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           読 書 猿   Reading Monkey
            第65号 (カタカナの日号)
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■■佐藤春夫『美しき町・西班牙犬の家 他六篇』(岩波文庫)=======■amazon.co.jp

 巻末の解説で池内紀が、佐藤春夫に寄せられた批評を紹介している。それに
よると佐藤はその華麗なる文才が災いして「まとまらない作家」(小林秀雄)
とか「ほんとうに自分に何が必要なのであるか、自分の本体の実質は何なので
あるか(中略)それが彼その人にとっても訳がわからなくなってしまう」(広
津和郎)などと言われたそうである。池内も強いてそれに反論しているわけで
はない。
 まずこのあたりが佐藤春夫に対する一般的な評価なのだろう。馬鹿馬鹿しい
評価だと思う。こういう手合いに限って、漱石は後期の作品よりも「猫」や
「三四郎」が面白いと言い、芥川ならばほんの初期作品にしか理解を示さない
のである。
 こういった批評に時代の移り変わりを覚えるのと同様、佐藤春夫のその華麗
なる文才なるものにも時代を感じる。ここに収録された八つの作品のうち現代
の鑑賞に堪えるのは、最後に収められた「F・O・U」と「山妖海異」くらい
ではないか。「F・O・U」の幻想性は上出来だと思う。この小説では結末の
少し前にそれまでの謎を種明かしするかのような第三者の視点が導入されるの
だが、それで何もかもがすっきりしたという具合にはなっていない。そこが良
い。いや、作者は種明かしのつもりで書いたのかも知れぬが、読後感がそうい
う解決編を拒むのである。読者はそれだけこの小説に誑かされているのであ
り、つまり小説読みとしては幸福この上ないことである。
 「山妖海異」は出来の悪い柳田國男、あるいはその二番煎じとも見える作品
だが、熊野を巡る伝奇的なエピソードに接したのなら素直に中上健次を思い浮
かべるべきである。それにたとえまがい物に思えても(または真実その通りで
も)、その怪異なエピソードそのものは本当のことであり、そう言えば見知ら
ぬ土地の珍しい話を聞くことは面白い経験ではなかったか。
 実はここに収められたどの短編も、そういった「もの珍しい話」を語って聞
かせようとした小説ばかりなのである。しかも語り手は様々な文体を使い分け
る手だれである。それを「まとまらない」と言うのは、言った本人が自分の野
暮を暴露したに過ぎない。ただ、悲しいことに、八篇のうち五篇はどうにも面
白くない話だったのである。


■■イブン・バットゥータ『三大陸周遊記』(角川文庫)==========■amazon.co.jp

 いつまでも旅をしているだけなので途中で読み飽きてしまった。


■■天樹征丸・金成陽三郎・さとうふみや『金田一少年の事件簿』CASE1■===■amazon.co.jp

講談社が出している『少年マガジン』連載作品のコミック単行本で、通算で
は第28巻だが、新装丁リニューアル第1巻。本巻から1巻完結方式採用。従
来、マンガでの本格推理物は成功しないと言われ続けてきていたジンクスを打
ち破ったと評価されているらしい『金田一少年』の最新刊である。

さて、内容確認。カバーで包まれた表紙を開くと、内表紙があって、その裏
ページが目次。一応、各章の開始ページ数が記されているが、本編の各ページ
面にノンブル(ページ番号)はない。どのページにも全くない。例えば、目次
を見て「第4章 裁きの夜〜〜93」を開こうにも、どこが93ページなのか
は分からない。ヤマ勘で本を開き、「第4章 裁きの夜」と章タイトルの記さ
れたページに行き着くまで、前後にページを繰っていくしかないのである。な
るほど、さすが本格推理物。ページ数までが『謎』として隠されてしまってい
るのだ。君にこの謎が解けるか?!解けても大したこっちゃないが…。せいぜ
い「謎はすべってコケた!」と叫んで終わりっちゃ。


■■中井英夫『虚無への供物』(創元文庫他)================■amazon.co.jp

 各方面で中途半端な小説である。
 「戦後推理小説の金字塔」というようなキャッチフレーズもあって、島田荘
司が出るまで、驚いたことに、「ミステリーベストテン」というような企画で
上位を占めていたこともあるが、ミステリーと言えばそれこそこの小説が上位
にあったことそのものがミステリーで(ただし、他になかったから、という消
去法で上位にあった可能性はあるけれども)、というのは、誰が見てもトリッ
クが杜撰。途中の話が長いから忘れてしまう可能性はあるが、終わってから、
それじゃあ最初に出てきたあの◯◯◯(一応伏せておく)は一体何だったん
だ、ということになる(しかもと言うか、それでもと言うか、それだからと言
うべきか、中井はこのトリックを別の短編で堂々ともう一度使っている)。
 「いやそうじゃなくて、これは「アンチ・ミステリー」なんだから」、とい
う擁護論もあるだろうが、純粋に「アンチ・ミステリー」と言えば、安吾の
『不連続殺人事件』に分が上がる。『不連続殺人事件』なんて、ミステリーど
ころか、もうとんでもないことを敢えてやっているのだから、あれで推理小説
は死んでいるのである。安吾なんて、ソクラテス=プラトン、アリストテレス
に対するデモクリトスかエピクロスか、というところである。しかもそれを堂
々とタイトルに入れているストレートさである。
 「いやそうじゃなくて、『虚無への供物』には『不連続殺人事件』にない
「形而上学的な問い」がある」、という擁護論もあるかもしれないが、笑わせ
る。ヨーロッパではこの問題について1000年来の論争があるのだし、それどこ
ろか中国では、司馬遷がこの問題を考えるために(だけではないが)歴史その
ものを再構成してzあの『史記』を書かねばならなかったのである。
 「いやそうじゃなくて、中井英夫の本領はミステリーとか形而上学にあるの
ではなくて、むしろ細部にあるのだ」、という擁護論もあるだろうが、例えば
ペダントリーにしたところで、『黒死館』の可愛らしさにはるかに劣る。『黒
死館』なんてそれこそ無茶無茶である。
 ようするに、ごたごたといろんな要素が入っていれば、人は混乱して簡単に
だまされるということを証明する好例である、という結論に尽きる。


■■廣川洋一『イソクラテスの修辞学校』(岩波書店)===========■

 プラトンは学園の入門者達に幾何学を学ぶことを要求し、『国家』に描いた
理想のカリキュラムでは、30歳にいたるまでの長い時間を数学(算術、平面
幾何、天文学、音楽)に費やした後でないと、真に学ぶべき哲学的問答術には
進めないとした。数学のトレーニングの中で、鍛えられ培われるだろう力、す
なわち「空論にちかいまでに詳細な議論と、現実遊離といわれるくらいの高遠
な思索」を行いまたそれに耐える力なしには、プラトンが希求すべきであると
する知は獲得できないと、考えたからである。
 プラトンの学園「アカデメイア」に先んじること数年、同じアテナイにもう
ひとつ高等学問機関が開設された。イソクラテスの学校である。
 元は法廷弁論の代筆家だったイソクラテスの学校は、プラトンの「アカデメ
イア」同様、その教育理念の中心にピロソピアー(ギリシャ語、原義を「知を
愛すること」)を据えていた。もちろん二つの学校は、カリキュラムの面で
も、教育の方針についても、そして身につけるべきであるとする知のあり方に
ついても、大きな違いがあった。
 プラトンのいうピロソピアーは、多様性と変化に満ちた現実から一旦距離を
置こうとする観照者の知であった。「空論にちかいまでに詳細な議論と、現実
遊離といわれるくらいの高遠な思索」のトレーニングはそのために他ならな
い。それは対象に関していえば、その本性を把握せんとする知(エピステー
メー)であり、我々が知る哲学(フィロゾフィ)も無論、このプラトンのピロ
ソピアーの系譜に連なるものであった。
 しかしプラトンのそれは、実のところ古代ギリシャ語のピロソピアーという
言葉の用法としては、かなり特殊なものだった。より伝統的用法に近いところ
で、だがやはり特殊な意味をピロソピアーという言葉に担わせようとしたの
が、イソクラテスである。プラトンがそのイメージを数学者・神秘家ピタゴラ
スに求めたのとは反対に、イソクラテスがいうピロソピアーは、政治家であり
賢者であったあのソロンや同じくすぐれた政治家であったペリクレスについ
て、古代ギリシャ人が抱いていたイメージに起源がある。
 歴史家ヘロドトスやトゥキュディデスの証言によれば、彼ら政治家・賢者は
決して観照者ではなかったが、ピロソペインし(知識を探し求め:ソロン)、
またピロソペインする(教養を積む:ペリクレスとアテナイ人)ことを怠らな
かった。[ピロソペインは無論ピロソピアーの動詞である]。
 イソクラテスが自身の学校で行われる、言論の錬磨を中心とする〈教養理
念〉をピロソピアーと呼んだのは、このような伝統的用法に即してだった。人
は、ピロソペインする(=教養を積む)ことによって、つまり〈教養理念〉と
してのピロソピアーによって、運命としての「素質」からの解放を可能にす
る。あるいは、人が言葉の使用によって他の動物から区別されるように(言葉
を使うことによって、動物から人へとなり得たように)、言論の錬磨を中心と
するピロソペインする(教養を積む)ことによって「よりよき人間」となり得
るのだ、とイソクラテスは考える。ここに教育なるものの存在理由があり、そ
して、のちに人間的教養・人文的知と呼ばれることになるだろう知のあり方が
ある。これはローマ世界を席巻し、キケロらを通じて中世世界に、そしてイタ
リア・ルネサンスの人文主義へとつながり、これに影響を受けたイエズス会の
教育システムを通じて、近代においてふたたび学校システムへと強い影響を与
えることになる。

 イソクラテスにとってのピロソピアーの意義が、以上のようなものであった
とすれば、そのピロソピアーの内容(そして彼が希求すべきとする知の内容)
はどのようなものであったのか。イソクラテスは、「教養ある人」とはどのよ
うな者であるかと自ら問い、概ね次のような解答を与える。すなわち「教養あ
る人」とは、よき思慮・賢慮(プロネーシス)を持った者であり、それ故に彼
はすべての実際的行動・実践を立派に行うことができるはずである、と。この
よき思慮(プロネーシス)こそが、イソクラテスが希求すべきとする知に他な
らない。
「有益な事柄についてあり得る仕方でドクサを持つ(=健全な判断をする)こ
とは、益もない事柄についてエピステーメーを持つ(厳密な仕方で知識を持
つ)ことよりもはるかに有力である」(「ヘレネ頌」)
 ここでイソクラテスは、大抵の場合に妥当する知と、あらゆる場合に妥当す
る知(不変妥当な知・必然的真理)を比較している。プラトンらが求める知が
後者、すなわちエピステーメー(厳密な知識)であることは言を待たない。エ
ピステーメー(厳密な知識)を手に入れることは、必ずしも不可能ではない。
たとえばプラトンが初学者に学ばせようとする幾何学がそうである。しかし、
すべてのことについて、幾何学ほどに厳密な知を手に入れることが可能だろう
か。とくに言説や行動といった実践的な場面について、「それを手に入れれば
何を為すべきか、あるいは何を言うべきかを〔確実に〕知る事のできる」よう
な知を手に入れることが可能だろうか。
 さらに加えて次のことを指摘しなければならない。あらゆる場合に普遍妥当
な真理は、本来的に「時と場合」を欠いている。「好機(カイロス)は知識
(エピステーメー)の目に止まらない」。しかし「時と場合」に応じて処する
ことこそ、「立派に語ること」「立派に行うこと」、実践的知性に求められる
べきことではないか。
 イソクラテスは、エピステーメー(厳密な知識)の「健全な断念」の上に、
すばやい実践的知性の座を据える。観照者としてのピロソポスがエピステー
メー(厳密な知識)へ向かおうとするのに対し、実践知性を担うピロソポス
は、たいていの場合に妥当するドクサ(健全な判断)の働きを養おうとする者
として現れるだろう。物事の好機(カイロス)によく注意を払い、多くの場合
にそれらから結果するものを見定めようと努めるものは、もっともよく好機
(カイロス)を把握する。この、よく好機(カイロス)を把握する力が、言論
の錬磨のうちに育てられるであろうドクサ(健全な判断)であり、そして人間
生活や人間の活動についての知である思慮(プロネーシス)は、このドクサの
作用に他ならない。



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