フロイト × サルトル

意識の批判、無意識の批判


 フロイトを批判、非難する声の幾つかは、彼の考え方の科学主義に対するものである。フロイトは心理的なエネルギーの経済を考えてみたりするナイーブなところや、、精神の構造が脳の構造と対応しており、したがって大脳生理学の進歩によって自分の説が裏付けられると考えたりする楽天的な傾向が確かにあった。もう一つは、現在の精神状態(病気)の「原因」が、本人の個人的な歴史の中に見出されるという、つまりは決定論的な態度である。これはサルトルが猛反発したところである。サルトルの考えでは、我々の性格や精神状態は、何らかの過去にある原因によって決定されているのではなく、我々がそれを選んだもの、自由な決断の結果なのである。これは、人間の自由に執着するサルトルなら当然のことだ。
 重要なのは、サルトルが人間の自由と言うとき、それは当然ながら「意識」の自由だということである。だからこそサルトルは、人間の意識を扱う精神分析が決定論的であることに我慢ならなかったのである。そもそも「無意識」というのが気に入らない。こんなものがあるから人間の意識が決定されているなどという馬鹿げた考えに陥るのだ。サルトルの考えでは、したがって「無意識」などというものは存在しない。なぜなら、それは文字通り「無」意識だからだ。例えばフロイトは、無意識に潜むトラウマを直視し、自覚し、つまりは意識することによってその傷を乗り越えることができると考える。しかし、とサルトルは考える。その時、つまり、意識されたとき、それはもはや「無意識」ではなく、意識そのものではないか。そして、無意識が意識されなかった時、そんなものがあることさえ我々は気付かない、意識しない(当たり前だ)のだから、そんなものはもともとなかったのだ。逆に言えば、サルトルにとって、精神の領域において何かが存在するということは、つまりは意識されているということなのである。サルトルにとってはとにかく、「意識」しかないのだ。
 しかし、こうした一種水掛け論的な対立は、実は観点の相違、あるいはむしろ、彼らの立っていた場所の相違であると言える。つまり端的に言って、フロイトは医者だったということだ。フロイトの創始した精神分析は、あくまで臨床医学なのである。それは、サルトルが目指す「実存主義的精神分析」とは違って、現在の病的な状態を前提としているのである。フロイトの無意識発見が、患者のいわゆる「抵抗」に気付いたことによることは、非常に重要である。サルトルは患者のそうした抵抗に触れることはないし、そもそもサルトルが分析するのは「患者(病者)」ではない。サルトルの分析が無限に続けられ、どこまでも拡がってゆけるのはこのためである。
 否定の否定が肯定であるとは限らないが、サルトルと対立するスピノザが、同じくサルトルと対立するフロイトに近いことは上の点では認められる。


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