悪い子の数学

カンパネルラ:ゲーデル先生、今日こそ「不完全性定理」を教えてください。
ゲーデル  :いやだよ。
カンパネルラ:でも一時はあんなに有名になった話ですよ。以前には、些細なことで口論になった子供達が、相手に何か決定的なことを言ってやろうと思って「カミサマ」とか「DNA」だとか口にしてましたが、最近では「不完全性定理」と言うそうじゃありませんか?みんなが知りたいと思っても無理はないのではないですか。
ゲーデル  :でも、それは本当に随分前の話だ。逆に言えばすでにいっぱい解説書なり何なりがたくさん存在するってことなのだ。要するに私達が語るようなことはなにもない、と言うことだよ。
カンパネルラ:でも、これまた数学者であるアンドレ・ヴェイユがおもしろいことを言っています。「数学の進歩とは方法の単純化と統一化であり、それは少数の天才のアイデアによってなされるのであり、二流以下の数学者はその共鳴箱に過ぎない」。
ゲーデル  :ああ、あの「あそこに並んでいるいろいろな本は私には読めば分かる。ところがそれらの著者たちは私の書く本が全然分からない。これはまずもって私にとって大変気持ちの良いことである」と言った人だね。でもそれは、カンパネルラ君、私に「丸写しでも構わないから書け」と言っているわけかい?
カンパネルラ:すごいや、先生。何で分かるのですか?それはそうと、フォン・ノイマンの精液が冷たかったってほんとですか?
ゲーデル  :うそだよ(何で俺が知ってるんだよ?)。
カンパネルラ:という訳で、この話は「良い子の数学」じゃなくて、「悪い子の数学」でやることにしましょう。

第1回悪い子の数学

カンパネルラ:(わくわく。今どき「不完全性定理」を語るなんて、いったいどうやるつもりだろう。まさか「自分の体は、自分では持ち上げられない」とか「身内の証言は証拠とならない」みたいな話をして、お茶を濁すつもりじゃないかしら)。
ゲーデル  :(いらだたしげに)カンパネルラ君、何をぶつぶつ言ってるんだね?
カンパネルラ:いえ、こっちの話です。
ゲーデル  :まあいい。ところで、世間に流布してる「ふかんぜんせいていり」のイメージといったら、「ある理論は、その理論自身を正当化することができない」とか「うそつきはどろぼうのはじまり」だとか、まあそういう奴だね。
カンパネルラ:ええ。それで今日は本当のところを教えていただきたいのです。
ゲーデル  :「不完全性定理」てのは、必ずわからんことがでてくるちゅう定理でね。
カンパネルラ:またそんないいかげんなことを……。
ゲーデル  :しかし昔からよく言うじゃないか。「まがいものには巻かれろ」って。
カンパネルラ:やれやれ。
ゲーデル  :だって真面目にしたら、記号がワンサカ出てきて、だーとそれらの羅列がつづいて、それらがみんな正しいとかで、結局誰も「ああ、そうなの」って具合に思って、それでおしまいだよ。
カンパネルラ:それは、数学っぽいですね。
ゲーデル  :数学っぽいだろ。
カンパネルラ:ではひとつ、その「数学っぽい」のをやってくれませんか?(なにしろ「悪い子の数学」だもんで、誰も分からなくたって一向に構わないから)。
ゲーデル  :そうだな、「悪い子の数学」だもんな。それじゃ、おまけに最後には「哲学っぽく」なっちゃうぞ。
カンパネルラ:構いはしません(でも「哲学」だなんていい加減なこと言ってたら、また誤字を指摘されて「哲学だって?この幸せ者!」だとか笑われますよ)。
ゲーデル  :その心意気や良し!カンパネルラ君、「わたしはいつもウソばかり言っているのだよ」
カンパネルラ:おお、「クレタ人のパラドックス」ですか?
ゲーデル  :これを2人でやることもできる。「カンパネルラ君、君は全く嘘しか言わないね」
カンパネルラ:「ええ、ゲーデル先生の仰るとおりです」
ゲーデル  :そうそう。ツボをつかんできたね。
カンパネルラ:ところが先生、現在「クレタ人のパラドックス」の名でいい加減に流布してるこの話の本当のところは

“クレテ人のうちのある預言者が
「クレテ人は、いつもうそつき/たちの悪いけもの/なまけ者の食いしんぼう」
と言っているが、この非難はあたっている”
(新訳聖書「テトスへの手紙」第1章)

というものなのです。
ゲーデル  :クレテ人の預言者も、この手紙の書き手(パウロ)もひどいこと言うね。
カンパネルラ:実はこの引用通りだと、パラドックスにならないのです。手紙の書き手(パウロ)は「この非難はあたっている」と、「いつもうそつき」のクレタ人の中で、「クレテ人の預言者」を例外扱いにしていますから。仮に、「クレテ人の預言者」が「いつもうそつき」のクレタ人の中に入るとしても、手紙の書き手(パウロ)がウソをついているならば、「クレテ人の預言者」の言明
「(すべての)クレテ人は いつもうそつき」
は否定され、つまり
「(すべての)クレテ人は いつもうそをつく 訳ではない(時として本当の事も言う)」
ということになって、やはりパラドックスは起こらないのです。
ゲーデル  :なるほど、いわゆる「自己言及のパラドックス」というのは、
X:「この言明(X)はウソである」
つまり言明Xと、言明Xの否定が(なにしろ同じ言説だから)同値になって、
X⇔¬X
Xが真(本当)でも、真⇔偽
Xが偽(本当)でも、偽⇔真
と、いずれも真と偽が同値になってしまうことをいうのだね。この「いずれも真と偽が同値になってしまう」こそが、本当のパラドックスに足るものなのだ。
カンパレルラ:……あ、へんなとこに関わりすぎて、つまんないところで終ってしまいますよ、先生。全然数学に至れないし……。
ゲーデル  :だったら、その辺の本からなるべく派手なタイトルを選んで、《予告編》にしておきなさい。

(次回予告:カントール、ラッセルの逆理、ゲーデルの不完全性定理、(その対偶である)ローヴェルの不動点定理、スコットの連続束、自己増殖可能定理……)

ゲーデル  :話はかわるけどカンパネルラ君、「真理」っていったいなんだろうね?
カンパネルラ:「真理」!それこそ、僕が永年求めているものです。
ゲーデル  :まったく君はいくつなんだい。……現代の標準的論理学における「真理」概念は、タルスキーによってなされた次のような定式化を出発点としている。
 言明P⇔言明Pは真である
たとえば、これは
 雪は白い⇔「雪は白い」は真である
つまり、“雪は白い”と“「雪は白い」は真である”は同値、同じ意味であるということだ。そういうものとして「真理」(〜は真である)を見なすべきである、というのがタルスキーの「真理」概念。
カンパネルラ:なんだか、当たり前のことを言ってるだけですね。“雪は白い”と“「雪は白い」は真である”は同じ意味、だなんて。
ゲーデル  :その「当たり前」を拠り所に「真理」と言うものを押えておこうというのだ。ところが、こいつは少しも当たり前ではない。言明Pに、一般に言うところの「うそつきパラドックス」の言明をいれてごらん。
カンパネルラ:「この言明は真ではない」ですか?今、言明Pが「この言明は真ではない」なのだから、
 言明P⇔(この)言明Pは真ではない
さらにさっきのタルスキーの「真理」の概念から、
 言明P⇔言明Pは真である
 
 ∴言明Pは真ではない⇔言明P⇔言明Pは真である

おお、真⇔偽(あるいは偽⇔真)になった。パラドックスだ。
ゲーデル  :タルスキーの「真理」の概念は、また現代意味論の基礎にもなっているので、この逆理をセマンティック・パラドックスと呼んだりもする。ところがね、このパラドックスは割りと簡単に回避できる。“雪は白い”と“「雪は白い」は真である”をくらべてみて、何か気付くことはないかね?
カンパネルラ:後ろの“「雪は白い」は真である”の“雪は白い”は、カギカッコ付きですね。
ゲーデル  :そうだね。それ自体独立した言明と、独立した言明に埋め込まれその対象になった言明とでは、おのずからレベルがちがうとは思わないかい?
カンパネルラ:ちがうんですか?
ゲーデル  :ちがうね。実は、さっきのタルスキーの真理概念の定式化は、「真理」(〜は真である)によって、ことなるレベルの言明を接続するもの、あるいはその「接続」によって、異なるレベルを生み出してしまうものだったのだ。したがって、
 言明P’⇔言明Pは真である
さっきは区別しなかったけど、PとP’はレベルが違う言明であり、「独立した言明に埋め込まれその対象になった言明」を対象(オブジェクト)レベルにあるし、P’の方をそれよりは上位のメタ・レベルにある(逆に言えば、言明Pを「真理」(〜は真である)によってメタ化したのが言明P’だと言える)。するとさっきのパラドックスは、

 言明Pは真ではない⇔言明P≠言明P’⇔言明Pは真である

と回避されるというわけだ。
カンパネルラ:ようするにある言明の「真偽」というのは、言明よりもメタ・レベルにあるということですね(なんか、あたりまえだな)。
ゲーデル  :ところで、ゲーデルという人はそのメタ・レベルをもういちどオブジェクト・レベルに埋め込むトリックを思い付いた。「有限個の記号(の組み合わせ)で書かれたもの」ならなんでも、その「書かれたもの」に番号を割り振ってやることを考えたんだ(実はこの程度のアイデアはライプニッツという人も思い付いていたのだけどね。けれど彼にはそれをトリックに用いる悪意も状況もなかった)。
カンパネルラ:それがどうして「トリック」になるんですか?
ゲーデル  :「自然数(番号は大抵の場合、自然数だ)についての言明(命題)」ってのを想像してごらん。
カンパネルラ:「自然数7はラッキーナンバーだ」とか「自然数2は偶数だ」とかですか?
ゲーデル  :そうそう。ゲーデルのアイデアによれば、どんな言明(命題)にも(これらはまったく「有限個の記号(の組み合わせ)で書かれたもの」だから)番号(自然数)を割り振ってやることができる。だから、今カンパネルラ君が言ったような言明(命題)にも、番号(自然数)を割り振れる。何番になるかわからないけど、今仮にそれがxやyだったとしよう。
 そうすると「自然数についての言明(命題)」の中には、「自然数x(実は「自然数7はラッキーナンバーだ」のゲーデル数)はラッキーナンバーだ」とか「自然数y(実は「自然数2は偶数だ」のゲーデル数)は偶数だ」ってのもアリだろう。
カンパネルラ:アリでしょうね。
ゲーデル  :話を一般的にしよう。今、言明Pは「自然数についてのとある言明(命題)」だとする。

“「自然数2は偶数だ」は真である”……(A)
ってのは、「自然数についてのとある言明(命題)」(あるいは「自然数についての言明の系」=「自然数論」)に対してメタ・レベルなもの(言明)だったけれど、いまやこれ(A)と同じ機能をはたすもの(言明)を、「自然数についての言明の系」=「自然数論」においてつくることが可能ではないか!我々は、カッコの中身(「自然数についてのとある言明(命題)」=「自然数論」の言明(命題))を、自然数(ゲーデル数)で表わすことができるんだし、自然数についてなら、「自然数についての言明の系」=「自然数論」の守備範囲じゃないか。

「自然数の命題のゲーデル数」は真である⇔自然数の命題

てことは、うまくすれば次のようなことも可能なわけだ。

「言明Pのゲーデル数」は真である⇔言明P

とすれば、さっきレベルを違えて回避したパラドックスが、また浮上してくる。あの「うそつきパラドックス」に相当するものが、ここでもでないはずがないからだ。

さあ、ここで「真理」(〜は真である)のかわりに「証明可能」(〜は証明可能である)にいれかえれば、ゲーデルの「不完全性定理」になる。すなわち「自分自身は証明不可能である」という命題が、パラドックスを生んでしまう。
カンパレルラ:先生、今日も誰もが知ってるようなところまでしか行きませんでしたね(いつになったら、こんぴゅーたさいえんすするのでしょう?)。それに全然予告とは違ってしまいましたよ(僕の喋るところが全然ないし)。
ゲーデル  :よいよい。マンガ週刊誌にはありがちなことだ。それでもやっぱり予定は挙げておきなさい。

(次回予告:カントール、ラッセルの逆理、ゲーデルの不完全性定理、(その対偶である)ローヴェルの不動点定理、スコットの連続束、自己増殖可能定理……)

ゲーデル  :ところでカンパネルラ君、自然数と実数、どちらがたくさんあるか知っているかね?
カンパレルラ:へんなこと聞きますね。考えたこともありませんでした。
ゲーデル  :自然数というのは、1,2,3,4,……という奴だね(最近はゼロもいれるのが普通で、今みたいなのは「正整数」というそうだが)。実数というのは、1.23438……とか0.4423411とか、要するに無限小数で表現できる数のことだ。
カンパレルラ:数なんて、無限にあるのだから、どちらも「無限」個だけあって、「おなじくらいたくさん」なのではないですか?
ゲーデル  :ところがね、(今回は証明のやり方が肝心なので、結論は手っとり早くいってしまうが)、自然数の無限より、実数の無限の方が多いのだよ(相手は無限なので「濃い」ともいう。つまり無限の「多さ」ではなく「濃度」というわけ)。これを証明したのは、カントールという男で、無限集合を導入して現代集合論を始めた奴だ。そのやり方だけど、「対角線論法」と呼ばれる。わかりやすい説明は、たとえば遠山啓『無限と連続』(岩波新書)の第1章を読みなさい(他の本はともかく、これは掛値なしに良い本だ)。
カンパレルラ:読みました(本当にいい本ですね)。
  とにかく実数をならべて、自然数で番号を振っていくわけですね(どこかで聞いて話だな)。今は、実数の範囲を0〜1未満に限定して
 1:0.123455343……
 2:0.2434293335……
 3:0.746943489……
 4:0.34235255……
 :
 :
 n:0.4241241423525……
 :
 ∞: ……
全部にもれなく番号がふれれば、自然数と実数は同じだけあることに、つまり同じ無限ということになりますが、でも実際には「無限」だから、「無限」回やってしまうわけにはいきませんね。
ゲーデル  :だから、結局この試みが、どうやっても破綻することを示せばいい。
カンパレルラ:どうやって?
ゲーデル  :だから、「もれなく番号がふれない」ことを示すのだよ。今、カンパネルラ君が番号を振ってくれただろ。そのそれぞれの実数から、数字を拾って来なさい。番号1の実数からは小数点以下第1位、番号2の実数からは小数点以下第2位、……
カンパレルラ:つまり番号nの実数からは小数点以下第n位ですね。
ゲーデル  :そうそう(要するに対角線上の数字を拾ってるわけ)。そうやって拾ってきた数字をならべて、実数をつくりなさい。
カンパレルラ:上の例だと、0.1463……ですね。
ゲーデル  :そう。そしてそれとは、各位の数字が全て異なる実数を作る。なんでもいいけど、たとえば0.2574……というのは、そうだろ。さて、今最後に作った実数は、それぞれ小数点以下第n位の数字が番号nの実数とは異なっている。ということはだ、∞番まで自然数を振ったとしても、最低こうやって作った実数はもれていることになる。というわけで、どうやっても「もれなく番号がふれない」、実数の方があまる、ということは、自然数より実数の方が多い(濃い)訳だよ。
カンパレルラ:なんだかだまされた気がしますね。
ゲーデル  :うん。では、もう少し数学っぽく今の「対角線論法」をやってみよう。
  実数をいまみたいに十進数であらわすと数字は{0,1,……,9}と10種類必要なわけだ。この「十進数に必要な数字の集合」をdigitと名付けよう。
カンパレルラ:おお、数学っぽい。
ゲーデル  :で、任意の実数というのは、集合digitの要素を、(自然数の)無限個ならべたものだ。もう少し言うと、自然数の集合Nの全ての要素(要するに全ての自然数1〜∞)に、集合digitの要素を対応させたものだ。
カンパレルラ:へ?
ゲーデル  :噛み砕くと、1ケタ目は3、2ケタ目は5、……nケタ目はx、……というふうに決めたものだ、ってことだ。
カンパレルラ:なるほど。それはあるひとつの実数のことですね。そうすると実数全体は?
ゲーデル  :いまいった「自然数の集合Nの全ての要素に、集合digitの要素を対応させたもの」が実数なのだから、その全体だ。Nからdigitへの対応(関数)の全体、これは
    N
 digit

と書いて、関数集合とかベキ集合とかいうものになる。さて、するとカントールの証明というのは、
          N
 f:N → digit

という対応(関数)のなかで、一対一対応(最近では双射とか全単射とかいう)が存在するかどうか(結果は存在しない)ことを示すものだった。この一対一対応というのが、さっきの実数に対する(自然数での)番号付けを意味するのは言うまでもない。
カンパレルラ:はあはあ。今回もなんか、ぼくは相槌打つしかなさそうですね。
ゲーデル  :ところでカンパネルラ君、数の表し方は何も「十進数」だけじゃないね。
カンパレルラ:そうですね8進数とか16進数、コンピュータは2進数とか学校で習ったことがあります。
ゲーデル  :それはろくな学校じゃないね。それはさておき、我々は今「十進数」でということで、話を進めたけれど、これが例えば2進数だとどうなっただろう。
カンパレルラ:集合digitってのが、集合binary={0,1}になるのですか?
ゲーデル  :すごいじゃないか、カンパネルラ君。相槌どころの騒ぎじゃないよ。まったくそのとおり。
           N
 g:N → binary
もちろんこの場合も、一対一対応は存在しないはずだ。なんとなれば、さっき「各位の数字が全て異なる実数を作る」ってのをやっただろう。これと同じことが集合binary={0,1}においてもできるからだ。この場合は0を1に、1を0に置き換えてやればいい訳だ。
カンパレルラ:じゃあその「置き換え」ができないなら、一対一対応が存在するのですか。
ゲーデル  :その通り。では、「置き換え」ができるってことがどういうことか、考えてみよう。まず集合の要素が1つだけだったら、「置き換え」なんでできるはずがない。
カンパレルラ:そりゃそうです。
ゲーデル  :もうひとつ、この「置き換え」ってのを、対応(関数、写像)と考えると、その集合について不動点を持たない写像が最低ひとつは存在する、これが「置き換え」の必要十分条件だ。
カンパレルラ:えっ?何ですって?
ゲーデル  :まずこの写像は、十進数の集合digitなら、digitの要素をdigitの要素のいずれかに置き換える写像だろ。これを自己写像という。自己写像の中には不動点を持つものがある。ある場合など、その集合の自己写像はかならず不動点をもったりする。不動点というのはね、写像で置き換えられたにもかかわらず、またもとのままの点、つまりたとえばある写像で5を置き換えたら5になった場合、その5が動かない点、不動点というわけ。
カンパレルラ:つまり「置き換え」がどっか1点(ひとつの要素)についてでも失敗する場合がだめってことですね。
ゲーデル  :そう。数学ではよくこの「不動点」が出てくる。たいていは「この場合はどうあっても不動点が存在する」という不動点定理として。でも我々の場合は、不動点定理なんかなりたったら……
カンパレルラ:一対一対応が成り立つことになるのですね。
ゲーデル  :逆に言うと、不動点定理が成り立たなければ、たったひとつでも不動点を持たない写像があれば、それを使って「置き換え」できる。すなわち、一対一対応が存在しなくなる。このことは一般化できるのだ。

自明でない(要素を二つ以上持つ)集合A,Bについて、集合Aの自己写像のうち、不動点を持たないものが存在するならば、
        B
  B → A
の全射は存在しない(だから一対一対応は存在しない)

これを対角化定理と名前を付けておこう。次回は、これによってラッセルの逆理やらゲーデルの不完全性定理やらを証明する。

カンパレルラ:「ラッセルの逆理」ってなんですか?
ゲーデル  :「集合とは何か?」というのを考えるとき、とりあえず「何かの集まり」だと考える。モノの集まり、コトの集まり、関数の集まりなんてのもありだ。「何か」が何でもいいのなら、「集合の集まり」ってのもアリだろう。「何か」が集まって「集合」になったとき、その「何か」のひとつひとつを要素という。「関数の集まり」の集合なら、個々の関数がその要素だ。
カンパレルラ:すると「集合の集まり」っていう集合の要素は、集合なんですね。
ゲーデル  :そう。「xは集合Aの要素である」ってのを、記号を使って、
 x∈A
と書く。では、さっきの「すべての集合の集まり」を集合Ωとしよう。
カンパレルラ:するとどんな集合も(「すべての集合」だから)、集合Ωの要素となりますね。
ゲーデル  :そして集合Ωも集合だから(あたりまえ)、集合T自身も集合Ωの要素なのだ(Ω∈Ω)。
カンパレルラ:自分自身が要素だなんて、へんな感じですね。
ゲーデル  :では、自分自身は要素じゃない(x ∈not x)普通の集合ばかりを集めて、また集合を作ろう。今度は「自分自身は要素じゃない(普通の)すべての集合の集まり」を集合Sとしよう。
カンパレルラ:先生、何かたくらんでますね?
ゲーデル  :うむ。さて、カンパネルラ君、この集合Sは、さっきの集合Ωみたいに、自分自身の要素だろうか?
カンパレルラ:そんなわけはないでしょう。だって、「自分自身は要素じゃない(普通の)集合ばかりを集めた」のですから。
ゲーデル  :でもね、もし集合Sが「自分自身は要素じゃない(普通の)集合」だったら、そもそも集合Sは「自分自身は要素じゃない(普通の)集合」をすべてを集めたのだから、集合S自身だって集めもらしたりはしないだろう。
カンパレルラ:すると、集合Sは自分自身を要素とするのですか?
ゲーデル  :ところがね、集合S自身が、自分自身、つまり集合Sの要素であるならば、そもそも集合Sは「自分自身は要素じゃない(普通の)集合」ばかりを集めたものなのだから、集合Sの要素ではありえないのではないかね?
カンパレルラ:いったいどっちなのですか?
ゲーデル  :これぞラッセルの逆理(パラドックス)なのだよ。
 S∈Sならば、定義から言って S ∈not S
 S ∈not Sならば、やはり定義から S∈S
しかしこんな、どんな入門書にも書いてあることを今更言ってもしかたがない。ここでは、約束通り、これを「対角化定理」を使って、これを「証明」してみよう。

準備として、∈(〜の要素である。〜に所属する)を関数(写像)として再定義しよう。
 f(A,B)=真(true)……A ∈ B(集合Aは集合Bの要素である)
 f(A,B)=偽(false)……A ∈not B(集合Aは集合Bの要素でない)
つまり関数fが、真か偽かによって、AがBの要素であるかないかが分かると言うわけだ。

ところでカンパネルラ君、「特性関数」って知ってるかい?
カンパレルラ:もちろん知りません。
ゲーデル  :ある集合の特性関数とは、「これは集合の要素だ、これは集合の要素じゃない」と選り分けて、集合の中身を(要するに集合そのものを)規定する関数だ。特性関数が決まれば集合が決まるし、集合が決まればその特性関数は決まる。
カンパレルラ:すると集合に特性関数を対応させる関数(写像)があるはずですね。
 g:集合A → 集合Aの特性関数(CA)
ゲーデル  :なかなか分かってきたじゃないか(読んでる人は分からないかも知れないけれど)。
  ここで、整理しておこう。集合の集合をSet、真(true)と偽(false)を要素とする集合をBooleとすると、
  「AがBの要素であるかないかが分かる」関数fは、
  f:Set×Set → Boole
  「集合に特性関数を対応させる」関数(写像)gは、
  g:Set → すべての特性関数(CA)の集合
と、それぞれ上のような関数(写像)になるはずだね。
カンパレルラ:「すべての特性関数(CA)の集合」とは、どんな集合ですか?
ゲーデル  :すべての集合(ということは、「集合の集合」Setのすべての要素)について、真偽(Booleの要素)の定め方(特性関数)を対応させたものだから、
    Set
 Boole
ということになる。
カンパレルラ:どこかでみたパターンですね。すると関数(写像)gは、
             Set
 g:Set →  Boole
となるのですね(ますますどこかで見たパターンだ)。
ゲーデル  :そうとも、そして「特性関数が決まれば集合が決まるし、集合が決まればその特性関数は決まる」はずなのだから、関数(写像)gは、一対一対応のはずだ。
カンパレルラ:えーっと、「対角化定理」は確か、
自明でない(要素を二つ以上持つ)集合A,Bについて、集合Aの自己写像のうち、不動点を持たないものが存在するならば、
        B
  B → A
の全射は存在しない(だから一対一対応は存在しない)。

 今回の場合、AがBoole、BがSetですね。そうすると集合Boole={真(true),偽(false)}の自己写像のうち、不動点を持たないものが存在すれば……
ゲーデル  :存在するよ。この前に集合binary={0,1}でやったことがそのまま使える。真(true)→偽(false)、偽→真と置き換える関数(写像)だ。
カンパレルラ:だったら、関数gは一対一対応ではないのですか?
ゲーデル  :そうなるね。つまり「関数」と「特性関数」の対応が綻びる場合があるってことだ。「ラッセルの逆理」を回避する方法は、集合Sを集合から追放することだ。つまり「特性関数」があっても(「自分自身が要素でない」x ∈not xってのは、実は特性関数なのだ)「集合」がない場合がでてきてしまう。

(また中途半端なところで終ってしまった……)

inserted by FC2 system