デカルト × スピノザ

体系の変形


 デカルト以降、機会原因論からライプニッツに至るまでは、デカルトの体系をどのように変形するかの競争だった。
 デカルトの考えでは、精神と物体とは「実体」であって、両者は全く別のものである(実体的二元論)。スピノザはここから出発して、「実体」の意味を変えてしまう。ほんとうに「実体」と言えるものは神しかない。だから精神や物体は実体ではない、と。
デカルトも精神、物体と神とを区別して、神は無限実体で、精神と物体は有限実体だとした。しかし、精神と物体は有限ではあっても「実体」なのだ。これに対してスピノザは有限な実体などありえないとして、実体は無限なものだけ、神だけ、一つだけにしたのである。
 そうなると、精神や物体は実体ではないのだから、一体何なのか、というと、それは様態である。つまり神という唯一の実体の変化したものだ。しかし、デカルトもそうであったように、精神と物体とは全く違うものだから一緒にはできない。神の中で、既に精神と物体の区別がある。それが「属性」である。精神の基盤になる属性が「思考」であり、物体の基礎になる属性が「延長」である。
 逆に言うと、神という唯一の実体は、属性として思考することと延長することを持っている。簡単に言って、神というのは考えるものであり、拡がるものである。これは、精神や物体を実体でなくする(形式的な格下げする)と同時に、思考や拡がりを直接に神の属性だとする(実質的な格上げする)ことでもある。
 さてここで問題が起きる。デカルトの場合には、精神も物体も実体だったから、神とは区別されていたし、神は無限、精神や物体は有限だという区別もあった。ところがスピノザのように考えると、精神性や物質性は神の本質的な要素なのだから無限でなければならいことになるし、また神そのものが思考するものであり(これはまだよい)、更には神そのものが延長するもの、拡がるものとなってしまい、物質性を持ってしまうことになる。
 つまり問題は二つだ。物質の本質である拡がりというものは「無限」でありうるのか、ということが一つ。神は物質的なものなのか、ということが一つである。
 スピノザは両方にイエスと答える。我々が普通に考えている物質は有限なものだ。しかし、そうとしか考えられないのは浅はかであって、その根源には無限な拡がりがあり、それが神の本質を構成している。こうした無限な延長、無限な拡がりという意味でなら、神も物質性を持つ。スピノザは、汎神論だとか神と物質を混同していると非難されたが、それは彼にとっては心外だった。「人々が私の立場は神と自然を同一視する思想に立っていると考えているのは、自然というものを一定の質料あるいは物体と理解しての上のことですから、全然間違いです。」(書簡73)


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