ボーア × ノイマン

量子力学の解釈


 量子的系の状態をあらわす波動関数は、一般に相異なる固有値に属する固有関数の重ね合わせになっており、観測によって得られる物理量としてどの固有値(固有関数)が選び出されるかは確率的にしか前もって知ることはできない。しかし実験結果として得られる物理量は「決まった量」でなくてはならない。したがって観測の結果、物理量が取り得る値のいずれかが決定したとすれば、その瞬間に波動関数は(いわば一つの「状態」を示す固有関数へと)「収縮」する。これを「波束の収縮」という。よって量子的系の状態は、観測がなされない時にはシュレディンガー方程式に従って時間とともに連続的に変化し、観測がなされた瞬間に、飛躍的・非連続的に変化するということになる(「状態変化の二元論」)。
 このことをやや図式的に示したものが、有名な「シュレディンガーの猫」である。箱の中に閉じ込められた猫の生死は、センサーにつながる殺猫装置(青酸ガスなどを注入する)に決定される。そのセンサーの前には、微量の放射性物質があり、それからアルファ線が飛び出せば、センサーがそれを感知し、猫は殺されるのである。放射性物質からアルファ線が飛び出す(これは量子的系の状態である)、その確率は1時間で1/2、と確率的にしか知ることができない。実験を始めて1時間後、猫が生きている確率は1/2である。が、箱を開けて見れば、猫は生きているか死んでいるかのいずれかである。観測(箱を開けて見る)した瞬間に、波動関数は(いわば一つの「状態」を示す固有関数へと)「収縮」する。
 この「意識が物理的世界に作用を及ぼす」かにみえる「波束の収縮」は、確率的な量子系に対しても、二値論理的な(白黒はっきりした)、つまり古典物理的な「観測結果」を与えなければならない、逆に言えば古典物理的な概念で記述される「実験」の向こうにしか、量子系(あるいは量子力学的対象)は存しないという事態に依っている。
「量子力学の基本的な命題の定式化は、古典力学の概念を用いなくては原理的に不可能」なのだ。量子系と観測系について、それぞれ別の言葉(記述)を与えなければならない困難が、この「観測のパラドックス」の根源である。つまり「波束の収縮」は、ボーアにとって(そして正統な量子力学解釈において)、物理的過程ではなく、ただ「言語(記述)の切り替え」である(「記述における二元論」)。
 しかし古典的記述と量子的記述を使い分ける「コペンハーゲン式二重思考」には、当然批判が生じる。観測装置も、あるいは観測者も等しく「原子」でできているのであり(だから当然量子力学の法則に従うはずであり)、またミクロ−マクロといった区別もまったく恣意的にすぎず、対象自体にその区別が存する訳ではない。
 量子力学のひとつの帰結は、主観−客観の完全分離が可能にするところの古典物理学的「観測」の問い直しであった。対象系と同じく、観測者も量子力学の法則に従うはずであるという要請は、つまるところ「観測する主観」をこれまでのようには(古典物理学においてそうだったようには)、「物理的世界」の外には置かないということをである。フォン・ノイマンはこれを「物心平行論の原理」と呼ぶ。つまりこれは、「実際には物理外の過程である主観的な知覚過程を、あたかも物理的世界において生じたかのように記述すること、すなわち主観的な知覚過程を客観的な環境の中の通常の空間に置ける物理的な過程に対応させること、が可能でなければならない」という要請である。この要請にのっとるなら、観測系と対象系の境界は自由に移動可能となる。極端な話、その境界を観測系の方にいっぱいに近付ければ、「観測装置」も「観測者の脳髄」も対象系に含まれる事になる、つまり量子力学の対象になる(「実在における一元論」)。
 ノイマンらの「実在における一元論」は、ボーアらコペンハーゲン解釈が《陥る》「記述における二元論」を、ある種の形而上学を、免れているかに見える。事実、ノイマンは、それによって(安心して)科学として量子力学に取組み、その数学定式化の仕事をやりとげる(『量子力学の数学的基礎』)。ところが、「記述における二元論」を「実在における一元論」でもって《塗りつぶす》ことは、別の形而上学を導入することに他ならない。あらゆる観測者をも「対象」とする「抽象的自我」を要請するか(ノイマン)、あるいは固有関数の表す状態確率そのものを「それぞれ実在する宇宙の現れ」と見なし「多元宇宙」の実在を主張するか(ヒュー・エヴェレット)。


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