに連続的に進むことはあり得ない。理論は仮説的であるが故に、その発展はある時には停滞しある時には跳躍する/常にギャップをはらむのである。これら主張の先駆性は(パラダイム論(→ベーコン対クーン)はもちろん相対性理論も量子力学もまだなのだ)、この後ノコノコ論理実証主義者がやってくることなど信じられないほどである。


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