アリストテレス × カント

カテゴリーについて


 カントは、『純粋理性批判』序文の中で、論理学はアリストテレス以来一歩も進んでいないと言っている。この名高い言葉は、カントのアリストテレス賞讚なのではなくて、そのように停滞していた論理学に新たな道を切り開いたがの自分なのだという自負が見える。
 『純粋理性批判』の範疇=カテゴリー論は、アリストテレス的な範疇論への批判である。アリストテレスは、実体、量、性質、関係、場所、時間、位置、状態、能動、受動という十箇のカテゴリーを設定した。存在者の、普遍的な形式はこうしたカテゴリーに尽きるというのがアリストテレスの考えである(『オルガノン』)。
 しかしカントは、こうしたカテゴリーは、一種の寄せ集めであって、原理的なものではなく、経験的な、不完全なものでしかないと考える。実際、能動、受動などは文法的なカテゴリーであるし(日本語ではまず登場しないカテゴリーである)、実体などはアリストテレス形而上学の反映が色濃いし、他には自然学的カテゴリーもある、あるいは、全部で十箇だというのは確かに切りがいいが、これでほんとに全部なのか、というように、カントの批判はもっともである。逆に言えば、カントが強調したのは、カテゴリーが普遍的な形式である以上、それは統一的な原理から導かれた確かなものでなければならない、ということである。カントは、そうした原理として、判断表を用いた。判断(〜は−である)の形式は、四つの項を更にそれぞれ三分割して、合計12ある(とされる)。
 量 →全称的(すべての〜は−である)
    特称的(幾つかの〜は−である)
    単称的(一つの〜は−である)
 質 →肯定的(〜である)
    否定的(〜でない)
    無限的(〜は非−である→註)
 関係→定言的(〜である)
    仮言的(〜ならば、−である)
    選言的(〜か−である)
 様相→蓋然的(〜かもしれない)
    実全的(〜である)
    確定的(〜であるに違いない)
(註:これが「無限的」であるのは、「−でない」だけで、その他には何でも無限に取り込まれるからである。例えば、木村は、西川でないし、寺崎でも、池田でもないし、榊原でもない、日下部でも、服部でも、小沢でもないし………)
 ここから導かれたカントのカテゴリーは次の通り。
 量 →単一性
    多数性
    全体的
 質 →実在性
    否定性
    制限性
 関係→実体と属性
    原因と結果
    能動者と受動者の相互関係
 様相→可能的−不可能的
    存在−非存在
    必然性−偶然性
 しかし、こうして提出されたカントのカテゴリー表は、整然としたものではあるが、いかにも胡散臭い。なぜなら、カントが基準とした判断表そのものは、カント自身の考えたものではなく、当時の学校論理学(=シュール・ロギーク、山下正男によれば、この判断表はポール・ロワイヤル論理学による。『論理学史』岩波全書)に依存するものである(かつて「カントは誰よりも偉いオリジナル哲学者」信仰が蔓延っていた頃とは違って、最近はカントが当時の状況に大いに影響されていることが強調される)。また、形式重視で、内容的に言えば、かなりの無理がある、等など。
 しかし、カントの立場からすれば、カテゴリー表の形式性には、カントなりの十分な根拠(理由)がある。なぜなら、カントが問題にしたのは、我々の認識のカテゴリーであって、アリストテレスの場合のような存在者のカテゴリーではないからである。つまり、こうしたカテゴリーの形式性も、カントの言う「コペルニクス的展開」による形式主義の一環なのである(→スピノザ対カント)。カントが求めたのは実在の形式ではなく、認識の条件であり、、内容的な充実ではなく、形式上の確かさなのであった。


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