ピンホール
PINHOLE
- 「哲学者の卵」フラスコは、ただ物質が混ぜ合わされる容器
、
化学反応の場(フィールド)、錬金術師とその末裔たる実験化学者のまなざしが注が
れ、その底に「賢者の石」が(あるいはただの化学化合物が)残っているはずの器(う
つわ)であるばかりでなく、最初から「正規の光学装置」であった。その中を透明な水
でいっぱいにすることで得られる光屈折こそ、発明の瞬間から、メンロパークの魔術師
(エジソン)によって電球が発明されるまでの間、ランプや蝋燭の光を「水入りフラス
コ」で集める装置こそ、科学実験のための「唯一」の実用的「光源」だった。光学装置
としてのフラスコを、ガラスレンズの代用品とみなしてはならない。ガラスレンズこそ
逆に、我々がフラスコによって知り得た光学的効果を、別の手段で手に入れるためにつ
くられた「代用品」なのだ。 →
- 自らを「こころある者」と思いなす人たちに、映像(表
象)はずっと忌み嫌われてきた。我々もしばしば口にするようなことば「映像(表象)
は、ただの代用品にすぎない」が、彼らの口からも漏らされただろう(だからこれは歴
史的言い回しだ)。映像は、たとえば現実にあるものの、写し絵であり「代用品」だと
いう。表象(イメージ)も同様、それらは真実にとても似ているために「代用品」であ
り、しかし真実でないために、厭われる。人を真実から遠ざけるために「真実の代用
品」ほど有効なものはないからだ。 →
- ところがプラトンはもっと極端だった(そしてこの極端な考え
は二千年方、様々に変奏されながら受け継がれていった)。この哲学者によれば、この
世界こそが、永遠・不変なるものとしてのイデアの「写し」であるというのだ。プラト
ンは「写真(真実の写し)」を知らなかったけれど、ここには逆転がある、と写真を知
る我々は思う。つまり、この移り変わりやすいこの世界に対して、それを写し取ったも
の(写真)の方が「変化しないもの」のように思われるし、「変化しないもの」(イデ
ア)を「真実なもの」に据えようとする哲学者たちこそ、たとえば映像にしか欲情でき
ない者のフェティシズムにも似た、錯誤と退廃に陥っているのではないか、と。
そして、事実、プラトンは、イデアの世界とこの現実世界との関係を(そしてイデア
を認めない人々の錯誤を)、ある光学−映像的なたとえでもって説明している。「洞窟
の比喩」と呼ばれるそれを、略記すれば次のようになる。
----- イデアの世界を光に満ちた「太陽の世界」とすれば、我々の現実世界(我々が
普段体験している世界)は、地下の「洞窟の世界」に例えられる。我々人間は、その中
で生まれながら手足を鎖でつながれ、身動きができず、その暗い洞窟の内から外を眺め
ている。光があまりに強くて、暗い洞窟からは外(「太陽の世界」)の様子はまばゆす
ぎて見えない。我々の目に入るのは、その光がつくるイデアの影だけである。その影絵
(イデアの写し)だけを見て、それがほんとうのものだと信じ込んでいるにすぎないの
だ。-----
我々は知っている。これは、言葉の真の意味でのカメラ(カメラ・オブスクラ「暗い
部屋」)だ。「明るい外界」の何者かが、「暗い部屋」へと投影される/映像として入
ってくる。 →
- in camera が「秘密裡に」を、 on camera が「公開された」
を、それぞれ意味することを、そして一見「さかしま」に見えるこのふたつの由来が
cameraなる言葉そのものにあることを、辞書は教えてくれる。
たとえばカメラリストKameralistとは、17〜18世紀のドイツ諸邦において、未分
化であった経営学・会計学・財政学・行政学・統計学などを含んだ国政をつかさどる
「官僚たちの学」を修めた者たちのことであったが、その名の由来は端的に「箱(カメ
ラ)の者(イスト)」である。仮に訳せば「官房学者」、官房=小さな部屋(カメラ)
の内で、国政のすべてを定める者、といったところだろうか(英語のcameralisticは、
ここから「財政の」という形容詞である)。「小さな」部屋と「巨大な」国家。
in cameraとは、カメラリストたちがそうしたように、「部屋の中ですべてのことを
す
すめること」を言うのだし、on camera は、カメラに写されたもの=映像が、その後た
どる運命を暗示している。 →
- カメラ・オブスクラが、「さかしま」をもたらすもの、そ
し
て「さかしま」によって完成するものであることは、よく知られている。「明るい外
界」と「暗い部屋」が、小さな穴によって接続される。「穴」に対面する壁に、「外界
の映像」が倒立して映る。16世紀以前よりこの原理は知られていた。カメラ・オブスク
ラは、その名の通り、「明るい外界」とは《逆に》、「暗い部屋」でなければならな
い。そして、それによって得られる映像は、《逆さま》になって(倒立して)いるだろ
う。 →
- カメラ・オブスクラには、そしてそれを原理的に継承するピ
ンホールカメラには、ピントという概念がない。通常、世界は撮影に際して、「フレー
ム」によって視点に対面する平面上で切り取られるだけでなく、フォーカス(焦点距
離)によって定義された「厚みのある空間」によって、視点からの垂直距離においても
切り取られている(これを被写体深度という)。レンズからあらゆる距離に存在するモ
ノが、フィルムの上に像を結ぶ訳ではないのだ。
ところがカメラ・オブスクラ(ピンホールカメラ)は、近距離から遠距離までの全部
にピントが合わせられる。つまり無限の被写体深度を持つ。世界と同じだけの「深さ」
を持った映像。 →
- だが、カメラ・オブスクラは、いまだ映像装置になりきれなか
っ
た。その部屋(カメラ)は、暗くはあったが未だ小さくはなかった。人は、プラトンの
洞窟よろしく、その内に入るしか、その映像を目にすることができなかった。写し絵を
手に乗せるために必要なのは、縮小だった。カメラの、そして得られる映像のサイズを
小さくすること。そのためにレンズが登場した。レンズによって小さくなったカメラ・
オブスクラは(それはもはや、人が「内」に入るものでなく、「外」から操作するもの
となった。レンズによって、人はとうとう「洞窟」から抜け出したのだ)、画家たちが
「外界の写し絵」を作成するのに使われはじめた。 →
- “十訓抄に次の記述がある。「俊明、何事にもすべて泣かざ
りければ、犬目の少将といわれけるぞ」。(広辞苑では「犬目」とは「泣かない人のた
とえ」と書いてあるが)その他の情報を総合すると、
1.犬目とは涙が出ない目である(ドライ.アイか?)
2.その目に睨まれると魂が吸いとられる。
「涙が出ない」というのが「邪眼」にも通じることかどうかは不明だが、「邪眼」も
「犬眼」も、魂を吸いとるという点で共通する(ゴーチエが恐れたのも、邪眼が寿命を
縮めるからだったらしい)。
で、涙が出ない、魂を吸い取ると来れば、これは写真機、カメラを思い出さないわけ
にはいかない。そして、「魂が取られる」というのは、カメラがその人の「影」を写し
とっているからだろう。影が魂だということになれば、もうユングである。とりあえず
今日の結論、「カメラとは犬眼である。」
因みに、安部公房の「箱男」は、一種の人間=カメラを描いたものだが、確か箱男自
身は涙を流す場面があったように思う。”(平尾昌弘) →
- 世界が、ただ一点を通るということ。
「まことに、あなたがたにもう一度告げます。富める者が神の国に入るよりも、駱駝
が針の穴(needle's eye)を通る方がやさしい」(マタイ伝19章24)
needle's eye は「針によって穿たれた穴」ではなしに、「針自身に開けられた糸を
通
すための穴」のことであって、pinholeとは直接は結びつかない。けれど「針の穴(
needle's eye)」をただ困難さを示す比喩以上のものとして受け取ること、つまり「困
難さ」などではなくその「狭さ」「くぐり抜ける困難さ」を言い表すものとして受け取
ることは不可能でないばかりか、ひとつの「忠実な解釈」とさえ言えよう。実際、あら
ゆるイニシエーションは、「小さな穴」をくぐり抜けることなのだ。そして、ここでも
また「小さな穴」によって接続されているのは、元の世界とは別の世界、此岸に対する
彼岸、「暗く閉じられた場所」に対する「明るく開かれた場所」。さかしまの世界が出
会う/世界が逆さまにされる。 →
- 小型化された「暗い部屋」の、かつてなら「壁」にあたる
ところに銀板がおかれた。1839年、ジャック・ダゲールによって発明された、映像を化
学変化でもって固定する装置(フラスコ以来の化学と光学の結合)、ダゲレオ・タイプ
の誕生が、今日まで続く「写真」機の端緒だった。けれど、敢えて言うなら、未だ我々
の知る「写真」機は登場していない。それは「暗い部屋」の壁を「取り外せる」ように
したに過ぎない。もちろんプラトンから二千年を経て、達成された「移り変わりやすい
もの」と「変化しないもの」の逆転に、何の価値も(あるいは何の価値転換も)なかっ
た訳ではない。けれども、我々が知る「写真」には、いま一度の逆転(さかしま)が必
要だった。なんとなれば、ダゲレオ・タイプの「外界」と「銀板」の対応は、カメラ・
オブスクラの「明るい外界」と「暗い部屋(の壁)」との一対一対応を、少しも脱して
いないからだ。確かにレンズによって、我々は「暗い部屋」を脱出することができた。
しかし映像は未だその内に置かれたままなのだ。つまり、ダゲレオ・タイプは、「on
camera(公表された)」に達していない。 →
- 1841年まで待たなくてはならなかった。後に「自然の鉛筆」な
る
著作を著すイギリスの発明家ウィリアム・タルボットが、これまでの、銀板の表面にヨ
ウ素蒸気を当ててヨウ化銀を生成させた感光板を、撮影後,水銀蒸気で現像し、感光板
の光の当たった部分に水銀が凝結して画像ができる方法(ダゲレオ式)を次のように置
き換えた。すなわち、硝酸銀溶液を含浸させた紙をヨウ化カリウムで処理して紙上にヨ
ウ化銀を生成させたものを感光板として使用し、酸性没食子硝酸銀液で現像,臭化カリ
ウム溶液で定着して陰画を得,印画紙に焼き付けて陽画をつくる、いわゆるカロタイプ
の発明である。
我々はここにいたって初めて、陰画(ネガ)から陽画(ポジ)を作り出す方法、必要
なら好きなだけ何枚でも作り出す写真術を手に入れた。ダゲレオ・タイプの感光銀板
は、その撮影の「瞬間」(実際には数十分の撮影時間が必要だったが)と一対一対応す
る「世界でたった一枚」でしかなかった[世界:壁=世界:銀板=1:1]。
ひきかえカロタイプの印画紙は、「瞬間」に対応する陰画(ネガ)から、無限に複製
することができるのだ[世界:感光板:印画紙=1:1:∞]。
→
- 「複写」から「複製」へのシフト。あるいは鉛筆のイデアと、
個
々の(そして無数の)鉛筆の関係を、「分有」なる概念で接続しようとしたプラトン
に、(逆さ向きになった上で)ようやく我々は追いついたのだ。イデア=「変化しない
もの」が、この世界の無数のものたち=「移り変わりやすいもの」へと「分有」される
のではない。今や、この世界のものたち=「移り変わりやすいもの」をオリジナルにす
るところの、無数の映像(写真)=「変化しないもの」が氾濫する。一と多と、可変と
不変の関係は、180度ねじられる。 →
- 我々の目(水晶体)はレンズであるが、水で満たされている(フ
ラスコのように)。我々は涙を流すことができる(赤瀬川源平がいっているが、「ナミ
ダ」は「水が戻る」と書く)。
南方熊楠が「燕石考」で考察している「燕石」はツバメの巣に見つかる不思議な力を
持つというマジックストーンであって、その効用は便秘の治療から安産、目の病を癒す
までと幅広い(人はツバメの雛の目を傷つけ、それを直そうと親ツバメが海から探して
くるその「燕石」を横取りする)。「燕石」の機能は、総括すれば「何かを取り外すこ
と」だ。糞便を、赤子を、うまく取り外す力。しかし、我々は目を取り外すことはでき
ない(網膜は銀板でない。それはうまいやり方ではない/それ故に、我々は眼を氾濫さ
せることができないのだ)。その代わりに、我々は「涙」を流す。「燕石」は涙を「取
り外す」ことで、その眼を再び開かせる(視力を取り戻させる)。 →
- 眼球の中に入ることができるだろうか(眼はカメラ(暗箱)だろうか/箱男の中
に入ることができるだろうか/それでは、犬の目(犬目)ではどうか)。
確か『アンダルシアの犬』だったと思う、眼球に針を突き刺すシーンがあった。あの
眼は涙を流したか。
眼のピンホール/水で満たされたカメラ・オブスクラ。
(箱男は、眼球のように、フラスコのように、水で満たされているのだろうか)→