バークリー × ヒューム

自我について


 「存在するとは知覚されることである(Esse est percipi.)」。
 バークリーは「抽象」を退けることで、比類なき観念論に到達した。バークリーによれば、存在するものはすべて、思考にとって現前する対象でなくてはならない。物体などというものは、それ自体実在する訳でなく、自我の中における(色、味、感触といった)表象の束にすぎない(→ロック対バークリー)。
 それでは、とヒュームは更に問うてみる。「私」、「私の心」、自我なるものは存在するや否や?何を馬鹿な。そう問うているのは一体誰なのか、考えてみればわかるではないか。しかし改めて問うてみれば、自我なる感覚印象はない(我々はさまざまな印象や仮説から「自我がある」と推論しているに過ぎない)。自我は知覚されない。したがって(バークリーに倣って「抽象能力」の乱用を制限するなら)、自我なる観念は存在しない。
 ヒュームは決して皮肉を云ってるのではない。彼はバークリーの論旨に賛同し、さらにそれを押し進めているのだ。ヒュームにもう少し「詳しく」語ってもらおう。----「自分」と呼ばれるものの中をもう少し詳しく見てみよう。そこで出会うのは、自我なんてものでなく、もっと個別的な、たとえば暑いとか寒いとか、明るいとか暗いとか、愛とか憎しみとか、苦しみとか快楽とか、そういったものである。こういった個別的な知覚なしに決して自分自身と呼ばれるものを捉えることはできないし、個別的な知覚以外のなにものもそこに見いだすことはできない。つまりこういうことだ。自我などというものは、それ自体実在する訳でなく、さまざまな知覚の束にすぎない。あるいは知覚印象・観念の一過的な構成の結果(うたかたのようなもの)にすぎない。
 どうしてそれら、現れては立ち消え/生まれては消費されていく個別的知覚・印象たちが、「私の感覚」「私の欲望」「私の思考」なんかに束ね上げられ、すり替えられてしまうのか(いかにして見聞きしたこと以上を語り、与えられた個別的知覚・印象を越えていくのか、いかにして「結果」であるにもかかわらず「原因」であるかのように機能するようになるのか=つまりいかにして「主体」となるのか)、その境位をヒュームは見ているのである。


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