セックス


SEX

「私たちの菌類学会では以前、冬の間は遠出と週末の研究会のかわりに講演会をするこ とになっていました。というのは、野原が雪に被われている季節に、毎週キノコ狩りに でかけることなど問題になりませんから。
私が主催したある月例講演会はキノコの に関するものでした。キノコのを研究 するために一種類のキノコ[ヒトヨダケ]を大量に栽培している、コネチカット州に住 む専門家を招待したんです。
彼は講演で、キノコのは人間 のとそれほど違わないが、人間のの方 が研究しやすいことを教えてくれました。まった一種類のキノコに約80タイプの雌と 約180タイプの雄が存在しており、いくつかの組合せでは繁殖が可能だが、他の組合 せでは不可能だということでした。たとえば雌の42番と雄の111番とかけあわせて も決して殖えないのですが、他のいくつかの番号の雄となら繁殖する、といった具合 に。
この話から、私たちの雌雄の概念は、本来はるかに複雑な人間の状態を超単純 化したものではないか、と考えるようになりました」
(『ジョン・ケージ 小鳥たちのために』)

「日本政府は敗戦直後から、日本の婦女子の純潔を米兵の手から守るために、その組織 の設立にむけて準備にあたっていた。1945.8.28、敗戦から2週間後にはすでに、吉原の 売春業者、芸姑置屋組合、接客業組合などを中心とした政府出資の会社〈進駐軍特別慰 安施設組合(RAA)〉が正式に発足、皇居前広場で宣言文が読み上げられた。
『本協会は、日米両国民の意思の疏通をはかり、あわせて国民外交の発展に寄与すると 共に、世界平和の建設の一助とならんとするものである。天皇陛下万歳!』」

とは、現代世界は別として、いつでもどこででも聖体示現 (ヒエロファニー)であったし、行為は綜合行為であり、それ ゆえ認識手段でもあった」
(エリアーデ)

お父さんの親心は、おじさんの下心

ラブ・ホテルに、台所がないのは、不必要というだけでなく、賢明な設計といえる(吉 行淳之介)

 「女といっしょに長いこと座り込んだり、話をしたりするのは、あれも一種の交なんだよ! 交には8種類ある。女の話を 聞いていい気分になる、これも一種の交。女についての話をあ れこれするのも一種の交。誰もいないところで女とヒソヒソ話 をする。これも一種の交。女の持ち物を自分のそばにおいてう れしがっているのも一種の交。女に触るのもそう。だから、師 匠(グル)の幼な妻の足に触れてあいさつしてもいけない。出家の戒律とはこれほどき びしいものなんだよ」
(ラーマクリシュナ「不滅の言葉」)

「ぼくはほかにもたくさんの子供を作りたいと願っている。こうして子供を作れば、ぼ くは愛国的な義務を果たし、わが国の人口増加に貢献するわけである。」
(アポリネール『若きドン・ジュアンの冒険』)

 キスは、挨拶のみならず愛情の表現としても、普遍的なものではない、とチャールズ ・ダーウィンは述べている。「カーマ・スートラ」をはじめ愛 文学の豊富なヴェーダ文献には、愛戯のどんな描写にもキスは現れない。手による愛撫 や、とりわけ鼻で相手のにおいをかぐことがそれに代わったらしい。パプア・ニューギ ニアの未婚の男女が夜会で鼻と鼻をこすり合わせる行為は、はっきりとした的な意義がある。またニュージーランドのマオリ族らには、鼻をこす りあわせるのは日常的な挨拶である。これらはいずれもお互いのにおいを吸い込みあう という儀礼である。5世紀インドのサンスクリット作家カーリダーサの言葉が思い出さ れる。
「人はみな、同じにおいを持つ者を信用する」

grammer(文法)とglamor(魔力)は同じ語源(gramary)を持つ。「書物についての学 識」と「隠された(魔術的な)知恵」を意味するこの語は、「書かれたもの」が喚起す る神秘的な力を示唆している。
事実、「グラマー(glamor)な〔魅力を持つ〕女」とは、「グ ラマー(grammer)な〔文法・文字に関する知識を持つ〕女」に 由来するのである。

プラトンによれば、男女の愛は、男同士、とりわけ少年同士の愛よりもごくつまらない ものだそうだ。理由は(プラトンによれば)、男同士はできないけれど、男女は「結 婚」できるからである。プラトンにとっては「結婚」は「ポリス(都市国家)が要請す る子孫生産の手段」だった。いずれにしろ男女の愛が、少年同士の愛ほどに高まるの は、「結婚」の枠外にある場合だった。

「島村哲二君並びに新夫人衣久子さんの多幸なる前途を祝します。又両家のご両親並び に御親戚一統の方々に、心から祝意を表します。男と女が相合して夫婦となり、睦まじ く一家を成す。誠に目出たいのであります。我々の祖先、太古原人の時代にあつては、 中々かうはまゐらなかつた。昔は人を食つたのであります。人間は誠に美味なる御馳走 なのでありまして、これは酋長が食ひました。さうしてその余りを他の者が食ふ。当時 にあつては、婦人の位置は申すまでもなく低く寧ろ位置などと云ふのではなくて、一つ の物品に過ぎなかつた。その為に女は人間の味を段々に忘れて来る。然るに男も女も、 女を通じてでなければ生まれる事ができない。これは我々人類に取って随分窮屈な事で はあるが、又非常な幸福でもあつたのであります。若し殺伐なる男子が女に依らずして 生まれ得るものであつたなら、男の殺伐は累代その度を加へ、 ついにはその為にお互いが殺し合つて人類は滅びたでありませう。幸ひにして我々は男 女を問はず、女から生まれるのであります。その女は前に申したやうなわけで、次第に 人間の味を忘れて来る。従つてその女から生まれた男も亦一代一代と人間の味の記憶よ り遠ざかり、その結果がついに今日の如く、只今列席の諸君を見ても、格別食べたく思 はないのであります。即ち我々がかく一堂に会し、お互いに和気藹藹としてゐられるの は女のお蔭であります。さうして今晩の席に於てその女を代表し、なお将来の平和、新 家庭の幸福を約束せられるのは衣久子婦人であります。」
(『百鬼園先生言行録』)

 現在アメリカのある女生物学者は、「恋愛活動」を、より優 れた子孫を残そうとするDNAの命令だと位置付けました。「恋愛」(アメリカにおい てはそれは結婚に対する浮気を意味します)は、より優れた遺伝子を持つ異(あるいは異の持つ遺伝子)を獲得するため になされる行動であり、つまりそのことはより優れた遺伝子の再生産を目的に遺伝子に プログラムされているというのです。この現状追認型の社会生物学者は、経済的および 的側面についても、「結婚」に対する「恋愛」の優位を「科学の立場」から擁護しました。このような考えに抗して、「 欲」以外の何かに「愛」のよりどころを求めようとすれば、今 やノイローゼあるいは常軌を逸した政治思想と「診断」されて、そして国家によって統 制された(つまり健康保険がきくのです)化学療法によって治療されてしまいます。

ディオゲネスは、デメテルのこと(飲食)も、アプロディテのこと(交)も、何でもすべて人前で公然と行なうことを常としていた。
また彼は、人の見ているなかで、しばしば手淫に耽りながら、こう言っていたものであ る。
「お腹の方もこんなふうにこするだけで、ひもじさがやむとよいのになあ」
(「ギリシャ哲学者列伝」)

私としてはピュタゴラス派のクレイニアスの意見に賛成だ。夫人と交わるのは何時ごろ が一番良いかと尋ねられると、「何時でもかまわない、君が一番傷つきたいと思う時 に」と答えたというのだ。
(「食卓歓談集」)

そん時僕思ったんだ----「ああ、僕らはただ、セックスのこと知ってる子供なんだ」っ て。別にしたい訳じゃないし、したくない訳じゃなくて、ただ僕ら、セックスすること だけ知っちゃった、子供じゃないかって。
(橋本治)

小学校で行われるオシベとメシベから、市販されていたり宅配してくれたりするHなビ デオまで、これら官製・私製を問わず「教育」が前提にしてい るのは「人間には欲がある」ということです。言ってることは 間違ってはいません。それどころか「教育」には「崇高な目 的」があって、欲望を持て余すばかりか罪悪感すら感じている者たちに、「いや、君、 それは人間として正常(あたりまえ)なことなんだよ」と安心を与える役目がありま す。
 ところがこれは逆の効果を生むことがあって、つまり「やりたい」と思ってない人に まで、「やるのが正常(とうぜん)」と言ってしまうのです。「欲望」に「当然」が先 回りしてしまいます。おまけに「当然」の「回数」やら「仕方」やら「シチュエーショ ン」まで、教えてくれたりするのです。そしてこの「当然」から「当為」へは、「〜す るのがあたりまえ」から「〜すべきだ/〜しなければならない」へは、ただの一歩もい らないくらいです(「あたりまえ」なら、そうでないのは「おかしい」からです)。
 ほとんどあらゆることで、「当然」に先回りされたあなたの「やりたいこと」は、も はやうずくまるしかありません。身にしみないまま「やり」続けて、しかも「やりたい のが当然、楽しいのが当然」とまで教えてくれた訳ですから、無理からにも「やりた い」「楽しい」と思わなければならない。秋になると本屋にずらっと並ぶブライダル特 集の雑誌とか、内容といえば「立派な人間になりなさい、そうすれば本当の恋愛ができ る」としか書いてない雑誌の恋愛特集とかも同じコトです。育ってもいない欲望を最初 から去勢するやり方とは、こういうのをいうのです。


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