スピノザ × 動物愛護論者


 スピノザの思想には、エコロジストが飛びつきそうな話題が盛りだくさん。だけど「エコロジストさん、よく聞けよ、スピノーザには惚〜れ〜るなよ〜」である。ここでは、エコロジスト一般というより、動物愛護論者を取り上げよう。
 動物愛護論者というのは、「人間のためとは言え、動物を手前勝手に利用したり殺したりしてはいけない」という人々(註:集団であることをも特徴とする)である。動物実験を停止させるために、大学の研究室に乗り込んで破壊活動を行なったりもする。有名なところでは、女優のブリジット・バルドーなどがそうである。ベジタリアンとは重なるところもあるが、範疇は違うと考えた方がよい。なぜなら、ベジタリアンには、宮沢賢治も指摘するように、健康のために肉食をしないだけの人々もいるからである。
 ところで、スピノザでは、人間は自然の一部であって、その意味では動物と変らないから、いかにもスピノザは「それもん」風に見られがちである。スピノザは人間の思い上がり(フュブリス)=人間中心主義を批判する。例えば、「更に彼らは、自分の利益を獲得するのに少なからず役に立つ多くの手段を、例えば見るための目、咀嚼するための歯、栄養のための植物や動物、照らすための太陽、魚を養うための海といったものを自分の内外に発見するから、<そして他のほとんど全てのものに関してもこれと同じ次第であって、彼らはそうしたものの自然的原因が何であるかについて疑念を抱く何の理由も持たないのだから>このことから彼らは、全ての自然物を自分の利益のための手段と見るようになった。」(第一部付録)
 というように、スピノザは目的論、特に自然が人間のためにあるという人間中心主義的な目的論を批判する。それどころか、何せスピノザは、人間も石も区別しなかった人である(→サルトル対スピノザ)、ましてや、動物は一層人間に近いと考えるだろう。実際スピノザには、「人間の知恵を遥かに凌駕する多くのことが動物において認められる」(第三部定理2備考)といった言葉も見られるのである。
 ところがどっこい、スピノザは動物愛護論者ではないのである。それどころか、動物愛護論を徹底的に批判しているのである。
 確かにスピノザは、動物が感覚を持つことは認める(第三部定理57備考)。なぜなら、スピノザの体系では精神と物体とは一つの実体の二つの側面としてぴったり張り付いており、物体があれば精神もある(し、精神があれば物体がある)からである。だから「全ての個体は程度の差こそあれ、みな魂を持っている」(第二部定理13の備考)のであるから、当然動物も魂を持っている。ところが、このことは全ての物体および精神が同質であることは意味しない(第三部定理57備考)。なぜなら、精神の領域と物体の領域がぴったり合わさっているということは、物体(人間を含む動物の場合は身体)の構造が違えば精神(魂)の構造も違うということを意味するからである。
 「いわゆる非理性的動物の感情(というのは我々は精神の起源を知った以上は動物が感覚を持つことを決して疑い得ない)は人間の感情と、ちょうど動物の本性が人間の本性と異なるだけ異なっているということになる。もちろん今も人間も生殖への情欲に駆られるけれども、馬は馬らしい情欲に駆られ、人間は人間らしい情欲に駆られる。また同様に昆虫、魚、鳥の情欲及び衝動はそれぞれ異なったものであるはずである。こうしておのおのの個体は、自己の具有する本性に満足して生き、そしてそれを楽しんでいるのであるが、各自が満足しているこの生およびこの楽しみはその個体の観念あるいは精神に他ならない。したがってある個体の楽しみは他の個体の楽しみと、ちょうど一方の本質が他方の本質と異なるだけ本性上相違している。
 最後に、前定理の帰結として、例えば酔っ払いの囚われている楽しみと、哲学者の享受している楽しみとの間には、同様に少なからぬ相違があることにある。これもここでついでながら注意しておきたい」(第三部定理57備考)。
 つまり、スピノザの観点からすれば、自然の一部であるという点では人間も動物も同じなのだが、身体の構造という観点からすれば、人間と動物どころか、馬と鹿、牛と海牛、イソギンチャクとシビレエイとは全く違った存在なのである(酔っ払いと哲学者が違うように?)。
 したがって、スピノザが次のように言うのは当然である。「これからして動物の屠殺を禁ずるあのおきてが健全な理性によりは虚妄な迷信と女性的同情に基づいていることが明かである。我々の利益を求める理性は、人間と結合するようにこそ教えはするが、動物、あるいは人間本性とその本性を異にする物と結合するようには教えはしない。むしろ理性は、動物が我々に対して持つのと同一の権利を我々が動物に対して持つことを教える。否、各自の権利は各自の徳ないし能力によって規定されるのだから、人間は動物が人間に対して持つ権利よりはるかに大きな権利を動物に対して持つのである。
 しかし私は動物が感覚を持つことを否定するのではない。ただ、我々がそのために、我々の利益を計っ感覚、動物を意のままに利用したり、我々の最も都合のいいように彼らを取り扱ったりすることは許されない、ということを私は否定するのである。実にこれらは本性上我々と一致しないし、また彼らの感情は人間の感情と本性上異なるのであるから(第三部 定理57の備考を見よ)」(第四部定理37の備考1)。
 このように、スピノザは動物と動物愛護論者の明かな敵である。
 [付録]ここで通俗哲学史に訴えて、スピノザのこの議論に重みを与えようとするのではないが、動物と動物の精神(感覚、知覚)の問題は、ライプニッツに見られるように、哲学的にも(神学的にも)重要な問題であった。ライプニッツがキリスト教の側から非難を受けた問題の一つがこの問題だったのである。なぜなら、ライプニッツにあっても、スピノザとは違った理由から、動物に感覚を認めたからである。というのは、ライプニッツの連続の原理によれば、動物と人間との差異も連続的であるはずだからである。この点でライプニッツの説は、キリスト教徒にとっては、動物と人間の差異が不明確になる(ように思われた)からである。ライプニッツによれば、理性のないものにも表象はあるのだ(微小表象)。それは暗いものであって、意識にまでは至らない(無意識的なものである)のだが。このことは、人間を神の似姿とするキリスト教の根本概念に抵触するものだったのである。逆に言えば、動物愛護論者は、キリスト教の原理に抵触するところを持っている(→バタイユ対ライプニッツ)。



inserted by FC2 system