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           読 書 猿   Reading Monkey
            第86号 (いぬしか号)
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■■多田正行『思考訓練としての英文解釈(1)(2)』(育文社)=====■amazon.co.jp

 幻の受験参考書。受験合格になど、ましてや「はやく英語をぺらぺらしゃべれ
るようになりたい」などという甘ったるい願望になど、これっぽっちも目をくれ
ないマッチョさは、悪魔のような知性に裏打ちされている。全編に毒舌がほとば
しる。やれば偏差値90くらいになるらしい。表紙にどういう訳か書評がついて
いるので、引用する。

> 「埋もれた名著」とか「知られざる傑作」という言葉があるが、受験参考書の
> 分野にはまずそういうものは存在しないと思うのが常識である。ウの目タカの
> 目で「よい参考書」を捜しているはずの受験生が「名著」や「傑作」を埋もれ
> させておくわけはないからである。
>  にもかかわらず、ものには例外があって、良い本を書いて、それが売れて、
> きちんと評価されてファンクラブまで出来かねないような伊藤和夫先生のよう
> な幸福な人ばかりで世の中はできあがっていないのである。
>  伊藤先生の『英文解釈教室』が門弟何万人を豪語する幕府公認の駿河台道場
> で教えられている「人を活かす剣」だとしたら、この多田某という人は、腕は
> ベラボーにたつが、ささいなことから道場主のゲキリンに触れ破門され、以後
> 何十年にもわたって山奥でプロゴルファー猿のような修業をつんできた「暗殺
> 剣」の持主とみえたのである。
>  こういう本を書く人はフグーに違いない、そう思いながら前書きを読んで
> いったが、やはり、ぼくの目に狂いはなかった。
>                        受験参考書の愉楽より


■■佐伯[月半]『「きめ方」の論理』(東京大学出版)==========■amazon.co.jp

 好事家で知られるその客人は、かの『チャタレイ夫人の恋人』なる本を「もう
いらないから」とテーブルの上に置いていってしまった。
 カタブツで知られる父親はこう考えた。「こんな本は誰にも読ませたくないか
ら焼いて捨てるべきだ。しかし、アイツ(客人)にどうだった?と聞かれると困
るから、読んでおいてもいいかもしれない。だが、息子が読むことだけはまかり
ならぬ」
 ところでサバケタ息子の方は『チャタレイ夫人』程度では、なんとも思わな
い。むしろ、あのカタブツ親父こそこの程度のものは読んでおくべきだと考え
た。親父が読まないなら、ひまつぶしに読んでみるのもいい。だがしかし、焼き
捨てるなんていうのは論外だ。
 まとめると、2人はそれぞれ次の3つについて
  《捨》:この本は焼き捨てる
  《親》:この本は親父が読む
  《息》:この本は息子が読む
こう考えているのである。
 カタブツ親父: 《捨》>《親》>《息》
         息子が読むよりは、親父が読むのがまし(よい)。
         親父が読むよりは、焼き捨てるのがよい(まし)。
 サバケタ息子: 《親》>《息》>《捨》
         捨てるよりは、息子が読むのがまし(よい)。
         息子が読むよりは、親父が読むのがよい(まし)。

 さて、カタブツ親父とサバケタ息子が暮らす社会は、いわゆる自由主義が尊重
されている。難しい話は抜きにしても、他人に関与しないかぎり(たとえば誰か
に迷惑をかけない限り)、個人が何をしようと、どんな行動を選ぼうと、自由で
ある。つまり個人(の選択)を尊重されるのである。

1:この社会では、「《息》:この本は息子が読む」か 「《捨》:この本は焼き
捨てる」 か、そのどちらを選ぶかについては、まったくサバケタ息子の自由であ
る。なんとなれば、この選択は、他人に関与していないからである。まったく個
人の責任の範囲で、個人の行動を選択するだけで足りるのである。
 したがって今、サバケタ息子の頭の中は「《親》>《息》>《捨》」となって
いるのであるから、彼は《捨》よりか《息》の方を選ぶだろう。
2:同じように、この社会では、「《親》:この本は親父が読む」か 「《捨》:
この本は焼き捨てる」か、そのどちらを選ぶかについては、まったくカタブツ親
父の自由である。なんとなれば、この選択は、他人に関与していないからであ
る。まったく個人の責任の範囲で、個人の行動を選択するだけで足りるのであ
る。
 したがって今、カタブツ親父の頭の中は「《捨》>《親》>《息》」となって
いるのであるから、彼は《親》よりか《捨》の方を選ぶだろう。
3:二人の自由な選択の結果(《息》>《捨》と《捨》>《親》)からすると、
最終的に「《息》:この本は息子が読む」が勝ち抜いてしまう。しかし、ちょっ
とまってほしい。カタブツ親父はおろか、サバケタ息子ですら、《親》>《息》
(息子が読むよりも、親父が読んだ方がいい)と思っていたのではなかったか。

《どのように権利体系を定めても、それが最小限の自由を保障するものであれ
ば、その権利の枠内でのひとびとの選択の結果がだれも望まないものになる(そ
の結果よりも,他のある実現可能な状態をみんなが一致して望む)場合が、かな
らずある》

この定理は,Amartya Senが示した〈自由主義のパラドックス〉として知られてお
り,個人の自由と効率性(全員一致の条件ともよぶ)とを両立させることはでき
ないことを主張している(『チャタレイ夫人の恋人』の比喩の原案もセンによ
る)。

 本書は他にも投票による決定のパラドックスやアロウの「一般可能性定理」か
ら、数理権利論のトピックをサーベイする。


■■カンパネッラ『太陽の都』(岩波文庫)================■amazon.co.jp

 「太陽の都」はユートピアである。
 「太陽の都」では、人の名前は、思い付きではつけない。古代ローマ人がやっ
ていたように(?)、めいめいの身体的特徴にもとづいて付けられる。
 「大鼻」とか「大足」とか「すがめ」「太っちょ」、そんな名前が付けられる
のである。

 しかし、いつまでもこのままという訳ではない。
 自分の仕事において傑出したり、戦争で何か手柄を立てたりすると、その尊敬
が名前に付け加わる。その仕事にちなんだあだ名が、姓として名前に追加される
のである。
 「偉大な画家」「黄金の画家」「卓越せる画家」「たくましい画家」などがあ
だ名であり、したがって「黄金の太っちょ」と呼ばれるようにもなる。
 あるいはまた仕事というよりも、むしろその行動にちなんで、「剛勇の太っ
ちょ」「知謀の太っちょ」「勝利者の太っちょ」「偉大な太っちょ」「比類なき
太っちょ」などとも呼ばれるようにもなる。


■■五木寛之『大河の一滴』(幻冬舎)==================■amazon.co.jp

 もうずっと前から「心の時代」というのが続いていて、どいつもこいつも「心
は大事だ」とそんな話ばかりする。本屋にちがったタイトルで積まれているたく
さんの本はみんな、「人生」や「生き方」についてと謳いながら、その実「心の
持ち方」のことばかり書いている。「プラス思考で生きなさい」だの「日々感謝
して生きなさい」だの「こう考えれば気が楽になる」だの。人生が「心」や「気
持ち」だけで出来ている訳がないのだが、「心」以外のものは「どうしようのな
いもの」だからだろう。生きる「よりどころ」を求める方も差し出す方も、実は
そんな「どうしようもなさ」にどっぷりに浸かっている。
 しかしどんな「心持ち」が望ましいかなんて、誰だって百も承知だ。楽しく愉
快な気持ちで生きられないのは、それだけの原因がある。「心」だけは自由にで
きるというのは大いなる勘違いであって、大抵の場合は「心」こそ、どうしよう
のないものなのだ。
 たとえばブッダは、エセ宗教家や仏教系大学のPRポスターなんかとちがって
「心の問題」など説かなかった。彼は死や老いといった、どうしようもないもの
を見つめることからはじめた。どんな「心持ち」になろうと、死や老いが、その
他様々なひずみや問題が、避けられる訳ではない。そんな、いわば究極のマイナ
ス思考からはじめるしかないのではないか、と著者は言う。
 「よりどころ」があり得ないことなど、今や誰だって百も承知のはずと、世に
満ちる「人生論」や世の中に満ちた「どうしようもなさ」に対して、この著者が
差し出すのはまたしても「マイナス思考」という、あるいは「覚悟」という「心
持ち」なのだ。「この本を読んで気が楽になりました」なんて感想文が送られて
くるらしい。
 もちろん、こんな本などドブに捨てるがいい。


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