ギョーム × アベラール

普遍論争第三ラウンド


 対立が起こると、それを調停しようとする立場が現れるのが哲学史のドラマツルギーである。普遍論争(→ロスケリヌス対アンセルムス)の場合も例外ではない。その主役を担うのがエロイーズとの倒錯的な恋愛で有名なアベラール(アベラルドゥス)である。アベラールはギョームの弟子だが、そのギョーム自身が師匠であるロスケリヌスに反発したように、アベラールもまた、ギョームとは違った立場に立った。立ったどころか、師匠の説を無神論に至るとして徹底的に批判した(しかも公衆の眼の前で)のが、アベラールその人だったのである。
 ロスケリヌスを代表とする唯名論の立場がポスト・レーム、即ち、普遍的なものは個物から抽象化されてでてきたものであって、言葉に過ぎないとする立場であったに対して、アンセルムスを中心とする実念論のアンテ・レームは、即ちに普遍的なものは個物に先だって存在するという立場であった。これらに対して、アベラールの立場は、イン・レームの立場であり、これは「<普遍>は個別的なものの中にある概念である」とするものである。この立場を「概念論」と呼ぶ。懐疑の重要性の確認を初めとして、アベラールは神学者たちの哲学とは別の意味での「哲学」者として重要である。このことは、「哲学者」=悪魔の代理人とみなした聖ベルナルドゥスが、アベラールに対する反感を抱いていたことからよく理解できる(もっともこの反感は単に、アベラールの論争好き、傲慢さによるというだけかもしれないが)。
 アベラールの先生であったシャンポーのギョームは、実念論を超えて、普遍的なものしか存在しないとまで考えるようになった。これに対して弟子のアベラールは、しかし、ギョームの対立陣営である唯名論を選んだのではなかったのである。別に唯名論の立場に立たなくても、別な側面でもギョームの極端な立場は反駁できたのである。なぜなら、ギョームの説では、普遍的なもの=実体的なもの/個別的なもの=付帯的なもの(要するにおまけ)となる。例えば、大江健三郎と井上靖が違うのは、単に付帯的(たまたま)であって、両者は普遍性の観点からは別に違ったものではなくなるからである。これを拡張すれば、神であれ個々の人間であれ、みな同じであることになってしまう。だとすればこれは汎神論であり、行き着くところは無神論である。
 しかし、ここではギョーム対アベラールとして取り上げるが、「哲学史」的に重要なのは、むしろこれからである。
 アベラールは、唯名論にも実念論にも与しなかったが、これは逆に両方の陣営をともに批判しなければならないということである。
 アベラールの考えでは、音声としての言葉と、言葉としての言葉を区別しなければならない。そして、普遍とは前者ではなく後者である。つまりこの区別は、論理的存在の確保のために要請されたものであった。こうして、<普遍>は言葉であるという意味で彼は実念論の否定者であり、しかし、言葉は音声(個別的なもの)ではないという意味で唯名論の批判者である。
 彼が重視したのは、述語としての<普遍>=言葉であった。述語なら、あらゆる主語に適応可能であり、その意味で普遍的である。したがって、これは単なる言葉ではない。しかし、述語とは、アリストテレスによれば実体=主語にならないものである。この意味で<普遍>は述語なのだから、実体的な存在ではない。これは実念論の批判である。


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