よい子の分析哲学
プロローグ
- ゲーデル
- やあ、カンパネルラ君、本当にひさしぶりだね。あんまりひさ
しぶりだから、今日は君に「超人と大地の意義」について話して上げよう。
- カンパネルラ
- いいえ、それではなしに、僕に「分析哲学」を教えてくだ
さい。
- ゲーデル
- おやまあ、いったい何があったというんだい?
- カンパネルラ
- 実は昨日、〈論理学者〉たちがやってきて、「おまえなん
か科学じゃない」といじめられたのです。
- ゲーデル
- むちゃなこと言う奴らだね。
- カンパネルラ
- ……しくしく。それでぼく、たくさんブンセキして、それ
はこっぴどくあいつらに仕返しをしてやりたいのです。
- ゲーデル
- それは見下げた志だね、いと小さき者よ!そんな腐った根性で、
真のブンセキ哲学が学べるとでも思っているのかね?
- カンパネルラ
- ひえぇ、すいません。堪忍してください。……でも「真の
ブンセキ哲学」なんて本当にあるんですか?
- ゲーデル
- 実を言えば・ない・。まあしかし、君をいじめた奴らは〈論理
学者〉でなくて、〈論理実証主義〉の連中だろう。
- カンパネルラ
- 〈論理学者〉と〈論理実証主義者〉は違うのですか。
- ゲーデル
- ちがうね(論理学を扱いながら物理学者のように傲慢な輩は奴
らしかいない)。もっとも、「人間は死ぬ。ソクラテスは人間である。故
にソクラテスは死ぬ」などと記号を使ってどうやって推論するか、なんて
ことを「論理学」と称して一年間もかけて教えたり訓練したりしている
「教育」を受けている君がそう思うのも無理はない。〈論理実証主義〉が
未だに「分析哲学」の主流だと信じ込んでいる地方もあるし、そうはっき
り口に出して言わないまでも、言葉の端からポロポロのぞく偏見(イメー
ジ)は、まんま〈論理実証主義〉のそれだったりするのだからね。
- カンパネルラ
- なんだなんだ。どうしたんですか、ゲーデル先生。いきな
りたくさん喋り出したりして。それに論理記号の操作のトレーニングって、
「論理的な思考」を身に付けるために、「必要不可欠」とまでは言わない
までも「大変有効である」くらいは言っていましたよ。
- ゲーデル
- それこそ「大嘘」だね。つまり大きな嘘ということだ。「論理
的な独り言」が無いように(そして私的な「論理」がないように)、「論
理的な思考」なんてのもまたあり得ないのだ。だいたい、論理(ロジッ
ク)なんてのは、他人がいないと始まらないし、なおかつ他人が徹底的に
他人していて「あさっての方」を向いたままだと成立しない。
- カンパネルラ
- 今先生が言ったことって、「論理」を「コミュニケーショ
ン」って言葉に置き換えて、誰かが言ってそうじゃないですか?
- ゲーデル
- とにかく「論理的な思考」とかいわれるものは畢竟「論理的な
喋り方」をいうに過ぎない。しかもそんなものが後生大事だと言われるの
は、平気で非−論理的で、てんで「お話にならない」連中が、絶対にいる
からだ。(本論には全然関係ないが)今仮に連中を「マルクス主義者」あ
るいは同じことだが「ロマン主義者」と呼ぶことにしよう。
- カンパネルラ
- めちゃくちゃ言いますね。
- ゲーデル
- 共産主義的土人どもに、議会制民主主義の「正しさ」を教え込
むことが、現代の分析哲学の使命だとローティも言っているではないか。
- カンパネルラ
- 言ってない言ってない。
論理実証主義
- ゲーデル
- さて問題はカンパネルラ君が「科学」かどうかだった。
- カンパネルラ
- そうでしたか?確か、「論理実証主義」の話だったような
……。
- ゲーデル
- 論理実証主義者が何をやろうとしたかと言うと、要するに「科
学」と「ウソ科学」を分別しようとしたのだ。
- カンパネルラ
- そんなことができるのですか?大体、「ウソ科学」って何
です?
- ゲーデル
- (大雑把にいえば)科学じゃないのに、科学のふりして「いい
目」を見ようとしている理論とか教義とかのことだ。「ウソ科学」はしば
しば、その中で「科学批判」をやって、旧来の科学の欠点をあげつらうけ
ど、そうしながらも、「これは正しいから、万民はこれにしたがうべし」
みたいな「科学的言説の真理性」という権力はその身に引き寄せて絶対に
離そうとしない、まったくの下衆野郎だ。しかも科学から適当に用語だの
概念だの借りてきては妄想的に水増しして権威的に使ったり……。「神秘
主義者とは、科学が早く自分たちに《追いつく》=科学が自分たちの「正
しさ」を証明してくれることを願わずにはいられない連中のことだ」。
- カンパネルラ
- でも、科学だって(いや科学こそ)「科学的言説の真理
性」という権力の源泉じゃ……
- ゲーデル
- とにかく、「科学」と「ウソ科学」を分別しようとすれば、
「科学」と「ウソ科学」の間で線を引かなくてはならない。つまり、「科
学」とは何か?って、さっき君は尋ねるべきだったんだ。
- カンパネルラ
- じゃあ、「科学」って何ですか?
- ゲーデル
- よくぞ聞いてくれました。
論理実証主義者にとっては、意味のあるまともな命題というのは、(
「トートロジー」や「矛盾命題」といった分析命題をのぞけば)「観測」
によって検証される命題(事実と照らし合わせることで真偽が決定する
「原子命題」、および原子命題を論理学的に結合してできる「分子命題
」)だけだったのだ。いわゆる自然科学はこのような、ひとつひとつ検証
される諸命題で構成されるのであって、検証され得ないような命題は「疑
似命題」であり、ようするにテツガク(形而上学とかいってたな)でしか
ないわけだ(笑)。
- カンパネルラ
- 「ウソ科学」って、「形而上学」なんですか?
- ゲーデル
- 「形而上学」ってのは、ようするに悪口だからあまり気にしな
いように。「ウソ科学」ってのも、そこに含まれる。本当は、もっとひど
いことを連中は言っている。「疑似命題」なんてのは、要するに認識内容
の欠いた音声あるいは記号のでたらめな組み合せにすぎない、ってな具合
だ。
- カンパネルラ
- じゃあ僕は、「科学」でなくて、加えて「認識内容の欠い
た音声あるいは記号のでたらめな組み合せにすぎない」のでしょうか?
- ゲーデル
- 論理実証主義者は、その名の通り、「実証主義」(事実と命題
の照らし合わせ)と「論理学(ラッセル以降の)」とを武器に、「科学」
と「ウソ科学」を分別しようとした。けれど連中は早晩いきづまってし
まった。
- カンパネルラ
- わーいわーい。ざまあみろ。
- ゲーデル
- 連中のやり方では、全称命題は検証できないために「疑似命
題」に追いやられてしまう。つまり「すべては〜だ」といった命題を、確
かめようとしたら、すべての場合について実験なり観察なりをしなきゃな
らない。そんなことは実際には不可能だ。
- カンパネルラ
- でも、仮にも「科学法則」というなら「普遍的に正しい」
ものでしょう?個々の事実についてだけの命題がいくらあったって、そん
なのちっとも「科学」じゃないじゃないですか。
- ゲーデル
- そう。「科学法則」というのは、全称命題の形を取る。論理実
証主義者たちのやり方では、全称命題は「疑似命題」となる。つまり論理
実証主義者の方法は厳しすぎて、「科学」すら「疑似命題」となって生き
残れないのだ。
- カンパネルラ
- なんか、最初の話と随分違いますね。
論理経験主義
- ゲーデル
- そこで論理実証主義は、もっと穏健な「論理経験主義」に移行
することになる。そこでは論理実証主義の「検証」は、「漸進的確証」と
いったものに置き換えられる。
- カンパネルラ
- なんですか、そりゃ?「論理経験主義」ってのも初耳です
が。
- ゲーデル
- 「漸進的確証」ってのは、一つの実験や観察で、命題(全称命
題)の真偽を決定することはできないけど、実験や観察を重ねることで、
どんどんその命題が正しいか(あるいは正しくないか)を確証(あるいは
反証)していく、というものだ。「一つの実験や観察」は、それだけがす
べてではないけれど、まったく役立たずという訳でもない。我々は一足飛
びに(真偽の)「確証」ができると思っていたけど、それは思い上がりで、
実際は実験や観察を通じて一歩一歩「真理」に接近していく他ないのだ、
ということだよ。つまり、一種の帰納法によって、科学的命題は確かめら
れていく。
- カンパネルラ
- その場合、さっきの「うそ科学」はどうなるのですか?
- ゲーデル
- それは同じことで、「漸進的確証」を(要するに「実験や観
察」といったテストを)受け入れない命題はやっぱりある。そういうのは
「疑似命題」ということで追いやってしまうのだよ。
- カンパネルラ
- その「論理経験主義」ってのはうまく行ったのですか?そ
の「確証」というのは、具体的にはどうやるのですか?
- ゲーデル
- うむ。「すべてのカラスは黒い」ってのを、論理記号で書くと
「(x)(Fx⊃Gx)」となる(「すべてのFなるものは、Gなるもの
である」)。すると「F・G(FでありGであるもの)」という事例は
「確証」を与えるし(「カラスであって黒いもの」という事例は、先の命
題に「確証」を与える)、「F・¬G(FでありGでないもの)」という
事例は「反証」を与える(「カラスであって黒くないもの」という事例は、
先の命題に「反証」を与える)。
- カンパネルラ
- なるほど、当たり前で穏健ですね。
- ゲーデル
- ふふん、そう思うかね。カンパネルラ君、対偶っていうのを
知ってるかい?「(x)(Fx⊃Gx)」とその対偶「(x)(¬Gx⊃
¬Fx)」は論理的に同じなのだ。すると、「¬F・¬G(FでなくGで
ないもの)」という事例は「確証」を与えるし(「カラスでなくて黒くも
ないもの」という事例は、先の命題に「確証」を与える)、「F・¬G
(FでありGでないもの)」という事例は「反証」を与える(「カラスで
あって黒くないもの」という事例は、先の命題に「反証」を与える)、こ
とになる。
- カンパネルラ
- いきなり論理記号を出されてもよく分りません(それに論
理記号なんで勉強しなくてかまわないって、先生さっき言ったじゃないで
すか)。でも、カラスの命題を「確証」するのに、「カラスでないもの」
が関係あるんですか?
- ゲーデル
- でも「論理学的」には非のうちどころがない。
- カンパネルラ
- だったら、その当たりに転がっている「カラスというより
はエンピツに似ている黒くないもの」とか「ただの消ゴム」なんてのが、
「すべてのカラスは黒い」の確証度を高めていくことになるのですか?
- ゲーデル
- ここに(グットマンがいう)「室内鳥類学」が成立することに
なる(ほかにも「室内魚類学」とか「室内マーフィ学」とか思いのまま
だ)。我々は一歩も部屋の外に出ることなく、すべての命題をいくらでも
確かなものにすることができるのだ。
ポパー
- ゲーデル
- 漸進的確証の話は(まだまだ先は長いことだし)これくらいに
しておこう。本当は、さっきの「確証のパラドクス」は、全称命題が「〜
(例ではカラス)についての命題」であると見なす心理的な過ちにすぎな
い(本当は、全称命題だから「宇宙(世界)全体についての命題」であっ
て、何か特定の存在者についての命題ではない。故に「カラスでなく黒く
もない」事例は、この宇宙についての情報量を増やすから、まちがいなく
全称命題を「確証」している)という、反論があるのだけれどパスしよう。
- カンパネルラ
- 以前、聞いたことがある「ある事象(実験結果)による仮
説の確証の度合い」は、「その仮説下でその事象が生起する確率」だけで
なく、「仮設自体にたいして我々が持つ確証度」にも左右される、という
のは?
- ゲーデル
- それもパス。それよりも、論理実証主義とかなり近いところで
仕事をしながら、論理実証主義も論理経験主義もぶっとばしたポパーの話
をしようと思う。
- カンパネルラ
- え?ポパーって、論理実証主義者じゃないんですか?
- ゲーデル
- そんなこと言ったら怒られるぞ(誰に?)。ポパーは、(論理
実証主義の)「検証」も、(論理経験主義の)「累進的確証(一種の帰納
法)」も、ダメだといった。しかし、なおかつ「科学」と「うそ科学」の
分別は可能だと主張した。
- カンパネルラ
- ポパーはどうやったのですか?つまり、問題になってたの
は全称命題(「すべて〜である」)って奴でしたよね。
- ゲーデル
- もちろん全称命題は「検証」できない。「累進的確証」でにじ
りよっていくのもダメ。しかし「すべてのカラスは黒い」という命題に対
して、「黒くないカラス(カラスであって黒くないもの)」は「反証」に
なる。つまりその全称命題を捨てさせる事例となる。.
- カンパネルラ
- なんだ、それならさっきやった方法じゃないですか?
- ゲーデル
- そうでよ。でもさっき言わなかったけれど、「確証」の方は、
たった一つ「黒いカラス」を見つけただけではたいした証拠にはならず、
非常にたくさん「黒いカラス」を見つけても確証度が上がるだけで依然と
して覆される可能性がある。「累進的確証」で手に入ったのは蓋然性だけ
だ。しかし「反証」の方は違う。たった一つ「黒くないカラス」という事
例を見つけただけで、完膚なきまで件の全称命題を叩きつぶせているのだ。
- カンパネルラ
- そういえば、対偶とったときに、へんなのが出てくるのは
「確証」の方であって、「反証」はそのまま同じでしたね。
- ゲーデル
- ポパーはこの「検証と反証の非対称性」に着目した。そうして
科学的命題がクリアしなければならない基準を(「検証」や「累進的確
証」でなく)「反証可能性」であるとした。
- カンパネルラ
- つまり経験によって覆される可能性があるものだけが、科
学であると。
- ゲーデル
- たとえば占星術はしばしば正しい予想をすることがあるが、ど
のような反証もかわすことができるように作られているが故に、疑似科学
であるのだ。逆の例を出せば、ニュートン力学は、太陽の側を通った星の
光が曲がったという観測でもって「反証」された。が、それ故に間違って
はいるけれど、(ポパーの基準からすると)やはり「科学」であるのだ。
- カンパネルラ
- なんだか目からウロコが落ちた気持ちです。でも、そうい
うのがロンリジッショウシュギだと思ってましたよ。
- ゲーデル
- 連中はこんなところまで来てなかった。しかしポパーはもっと
踏み込んだところまで行ってしまっていたよ。
- カンパネルラ
- というと?
- ゲーデル
- いま、カンパネルラ君は「経験によって覆される可能性がある
ものだけが、科学である」と言ったけれど、それは正確じゃない。科学的
言明(命題)と(論理的に)関係できるのは、ただ言明(命題)だけであ
ることをポパーは忘れなかった。観察(観測)とその言明とをごっちゃに
することは決してなかった。
- カンパネルラ
- すると論理実証主義者はごっちゃにしたのですか?
- ゲーデル
- いいや。かれらも表向きは二つを混同しなかった。しかし観察
(観測)とその言明(原子命題)がどんな関係にあるかは、あえて問うこ
ともしなかった。すべては彼らの導きの書であった『論理哲学論考』にあ
る。その書で、ウィトゲンシュタインは徹底的に「認識」を排して、貫徹
された独在論=純粋的実在論を展開しているのだから。そもそも観察と言
明の関係を問う必要はない。だから独在論を貫徹できず「科学的認識」に
色目を使った連中は、はなっから『論考』などに追随すべきではなかった
のだ。
- カンパネルラ
- ポパーはどうしたのです?
- ゲーデル
- 科学的言明は、観察と対応するような「基礎言明」によって
「反証」される。しかし「単純言明」もまた「科学」の内にある以上、
「反証」をまのがれない(もう少し適当に言うと、どんな観察結果も「そ
んなもの間違いだ」と否認することだってできる)。ポパーは、観察(の
代りの「基礎言明」)を、科学の外に置いて「神聖視」することをしな
かった。
- カンパネルラ
- でもそうすると、「反証」のために持ち出した観察(の代
りの「基礎言明」)も「反証」(くつがえ)されちゃうし、それだって
「反証」(くつがえ)されちゃうんだから、えーとえーと……
- ゲーデル
- その無限遡行を止めるためには、どこかで「反証可能命題」を
「もうこれ以上反証しないぞ」と確認しなければならない。実際「反証」
の基礎となる「基礎命題」とは、「確認された反証可能命題」のことに他
ならない。
- カンパネルラ
- じゃあ、その「確認」はどこから来るんですか?
- ゲーデル
- ポパーは決断だと言ってる。「反証できるのだけど、ぼくらは
これを確認したものとして、もう反証しないでおこう」という〈決断〉。
「この観察結果(の言明)を否認しないで受け入れよう」という〈決断〉。
ロジカル・ポジティヴィズム(論理実証主義)からロジカル・ネガティヴィズムへ
- カンパネルラ
- 先生、このタイトル、「元気な鬼退治の論理学」から「根
の暗い論理学」へ、ってことですか?
そう言えば先生、さっき「〈論理実証主義〉が未だに「分析哲学」の主流
だと信じ込んでいる」とかなんとか、耳障りなこと言ってましたね。違う
んですか?
- ゲーデル
- 非常におおざっぱにいえば、1950年に出たクワインの「経
験主義の二つのドグマ」という論文でもって、〈論理実証主義〉は完膚な
きまで叩きの召されてしまう。ホントいえば、〈論理実証主義〉の歴史と
いうのは「飽くなき退却戦」の様相を呈しているし、実際〈論理実証主
義〉は、クワインの〈否定的テーゼ〉の内容をほとんど先取りしてさえい
た。ないのは、新しい酒を入れる新しい袋だけだったのだ。
- カンパネルラ
- クワインはどういうことを言ったんですか?
- ゲーデル
- 結局、〈論理実証主義〉等の野望は実現できない。科学とウソ
科学の境界はそんな明確に分けられない。
- カンパネルラ
- そんなこと、ぼくは最初からわかってましたよ。ああ、無
理っぽいなって。。
- ゲーデル
- そういうのを「周回遅れのトップランナー」とか言うんじゃな
いのかい?〈論理実証主義〉は、そりゃ今から見たら無邪気な試み(ポジ
ティヴィズム)ようにも思えるけど、それなりにしちめんどうくさい手続
きでもって野望に挑戦したのだから、それを批判する方もめんどうくさい
手続きを踏んで「論証」してやらなくては。
それにね、〈論理実証主義〉のポイントというのは、要するに、「確かめ
ようもない『言ったもん勝ち』の主張なんてのは、どんなに格好良くても、
妄言と大差ないではないか」ということだ。
我々は〈誠実に〉語ろうとすれば、論理的に語ろうとするし、証拠立てて
議論を進めようとする(というか、そんな風に語り議論するのが〈誠実な
語り方・議論の仕方〉だと信じ込んでさえいる)。その意味で、我々は
「論理実証主義」に片足つっこんでいるのだ。
クワインの批判は、どこか高みから言い下ろすそれでなくて、あくまで内
在的に、それこそ〈論理実証主義〉の仕方でもって、野望が実現不可能な
ことを示したのだ。
- カンパネルラ
- おお、ディコンストラクティブですね。
- ゲーデル
- そうかい。その「ディコンストラクション」ってのが何だかし
らないけど、お互いに言いっぱなしでない議論というのは、普通こうやる
もんじゃないのかい。ちゃんとお互いに相手の主張を分析し合って、相手
の言うことを否定するときも「このファシストめ!」とか「お前の言うこ
とは形而上学だ」と「決めゼリフ」で言い捨てるのでない議論ってやつは。
- カンパネルラ
- ううん・・・。
- ゲーデル
- 「相手の言うことを前提に話を進めて矛盾に持ち込む」、これ
は例のエレア学派の弁証法=帰謬法がそうだし、サボーの数学史がこれを
論理的思考の歴史的契機と見ているのも(その正否は兎も角)「気持ちは
分る」って気がするな。まあ、それはともかく、クワインの否定的テーゼ
というのを少し見てみよう。
- ゲーデル
- カンパネルラ君、今一度、論理実証主義等の主張を簡単にまと
めてみなさい。
- カンパネルラ
- 論理実証主義等の主張を煎じ詰めれば、意味のあるまとも
な命題は、(トートロジーな分析命題をのぞけば)「観測」によって検証
(あるいは「反証」)される命題だけでした。そして、いわゆる自然科学
はこのような、ひとつひとつ検証(あるいは「反証」)される諸命題で構
成されるのであって、検証され得ないような命題は「疑似命題」であり、
ようするに「うそ科学」だと。
- ゲーデル
- ところがクワインは、ある理論(たとえば自然科学)を構成
する多数の命題は、そんなに個々バラバラなものなのか、本当に単独に切
り放して検証(反証)することが可能なのか?と問うた。
- カンパネルラ
- それはよかったですね。
- ゲーデル
- そして、どんなに単純に見える命題でも、実は多くの前提(こ
れも命題だ)をもっている。たとえば生物学者の観察命題は、「自分が覗
いていた顕微鏡が何倍の拡大率で正しく対象を見せる」といった前提(命
題)をもっているだろうし、こんな風にわざわざ言い立てれば切りがない
ほど多くの前提があることは、おぼろげながらに分るだろう。
- カンパネルラ
- わかります(でも、だまされないように、しっかりしてい
なくちゃ)。
- ゲーデル
- さて、ある命題、これから検証すべき仮説Hがあるとする。も
しこの仮説が成り立つならば、実験の結果Dという結果が得られることに
なっている。H⇒D。これの対偶は、非D⇒非Hですので(これはH⇒D
と同じことを示してる)、実験してDという結果が得られなければ仮説H
は否定される(非H)、つまり反証される。
- ゲーデル
- ところが、どんなに単純な命題でも、(それらの前提が明示的
でなくても)たくさんの前提P1,P2,P3,P4,P5,……Pnを込みに
して主張されているわけだから、実は命題Hというのは、HカツP1カツP2カツ
P3カツP4カツP5カツ……カツPnのことだったのだ。したがって、その否定(非
H)は、実は非Hアルイハ非P1アルイハ非P2アルイハ非P3アルイハ非P4アルイハ非P5アルイハ
……アルイハ非Pnということになる。
- カンパネルラ
- え?え?
- ゲーデル
- ようするに、実験してDという結果が得られなくても(非D)、
否定されるのはHかP1かP2かP3かP4かP5か……かPnのいずれかであ
る(もちろん複数否定されてもいいけど)ということになる。クワインは
次のように主張する。「ある命題を他の命題と切り放し独立したものとし
て検証することはできない。検証されるのは、理論全体(諸命題の総体)
である」。これがクワインの「全体論(ホーリズム)」のテーゼだ。
- カンパネルラ
- すると、さっきの生物学者が、仮説を否定するような観察
結果を得たとしても、仮説を否定しないで、「それはこの顕微鏡がおかし
いのだ」と前提の方を否定することができるということですか?
- ゲーデル
- そのとおり。クワインのこの主張は、次のように読むことがで
きる。実験結果は理論全体が引き受けるのである。問題になっていた仮説
だけが引き受けるのではない。だから実験の結果、仮説から推定された結
果が得られなくても、理論のどこかが否定されればよい訳で、なにも仮説
を否定しなくてもよい(してもいいけど)。
例えば、ニュートン力学に基づいて計算した惑星の軌道を、観測してみた
ら計算と違ってた。でも別にニュートン力学(という仮説)を否定しなく
ても、「あれは近くに未知なる惑星があって軌道が変わってるんだ」とか
「悪い神様がいて、その惑星を観測しようとすると(例えば光をねじまげ
て)邪魔をするのだ」とか、いろいろ言えるわけだ。
- カンパネルラ
- でもそれって汚いじゃないですか?誰もがそんな好き勝手
に「辻褄あわせ」したら、科学も何もあったもんじゃないですよ。そうだ、
「辻褄あわせ」の数だけ、無限に多くの「科学」(ともう呼べるのかどう
か)ができてしまう。
- ゲーデル
- だから言ったじゃないか。「科学とウソ科学の境界はそんな明
確に分けられない」って。
- カンパネルラ
- 分けられないどころじゃないですよ。
- ゲーデル
- けれどクワインも「辻褄あわせ」を無際限に許した訳ではない。
なにしろ彼はアメリカのプラグマティストだからね。
- カンパネルラ
- プラグマティズムって、あの「真理とは役に立つことであ
る」みたいなやつですか?
- ゲーデル
- 多分、一番わかりやすいプラグマティストというのがウイリア
ム・ジェイムスで、というか唯一知られているプラグマティストといえば
ジェイムスしかいなくて、彼はそのようなことを言っていた気もするな。
ジェイムスが何故わかりやすいかというと、ようするに「ビジネス・ライ
ク」だからだ。というより、ジェイムスの理解できる部分ってのが「ビジ
ネス・ライク」な部分というわけ。プラグマティズムを無邪気にあざける
連中が理解できるのは、ようするに「ビジネス・ライク」っていうプラグ
マティズムだけなのだ。
- カンパネルラ
- で、クワインのプラグマティズムってのは?
- ゲーデル
- 「体系全体をできるだけ乱すまいとする我々の自然な傾向」と
クラインは言っている。理論の改訂、つまり「辻褄あわせ」は、理論総体
ができるかぎり影響を受けないようなものを選ぶべきだし、実際に我々の
先人はそのようにしてきた、という訳だ。
理論をどこか手直しすべき観察(実験結果)が生じたとする。さっきの
「ニュートン力学に基づいて計算した惑星の軌道を、観測してみたら計算
と違ってた」というのを例に取ろう。
せっかく手に入れた、それにいままでかなり役に立った、ニュートン力学
(という仮説)全体を否定するのはしのびないと思ったわけだ。だったら
どこを修正すべきか。「我々は何事も正しく見ることはできない」「悪い
神様がいて、その惑星を観測しようとすると(例えば光をねじまげて)邪
魔をするのだ」、いやすべての科学の基底にある感覚与件を否定するのは、
ニュートン力学をうっちゃるどころのさわぎでない。もっと影響が大きい
ではないか(いままで科学と言われてきたほどんどを改訂するさわぎにな
る)。で、結局「あれは近くに未知なる惑星があって軌道が変わってるん
だ」というところに落ち着いたと言う訳。これなら体系全体をほとんど乱
すことなく(つまり他のところをほとんど修正する必要なく)、すますこ
とができた。
- カンパネルラ
- すると、「理論の改訂」というのは畢竟「辻褄あわせ」だ
けれども、「よい辻褄あわせ」と「わるい辻褄あわせ」があるということ
ですか?
- ゲーデル
- というより、「安くあがる辻褄あわせ」と「高くつく辻褄あわ
せ」があるのだ。理論体系のあちこちをいじらなければならないような改
訂は、結局「高くつく」。我々は同じ結果を産むなら「安くあがる」方を
選ぶだろう、それが「自然な傾向」という訳だ。結局、クワインのいうプ
ラグマティズムとは、この「理論改訂のコスト」という考え方のことだろ
う。
- カンパネルラ
- すると命題には、それを否定したらあちこち手直ししなけ
ればならなくなって「(改訂について)高くつく命題」と、逆に「(改訂
について)安くあがる命題」があるのですね。
- ゲーデル
- そう。たとえば論理学の命題なんかは、変更したら、理論のか
なりの部分をいじらなくてはならないだろうから、「改訂コストの高い命
題」といえるだろう。
- カンパネルラ
- ちょっとまってください。論理学(分析命題)も改訂可能
なのですか?
- ゲーデル
- クワインは「科学とは、経験を境界条件にする力の場のような
もの」と言っている。「科学」というかたまりは、その縁で「経験」と接
しているわけだ。「経験の衝撃」が小さいうちは、その衝撃は奥までとど
かず縁に近い、コストの低い命題にまでしか影響を与えない。しかし衝撃
が大きくなると、かなり奥深いところに位置するコストの高い命題にまで
影響がおよんでしまう。ここで衝撃の伝播とは、つぎつぎ命題の改訂が引
き起こされることをいう。じっさい、量子力学を産んだ「経験の衝撃」は、
古典論理から量子論理という「論理学の改訂」までも引き起こしたのだ。
もはや命題の、「分析命題/総合命題という区別:経験主義のドグマ2」
はありえない。あるのはそういった区別でなく、コストの高い/低いとい
う傾向だけだ。
翻訳の不確定性
- ゲーデル
- さて、いまのような話は人−人のコミュニケーションについて
もあてはまる。
- カンパネルラ
- え?改訂のコストがですか?
- ゲーデル
- いまは、経験と科学(理論)について考えた。つまり科学(理
論)というのは経験の翻訳だ。ところでコミュニケーションは、「相手の
言ったこと」を自分にわかるように翻訳する事だと言える(相手が自分に
分らない言語で語っていると想像しなさい)。
- カンパネルラ
- なるほど。「相手の言語」が「経験」にあたって、それを
理解(という翻訳)することが「科学(理論)」(という翻訳)にあたる
訳ですか?
- ゲーデル
- そして「経験」→「科学(理論)」と翻訳する仕方が、どの命
題をいじって辻褄合わせ(改訂)してもよい故に、いくつでもあり得たよ
うに(故に「科学(理論)」も複数あり得る)、「相手の言語」→「自分
の言語」と翻訳する仕方も、複数あり得るだろう。
クワインが言う「翻訳の不確定性」というのは、つまり翻訳の多すぎる可
能性、ということだ。「翻訳が不可能」なのではない。いくつもある翻訳
の、どれかひとつを正当化するということが不可能なのだ。
翻訳がただ一通りしかできないなら、それが唯一の翻訳なら「不確定」な
ことはない。いくつもの翻訳が可能で、そのうちのどれかひとつを「いち
ばんよい」とか「標準的」とかいう基準で選ぶことができないなら、翻訳
はひとつに定まらず、不確定となる。
- カンパネルラ
- それはクリプキのウィトゲンシュタイン解釈みたいですね。
- ゲーデル
- そう。似たようなのがたくさんあるんだけど、パトナムという
人がそれらの最低限の骨子を抜き出して次のように定式化してみせた(パ
トナムの定理)。
言語Lと(言語Lと独立した)可能世界との対応には、超準的な(「標
準的」以外の)解釈が存在し、(何らかの外的な基準でも持ち込まない
かぎり)、解釈のどれかを標準的解釈として正当化することはできない。
しいてはどれが「標準的」か確定できない。
- ゲーデル
- いうまでもないことだが、「(言語Lと独立した)可能世界」
には、「経験」とか「外的世界」とか「他人の言語」とか、当該の言語L
を対応できるものなんでも代入できる。
- カンパネルラ
- でもさっきの話で言うなら、「コスト」というのがでてき
て話が収まるのではないですか?
- ゲーデル
- まあその前に、いろいろな「パトナムの定理」の回避法を見る
ことにしよう。
まずあるのは、その「対応」がいけない、というものだ。
言語(の記述)から独立した(それゆえにどうとでも対応づけられる)
「世界」「実在」といったものを排する。これはダメットなんかの検証主
義へ行く方法。ちなみにダメットは「復活したフレーゲ;しかもウィトゲ
ンシュタインとクワインを習得している」というゴツイ者だ。
当のフレーゲは、「言語と実在の対応は、言語と「言語と実在の対応」と
の対応、……といった具合に、無限遡行に陥る」と、純論理的に批判して
いる。
- カンパネルラ
- ダメットのは、ぼくらが「世界」とか「実在」とか(「経
験」とか「他人の言語」とか)思っていたものは、すでに「ぼくらの言
語」の汚染を受けているってことですか?なんかパラダイム論者の「所与
(データ)の理論負荷性」みたいですね。
- ゲーデル
- いや、あのね。…うーん。じゃあ、こういう話はどうだろう?
似たような話なんだけどね。
「いったい概念枠(パラダイム)や言語が異なるとは、どういうことを言
うんだろう」と考えた人がいた。これにはすぐ答えが返ってきて「翻訳不
可能なら、概念枠(パラダイム)や言語が異なっている」と。
- カンパネルラ
- 共約不可能性ですね。
- ゲーデル
- そうなの?で、今比較されているのは、概念枠(パラダイム)
同士、言語同士だから、概念枠(パラダイム)や言語の相違は、「翻訳で
きないが、相手は言語である」ってことだろう。
- カンパネルラ
- ふんふん。
- ゲーデル
- でもね、いったい翻訳を離れて、比べる相手が言語であること
はいえるだろうか?相手が言語であることをいうためには、翻訳が前提と
なるのではないだろうか?
- ゲーデル
- すると概念枠が(あるいは言語)「異なっている」ということ
は言えないし、「同じだ」ということもできない。概念枠(あるいは言
語)の自己同一性は主張できない。
- カンパネルラ
- するとどうなるのですか?
- ゲーデル
- どうにもならない。「翻訳の不確定性」と聞いたって、我々は
途端に口を聞けなるわけではないように。ただ、「ひとつの言語」とか
「複数の言語」とかいう言い方は無邪気な比喩のように思えてくるね。
- カンパネルラ
- するとぼくらは「言語について語っている」つもりだった
けれど、実際は「言語という比喩でもって語っている」に過ぎなかったの
ですか?
- ゲーデル
- さあ。ただ分析命題/総合命題の区別がドグマだと看破したク
ワインも、命題とそれ以外、理論/経験との区別を残していた、それこそ
経験主義の第三のドグマだ、とデイヴィドソンという人はいうわけだ。
- カンパネルラ
- そうすると、「複数の言語がある」というのは(まるでそ
れぞれひとつずつの言語があることを前提するみたいなので)うそであっ
て、むしろひとつのまとまりをなすような言語、概念枠、パラダイムとい
うのが怪しいし、理論/経験というのもどこまでが理論でどこからが経験
か、というはっきりした区別はありえない。ダメットさんが言ってたのも
「汚染されてるなんて甘い話ではない」のですか?
- ゲーデル
- いや、このダメットさんとデイヴィドソンは、何だか仲が悪い
らしい。
- カンパネルラ
- でも、そうすると(言語もあるなんて言えないし)いった
い何が残るのでしょう?
- ゲーデル
- 「おもいやり」だね。
- カンパネルラ
- へ?
- ゲーデル
- おもいやり。
できるかぎり多く、相手が言っていることを(あくまで私にとってだけれ
ど)「正しい」とみなすように「解釈」しようという傾向。相手の言って
ることが「翻訳不能(わからない)」と思えるときは、相手の言っている
ことが「でたらめ」に聞こえるわけだろ。けれど、相手は決して「でたら
め」を言っているのではなく、相手なりに「正しいこと」「筋の通ったこ
と」を言っているのだ、だから「解釈」するのであれば、できるだけ「筋
が通るように」やってみよう、という傾向が残る、とデイヴィドソンは言
う。
- カンパネルラ
- でも、論理実証主義から始まって、それをクワインがぶっ
つぶして、パラダイム相対主義者といっしょにそれもぶっつぶして、あげ
くの果てに残った「エルビム(希望)」が、「おもいやり」ですか。こい
つぁ、またあ……。
- ゲーデル
- 言語という統一体がない以上、あるのはoccational(その場限
りの、一回きりの)「解釈」でしかない。まるで後期ウィトゲンシュタイ
ンのようだけど、社会学者がよく言う「言語ゲーム」よりも、よほどこの
「おもいやり」の方があてにならないよ。
なぜなら、ルールだったら、互いにルールを認める同士なら話が通じ合う、
って言えるけど、「おもいやり」ってのは、仮にそんなものが万人に備
わっていたとしても、私の経験からするとだいたい裏目に出るのだ。
けれど「思いやり」に訴えない限り、どのような「翻訳=解釈」もできな
い。「自然(経験)の解釈」であった「科学」すら成立しない(「自然
(経験)」へのおもいやりが必要)。
- カンパネルラ
- けれどその「思いやり」が、「おれたちはお前達土人のこ
ともわかってやる「おもいやり」を持ってるぜ」的、言語帝国主義−ロー
ティの、になる可能性があるんでしょ。
(こんなに簡単なことを書くのに、こんなに分量がいるとは思わなかった。
そういう訳で、各章はみな途中で終っている(尻切れ蜻蛉である))。