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           読 書 猿   Reading Monkey
            第82号 (おうちへかえろう号)
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■■小林茂他編著『都市化と居住環境の変容』(早稲田大学出版部)===■amazon.co.jp

 団地住まいの哲学者が「団地なんかに住んで哲学ができるか」と吼える序論
がよい。


■■N.G.マンキュー『マクロ経済学1,2』(東洋経済新報社)==■amazon.co.jp
■■中谷巌『入門 マクロ経済学』(日本評論社)======■amazon.co.jp

 ここだけの話、経済学は「科学」である。自分が生まれる前の話なのではっ
きりしないが、社会科学の中でもっとも早く「科学」になったのは経済学であ
るらしい。それは何も経済学が他に先駆けて大々的に数理的方法をその中に持
ち込んだからではなく、何よりも「標準的教科書」を持つことができたからで
あるらしい。もっともそのふたつの間には何らかの関係がある。大々的に数理
的方法を持ち込んだ経済学者のひとりと、最初に「標準的教科書」を登場させ
た経済学者は同一人物であるらしいからだ。加えて「標準的教科書」という事
件が、その国の経済力・世界経済への影響力とともにアメリカ経済学を「デ
ファクト・スタンダート」に押し上げた一因であったことはこれまた周知の事
実であるらしい。
 現代では、教科書を持っている学問だけが、「科学」である。(もちろん、
これは「言い過ぎ」というより「言いがかり」だ)。その意味は、自覚された
方法論を「境界条件」として必要とする「科学」は、その伝統を担う学者の再
生産なしには成立しないし、その再生産に貢献するのは様々な学説を説く学者
でなく(彼らが再生産するのはせいぜいが学派の伝統を担う者=弟子であ
る)、固定されたテキスト=標準的教科書であるからである。
 教科書という考え方を発明したのは(デカルトよりも古い)ラムスという学
者であるらしい。ラムスやその追随者たちが主張したのは、どんなものについ
ても教科書が作れるということだった。今やあたりまえのようだが、たとえば
空手を通信教育でマスターすることが滑稽なように、紙の普及が遅かったヨー
ロッパではすごぶる無理な考えであった。当時は教育は口伝のかたちをとって
おり、「書き物」で学問できることが公認されるのは、まだずっと後のこと
だったからである。
 「書き物」の最終兵器たる教科書は、基本的に読み手が他への参照を必要と
しないものとして登場した(教科書の書き手はもちろん以下に述べる理由から
多くの参照を必要とするが)。ラムスが導入した方法は、その一冊の中に、そ
の分野の知識がすべておさまること、反対意見も何もかもそれに取り込むこ
と、したがってその一冊さえあれば(とりあえずその分野の学習には)他には
何も、ことによると口頭で教授する教師さえ、必要ないということ、それが教
科書の理念だった。
 教科書は他のもの、もちろん他の書物も必要としない。すなわちある教科書
は、他の書物から、いわんや他の教科書からも、(便宜上)はっきり切り離さ
れている。この教科書の閉鎖性、他の書物(他の教科書を含む)との相互絶縁
性が、逆にそれぞれの学問が自分自身を他の学問から切り離し独立させるのに
力となり、「個々の学問」なるものを成立させる後押しとなった。すなわち哲
学やもっと他の名で呼ばれていた知の形からの、「科学」の独立=成立であ
る。
 ところで、「世界のソニー」入りが取りざたされる中谷氏の手になる標準的
教科書「ナカタニマクロ」、これまた誰もが知ってる「マンキュー」のコピー
(ぱくり)と言われることが多いのはどういう訳か?


■■『広告批評傑作大会』(マドラ出版)================■amazon.co.jp

 ひどい鼎談が収録されている。まずメンバーがひどい(笑)。それからテー
マもひどい。もちろん、内容もひどい(笑)。
メンバー:森毅(数学者)、多田道太郎(仏文学者)、鶴見俊輔(哲学者)
テーマ:社会主義の立っている場所

……
> 森:実は僕、社会主義ってようわからへんの。資本主義はもっとわからへんけ
> どね(笑)。
>  明治時代、「ソサエティ」という言葉を日本語に訳すとき、最初は「会社」
> にしたという話があるでしょ。で、それがなぜかひっくりかえって「社会」に
> なったって。だから社会主義と日本の会社主義は、実は同じソーシャリズムの
> 双子なんやないやろか(笑)。
>  会社はシステムだから維持されんといかんし、構成員もわりに決まってるけ
> ど、サロンはいつ消えてもかまわないし、同じ人間ばっかりじゃ面白くないか
> ら、出たり入ったりのあるほうがいい。だから会社(社会)主義より社交主義
> のほうがええのと違うやろか。で、浅田彰に「社交主義って英語でなんていう
> のや」って聞いたら、「社交ダンスはソーシャルダンスですから、やっぱりソ
> ーシャリズムと違いますか」(笑)。
> 多田:国というのが基本単位だとしたら、森さんのおっしゃる社交主義という
> のは考えられない。僕らの常識から言うと、国と国が仲良くしているという図
> は想像できないわけね。だから「ロン、ヤス」と言い出したのは瞠目すべき時
> 代なんだけど、それもやっぱり偽善の上塗りみたいなところがあって、ロンと
> ヤスが仲良そうにすることで、かえって社交的な関係をつぶしてる(笑)、そ
> ういう逆説があるんじゃないですか。
> 鶴見:ゲイは民際的だね。「戦場のメリークリスマス」での捕虜と収容所所
> 長、イギリス人と日本人だけど、ゲイ的関係で民際的だったでしょ。ロンとヤ
> スもゲイだったら民際的になるんだが。ゴルフの後にシャワーに入ったりして
> さ(笑)。そうすれば関係ももっとイキイキしたものになるのに。
> 森:僕の知ってるゲイの人は、僕より年上だけどすごくてね、幼くしては歌舞
> 伎の下地っ子、長じては日劇の男性ダンサーで、軍隊にいた2年間「ボク」で
> 通したという。なんでそんなことが可能だったかというと、入営して一週間目
> にひとさし舞って連隊長付きになっちゃって、昼間はみんながしごかれとるの
> をボケーっと見とって、夜になると「どうしてあんなにカリカリしたのよ、新
> 兵さん可哀想じゃない」と隊長にお酌するという(笑)。おかしいのは、戦後
> は共産党のアジトを転々としながら文化工作員やって、赤旗の歌でバレエを踊
> り、インターナショナルでタップを踏み、それがレッドパージでだめになった
> ら、一転してアメリカ軍の将校のお妾さんになってしまった(笑)。もう、日
> 本帝国主義も共産主義もアメリカ帝国主義も関係ないわけ。
> 鶴見:アンドレ・ジッドは、その方法を思いついて駆使しなかったところで、
> 文学者としていたらなかった。
> 多田:彼はアフリカの少年とは同棲していたけど。
> 鶴見:ジッドとアフリカ人は民際的なんだ。イーエム・フォスターもアフリカ
> とは民際的だったけどね。フォスターは、民際的社会主義者だったが、ジッド
> はロシアに行っても民際的方法を駆使しなかった。
> 多田:僕なんかも駆使しませんでしたけどね。


■■『歎異抄』(岩波文庫、他)====================■amazon.co.jp

 師匠の親鸞は、弟子に「とりあえず1000人殺してこい。そしたら極楽へ
行けるから」と言う。その弟子は「とてもムリです。1000人どころか1人
もムリ」と応えるのである。
 もちろん、この後にはオチがある。ここがカンドコロである。

「これにてしるべし。
なにごともこころにまかせたることならば、往生のために千人ころせといわん
に、すなわちころすべし。
しかれども、一人にてもかないぬべき業縁なきによりて、害せざるなり。
わがこころのよくて、ころさぬにはあらず。
また害せじとおもうとも、百人千人をころすこともあるべし」

 こういうのがほんとの意味で唯物論だと思う。しかしひどい話である。


■■『広告批評傑作大会』(マドラ出版)================■amazon.co.jp

 ひどい鼎談のつづきである。

> 多田:どんな精密なこと言ったところで、学問というのはある価値観によって
> かちっと決まるモノだし、我々はどうせ偽科学者なんだから、そんな学問には
> 関係しないで、偽科学という領域で頑張ってニセモノで通したらいい、という
> わけですね。
> 森:考えてみたら、僕には昔からニセモノという概念が余りなくてね。という
> ことは、ホンモノという概念もないと言うことなんだけど。
> 鶴見:じゃあ、すべてがニセモノなんだ、森さんにとっては。
> 森:そう、全部ニセモノ。
> 多田:一庶民として言いますと……
> 森:ほほう、自ら庶民を名乗る(笑)。
> 多田:とにかく一庶民としては、自分の価値判断に自信がないわけです。例え
> ば中央アジアに行くと、いろんな布を売ってたりするけど、僕は布地について
> の感覚はないから、それがどれほどのモノなのかわからない。ただ安いなあと
> か、頑張って売ってるその姿についホロリとなって、これ女房のおみやげにえ
> えなあと思って買って帰ってくる。
>  女房に見せたらせせら笑われて、「あんた、何でこんなもの、わざわざロシ
> アから買うて来たの」。そう言われると、それまでは珍しいモノに違いないと
> か思っていたその布が、たちまちしようもないモノに見えてきてしまうのね。
> そういうことについては、彼女の方がきちっと世界の価値観を把握しているイ
> ンテリなんだと思えて。
> 鶴見:奥さんがインテリで、多田さんが庶民(笑)。
> 多田:僕は買って帰って、すごく惨めな思いをする。それでも、僕が面白いと
> 言うだけの余裕があればインテリですけどね。あれは辛かったなあ。買った瞬
> 間は、これはいい買い物をしたと思って、ものすごい快感を感じたんですけど
> ね。でも、ある価値観の世界を外れたということについては、僕は自信を持て
> ないんです。
> 森:僕だったら、それはそれなりに奥さんは目が肥えてる、ということをのろ
> ける材料ができただけの話で(笑)。
> 鶴見:悪人性が強いからね、森さんは。同じ新聞に同じ原稿を、つい忘れて二
> 度書いちゃって、気が付いたらそのことをまた週刊誌に書いたという。一度食
> べて二度おいしいってCMがあるけど、同じネタで3度も儲けるんだもの。グ
> リコ以下だね(笑)。
> 多田:若い頃、鶴見さんに私淑しててね。忘れもしない朝鮮戦争の時、北朝鮮
> 側がいいのか韓国側がいいのか、僕は本当にわからなかったんよ。これはえら
> いことになったなあ。舞鶴から上陸して、四条畷(なわて)あたりで北と南か
> ら銃撃戦がはじまったら、どっちの側で鉄砲撃ったらええでしょうか。そんな
> ことを悩んで鶴見さんに相談したら、「いや、多田さん、人生はそんなにドラ
> マチックなモノじゃないですよ」。ああ、そうかと思ったの。言われてみれ
> ば、確かに朝鮮戦争は日本にとっては目立ってドラマチックではなかった。そ
> れが、ここ2、3年、普通のことが全部ドラマチックになってしまっている。
> そうすると、鶴見さんの教えも何か怪しくて。

(このあと多田道太郎は、泣きながら安吾を語り、よっぱらって「さあ、もう
一回鼎談しよう」、というのである)。


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