スピノザ × サルトル

必然と自由


 1)サルトルの哲学は自由の哲学(「人間は呪われているくらい自由である」とする立場)である。スピノザの哲学は必然性の哲学である。
 サルトルは、我々は牢獄にあっても自由だと言ったが、スピノザにとってはそのような「自由」は幻想であり、現実を直視していないということになる。スピノザにとっては牢獄どころか、自分の部屋に居ようと、青空の下に居ようと、自由でない点では同じである。スピノザの言う「自由」とは、むしろ必然性の認識によるものである。
 しかし、或意味では二人とも極端である。そして、牢獄に居ようがどこに居ようが変りないのだ、という点では二人とも共通しているのである。
 2)サルトルは人間の自由の根拠を、意識に見出した。それは対自であって、即自、即ちモノではない。モノは不自由だが人間は自由だというわけである。サルトルの哲学はほとんどこの「即自と対自」の二元性で説明される。
 一方スピノザは、モノの秩序と精神の秩序は「平行」であるとするから、サルトルの採るようなデカルト的二元論は否定される。スピノザにあっても精神と物体とは混同されてはならないが、それはデカルト的な意味での実体的区別ではなく、属性レベルでの区別である(→デカルト対スピノザ)。そして、その両方が一つの実体に統合されている、そこから出てくるのである。
 3)サルトルはそうした二元性を明確にするために、意識を「無」であるとし、モノを「存在」と呼んだ。スピノザでは両方が一つの実体=神から出てくるので、両者は同じ資格を持つのだが、サルトルではレベルの違うものだとされる。モノが即自であるというのは、「そのまま動けない」ものだということである。動くというのは物理的に動くということではない。折り返しがないということである。逆にいえば、動きのある、折り返しというのが、意識の作用(反省作用)である。意識は、それによってモノがモノそのものであることを確認し、それとともに自分がモノでは「ない」ことを認識する。この「モノでない」ことが意識の自由の根拠である。モノはそもそも「自分がモノである」とも思わない。スピノザは石も意識を持てば自分は自由だと思うだろうと言っている。逆に言えば、人間も石も、意識=自由の意識を持つだけで大した違いはない、ということである。しかし、サルトルにとっては、この「意識を持つ」ということが決定的に重要であったのである。
 サルトルが活用した、こうした即自/対自といった装置はヘーゲルに由来し、したがってヘーゲルとスピノザの違いもここにある(→スピノザ対ヘーゲル)。
 4)こうした対立は認識論にも反映している。それは特に想像力に関して明確である(厳密に言えば、サルトルでは想像力は「認識能力」とは見られないが)。サルトルの出発点はこの想像力に関する議論であり、それは後の体系まで一貫したものである。サルトルの場合、想像力は現実を無化することによって(自由に)変革する能力として高く評価されるのである。スピノザでは想像力は現実を認識できないという意味で無に関わるものの、それは現実の変革にまで至る高い能力ではなく、単に認識の欠陥を示すものにほかならない。スピノザの認識目指すところは、むしろ必然性の認識なのである。しかし、サルトルからすれば、そのような認識(理性認識)は、モノに縛られた不自由な認識であることになるだろう。


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