フロイト × ユング

二つの精神分析


 フロイトは決定論的な傾向を持っていた。現在の病的状態の原因、起源があるはずであり、我々はそれによって決定されているのだ。これが自由を標榜する哲学の反発を買うのは当然である(→フロイト対サルトル)。こうした(外的)決定論と自由(な=内的決定)論との対立は、ベルクソンが整理したように、時間軸上に並べれば、過去に眼を向ける指向(決定論)と、未来に眼を向ける指向(自由の哲学)との対比であるとも言える。
 精神分析(これはフロイトの学説を言うのだと限定するなら、より広い意味で深層心理学と呼んでも好い)の流れの中で、未来、あるいは、個々の人間の場合で言えば「将来」と言った方がいいかも知れないが、とにかく、前に向かっていくことを重視したのがユングである。ユングとフロイトの関係は、最初の幸福な出会いから、互いの激突に至る決別の過程に見られる人間的、気質的な対立とか、ユングが強調したオカルト、心霊をフロイトの科学主義が認めなかったとか、いろいろ挙げることができるが、双方の学説に関して対立点を取り出すなら、こうした前向き、後ろ向きがもっとも分りやすい対比である。
 フロイトの関心の集中したのが人生の前半、殊に幼児期だとすれば、ユングの注目したのは中年期、いわゆるところの「人生の午後三時」である。ユングが中年を重視するのは、それが人生の大きな岐路の一つだと考えるからだが、更にその理由はと言えば、その中年期が老年期の入り口であるからである。つまり、ユングの前提にあるのは、老年に向かっての人格的な完成なのである。影、アニマ(アニムス)といった概念も、こうした全人格の完成という理念に基づくものだと言える。つまり、意識にとってのそうした外部、裏面は、実は意識の相補的なもう一面なのであって、そうした一面を取り入れることによって人格は完成に向かうというのである。
 したがって、フロイトとユングの対立は、決定論と自由との対立ではなく、むしろ因果論と目的論との対立なのである。フロイトの見出したのが人間の暗部であり、意識の間隙であるのに対して、ユングの「目指した」ものが人格の完成であり、精神の調和であるのは、こうした両者の傾向の異なりによるのである。


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