ロック × フレーゲ

観念について


 「人が話しをするとき、彼が言葉によって表しているのと同じ観念を、聞き手の内に引き起こすのでなければ、彼は知解可能な形で話しているといえない」とロックは言っている。ここで問題になっている「正しい言葉の使い方」は、観念に対して語を正しく使うことである。観念まで正しくたどり着ければあとはお任せなのだ。17世紀の哲学者は、誰も「観念の一致」を改めて定義したり、観念の間主観性を問題にしたりしない。例えば「三角形の観念」は誰にとっても同じなのである。また同じスミレを見たときに我々に内に生じる観念(心象)が同じものであるという理論も用意されている。同じ原因(感覚)からは同じ結果(観念)を生み出す能力が生得的は否かは意見の分かれるところであってもだ。自我にとってはこの観念のみが現前しており、我々が自己の中にある観念を精神的洞察とか内省によって見るという理論は、誰に帰されるべきなのか、たとえばデカルトなのか、はひとまずおくとしても、前述のように言うロックがその渦中にあったことは確からしい。
 フレーゲの登場によって起こった言語論的転換は、観念から意味への転換である。観念は自我に現前する限りで、あるいは「〜とは何か」という問いに対する内省で問われる限りで私的だが、意味は、心象から切り放され、言語使用から問われる限りで公共的である。
 ロックのみならず、またイギリス経験論のみならず、あらゆる「観念」論者が多かれ少なかれ取るであろう、語が「観念」を表すという見解(そして句や文が観念の複合を表すという見解)が、フレーゲが否定した心理主義の温床となっていたことは明らかである。語が話し手や聞き手の心に引き起こすところの心象は、その語の意味に何の関係もない、とフレーゲは主張する。
 これに結び付いて「文脈主義」のテーゼが現れる。「語が意味を持つのは文のコンテクストにおいてである」。言い替えると、語の意味とは、実際の言表において、当の言表行為を正確に確定するために、その語がいかなる寄与をするか、という役割に他ならない。このテーゼを守らないなら、「語の意味を孤立させて問い求める」という「誤謬」に陥ることになる、とフレーゲは言う。つまり先に排した心理主義に戻り兼ねない訳だ。
 ロックにおいては、「観念」という言葉は、知覚〜体感〜心象(イメージ)〜思考〜概念、と幅広い仕方で用いられているが、この多義性は故ないことではない。語を含む文に目を向けず(文を言語の最小機能単位と見なさず)、ただ語の意味に注意を集中させるなら、語は心象あるいはその時の心理状態しか結び付けるものを見いだせないだろうし、そしてそのそれぞれの自我における心象が語の意味として選ばれることになるだろうからだ(この本来的にプライベートな心象=意味を、さしつかえないものにするのが観念がいかに生まれるかについての理論である)。さらにいえば、語を文脈から独立に取り出し、「〜とは何か」との問いの中で何を指し示しているのかを問うことは、不要な存在者を増殖させることにもなるだろう。そもそも語が何かを指し示すことができるのは、指し示される対象があらかじめ取り出されているときに限るのである。普遍論争の一つの根がここにあり、「数学の哲学」を構想する中で、あのスコラ以来の難問、普遍者(一般観念)の表現に手を付けざるを得なかったフレーゲは(なんとなれば数学的対象は、個物でなく普遍者(一般観念)であるからだ)、このテーゼによって、新しいステージの上でこの難問の整理・解決に着手できたのだ。ここで得た諸々の概念や方法が、後の言語哲学の共通の財産となる。
 そして当然、「世界は事物の総体でなく、事実の総体である」といった前期ウィトゲンシュタインも、「語の意味は用法である」といった後期ウィトゲンシュタインも、そしてそのそれぞれを始祖とする論理実証主義も、日常言語学派も、皆フレーゲの転換の後にいる。


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