デカルト × フレーゲ

認識論と存在論


 デカルト以来、哲学ではかつてないほど認識論に注目があつまり、ごく最近までその傾向が続いていた。そこでの根本問題は「我々は何を知り得、またいかにして知り得たと言うことを正当化するか」ということであった。言い替えれば、懐疑論がどこまで論駁可能であり、またどこまで認めなければならないか、を見極めることだった。フレーゲはこの構図に異議と唱え、認識論を(同じことだが懐疑論も)迂回した最初の哲学者の一人である。フレーゲにとっては論理(学)が、他すべてに先立つのであり、それなしにはどんな理論も正しく展開することができない。逆に言えば、それを元に数学の哲学、科学哲学、形而上学、あるいは他のどんな哲学にも手をつけることができる。一方、認識論は、そのどれにも先立たない。コギトの命題を根本に「木」を構想したデカルトとは大違いである。〔デカルトの「木」;根(形而上学)−幹(自然学)−枝(機械学・医学・道徳)〕。
 知識論=認識論の立場から、認識論を経ない学は、どれも不確かで独善に陥ると主張することもできよう。しかしそんな見方がすでに認識論的である。認識論を迂回したものにとっては、事態はこう写るだろう。すなわち「真であること」と「真であると見なすこと/その正当化」は別物である。認識論や認識の心理学は後者を満たそうとするが、前者には何等貢献しない。我々がやりたいのは「真であること」でできた学なのだ。
 なおかつ主観−客観の分離を旨とする認識論は、主−客のインタフェースとして「観念」を持ち出すことになるが、この「観念」はフレーゲにすれば、問題を解決するどころかかえって混乱をまねくものである(→ロック対フレーゲ)。また、例えば数学的真理に対して、主客の一致という認識論の真理観を持ち込むことは、真理を二重化し、また存在を二重化することで不要な問題を生むことでしかない(数学的対象は本当に存在するのか?存在するとすれば、人間精神によって創造されたのだから主観の中にか?/いや主観から独立した客観的に「実在」するのだ等)。


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