考える機械


 1769年、ハンガリアのプレスブルク(現チェコスロバキアのブラチスラバ)の貴族発明家ウォルフガング・フォン・ケンベレン男爵は、一体の自動人形(オートマトン)を造った。この「チェスする機械」は、オーストリア女王マリア・テレジアにチェスで勝ったりしたあと、ある興行師の手に渡り、ヨーロッパ中を興行し大評判をとった。これがわたり19世紀初頭のアメリカに渡る。

 エドガー・アラン・ポオ「メェルゼルの象棋さし」は、よく知られるこの「チェスする機械」の謎を解明したものである。そしておそらく好事家の謎解きに終わるのではなく、やがて著される2つの人工知性論と突き合わせられる理由を持つ。

[機械をまねる人]

 ポオの推理は、「機械の知性が有り得ない」ことを前提に、かつその例証として「象棋さし機械」の真実を解明する。彼は、この文章の冒頭その前提を示す箇所で、いくつかの「自働機械」のなかで、特にバベッジの差分機関(ディファレンシャル・エンジン)及び解析機関と、「象棋さし機械」の比較を試みる。バベッジの機械は、パンチカードによるプログラムを実行するバネと歯車でできた計算機(コンピュータ)であり、単純な四則演算のみならず、膨大な天文数表までもこなす。しかし、「象棋さし機械」に比べれば、遥かに下等であるとポオはいう。彼によれば、2種類の自動機械の違いはこうだ。

 バベッジの機械は、その仕事(算術に限られるといえよう)の性質上、複雑ではあるが一切の例外なく規則に従って機能するにすぎない。計算すべきものが与えられれば、バベッジの機械の挙動は決定され、したがってその結果も正しい。
 しかし「象棋さし機械」に与えられたもの、たとえば対戦者が指す一手は、機械が指す「次の一手」を決定しはしない。機械はさまざまな手を指すことができるし、事実指すだろう。まるで、人間のように! そこ見られるのは、機械的決定・機械的反復ではなく、ほかなぬ「人知」である。この前提(しかしポオにとってはまた結論でもある)から、ポオの鋭い観察眼と卓抜な推理力は、インチキ「象棋さし機械」の真実へと向かう。

 それはつまり、「機械をまねる人」にすぎない。

 推理の詳細は、その是非とともに(今日では、真実はおおよそポオの推理通りであったと信じられている)、ここではあまり問題ではない。
 ポオがさりげなく指摘するのは、このチェスをする人形(これは、人が入っているだろうと推測される箱に結わえつけられていて、その腕で箱の上の駒を動かす)が、きわめてへたくそにつくられていることだ。人と知恵比べする精巧な機械の作り手にして、この稚拙さはどうだろう。つまり、それは人に似せて造られてはいるが、あまりに人に似ていない。いかにも「機械にすぎない」ことを主張するかのように。
 そしてなによりもイカサマ師は、「象棋さし機械」の、その歯車のぎっしりつまった(よくできたイミテーション!)中身を見せて、それが「機械」であることを観衆に信じ込ませようとする。逆に言えば、これは、そのまやかしさえなければ、誰もが「中に人が入っているのだ」と思うということに他ならない。

[人をまねる機械]

 アラン・チューリングは、「中身を見れることができない箱・部屋」という思考実験を提案する("Computing Machinery and Inteligence", Mind, Vol LIX, No.236 (1950).)。「イミテーションゲーム」とはこんなゲームだ。参加者は3人、男性(A)と女性(B)、それと質問者(C)。質問者は男性でも女性でも構わない、彼/彼女だけは、部屋の外にいる。あとの二人は、二つの部屋のそれぞれにいる。どちらの部屋にどちらがいるか、質問者はあらかじめ知らされていない。そして、どちらにどちらがいるのか、それを当てるのが、このゲームの目的だ。質問者は、彼らそれぞれに質問して答えを得ることができる。ただし、声その他が質問者の助けにならないようになっている(質問−解答の手段は、仲介者による伝達でも、手紙でも、懐かしいテレタイプでも、よくあるコンピュータ端末でもよい)。つまり質問者は、質問に対する答えの内容だけから、判断しなければならない。

 さて、男性(A)と女性(B)の役割である。彼らにも勝ち負けがある。質問者が素朴な質問をしたとしよう。まずは右の部屋へ「あなたは女性ですか?」→「はい」。では、左の部屋へ「あなたは女性ですか」→「はい」。つまり、どちらかがウソをついているのだ。AとBの間では勝ち負けがある。どちらかは、自分の正体を質問者に言い当ててもらえば勝利する。そしてもう一方は、自分の正体を誤らされば勝利する。質問者をだましとおせばよい。

 チューリングは、もちろん「人をまねる機械」を提案しようというのだが、その機械は、質問者を騙すために部屋の中に入る。チューリングの巧妙な設定はこうだ。質問者は、部屋の中にいるのが、人間なのか機械なのかを、言い当てるのではない。質問者は、イミテーション・ゲームを続ける、質問者がここでも言い当てるのは「どちらが男か、どちらか女か」だ。
 騙す者が人間であった場合に質問者が間違える確率と、騙す者がコンピュータであった場合に質問者が間違える確率が、異なるかどうか。同じなら、コンピュータは人と同程度の知性があるといえるのではないか、とチューリングは、思考実験を開始する(チューリングは、その後の考察で質問者がテレパシーや念力を使う場合も考慮にいれるのだが)。

[「人をまねる機械」をまねる人]

 人工知能に批判的な哲学者、ジョン・サールは、再び「人の入った部屋・箱」を登場させる。今日Chinese Room Argument(中国語の部屋の問題)と呼ばれるものの原型は、彼の次の論文に登場する("Minds, Brains, and Programs," from The Behavioral and Brain Sciences, vol3 1980.)。

 Chineseはもちろん「中国人」とも解し得る。というよりむしろ、「中国人」と解し得るかどうかが、ひとつの論点となる。
 英語を解するが中国語は分からない男がいる。この男、論文ではサール自身が、中国語に関する本の山を抱えて、部屋の中に入る。その本の山というのは、3つある。ひとつは「スクリプト」とよばれ、ひとつは「ストーリー」とよばれ、さいごのひとつは「クエスチョン」とよばれる。
 そして山の他にも彼は一つのルールブック「プログラム」を持っている。それは中国語が分からぬ彼でも読めるようになっている(英語で書いてあるのだろう)。その内容は、彼には何やらわからぬ記号にしか見えない中国語を、彼でも取り合え使えるようにする辞典付きマニュアルだ。彼はこのマニュアルと取っ組み合えば、中国語の山からある記号を取り出し、マニュアルのルールに基づいて、べつの山のから別の記号を抜き出して、それと関連づけることができる。要するに、中国語を知らないまま扱える。
 さて、部屋の外から中国語での質問が放り込まれたとしよう(多分、手紙か何かで)。サールは中国語はわからない。ただ、今はマニュアル(プログラム)がある。今、中国語のいくつかの山についてやったことを、その中国語の手紙についてもやればいい。ルールに基づいて、記号を抜き出し、それを返事として出す(多分、中国語の山のどれかはどんな質問でも答える中国の百科事典なのだろう)。そうすれば、部屋の外にいる質問者は、部屋の中にいる者が「中国語がわからない」とは思わないだろう。
 つまり、サールがマニュアルに基づいて行う処理は、中国人のチューリング・テストをパスするだろう(マニュアルが完璧なら)。質問者は彼を、「中国の知能」として認めるだろう、という訳だ。しかし、サールは中国語を解さない。サールは何をいいたいのか。サールがやってみせたのは、人工知能がやっていることだ(具体的にはシャンクの人工知能が。「スクリプト」「ストーリー」「クエスチョン」はシャンクの人工知能の構成要素である)。

 サールはチューリングテストに反駁する。そのテストにパスした私は中国語を「理解」していない。したがって、テストにパスする人工知能も、本当に問題を「理解」したと言えない。つまり本当の「知能」ではない。この論文は、数々の反論とともに件の雑誌に掲載された。
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