=== Reading Monkey =====================================================■読書猿は、全国の「本好き」と「本嫌い」におくるメールマガジンです。
読 書 猿 Reading Monkey
第55号 (それもいい号)
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■■ヨハンナ・スピリ『アルプスの山の娘(ハイヂ)』(岩波文庫)=====■
さる友人によれば、クララのお父さんのゼーゼマンさんというのはユダヤ人
だそうだ(根拠:フランクフルトに住んでいる。銀行家である、等)。
私の説によれば、クララの養育係りのロッテンマイヤーさんはゼーゼマンさ
んに恋心を抱いているのである。
アニメの『アルプスの少女ハイジ』のロッテンマイヤーさんはかなりのおば
さんに描かれていたが、野上弥生子訳(少々古風だがいい訳だと思った)の印
象では、もっと若い感じがする(野上さんは「フロイライン・ロッテンマイヤ
ー」としていて、つまり英語なら「ミス・ロッテンマイヤー」だが、それのせ
いかもしれない。ミスでもオールドミスだってこともあるわけだが。因みにド
イツ語でオールドミスはein aelteres Fraeuleinと云う(そのままであるが)。
今調べた)。
ところで内容だが、みなさんご存じの通りである。少し違うところは、キリ
スト教臭さが強いというところか。神を捨てて人も捨てたおじいさん(その若
い日々は詳しくは描かれていないが、軍隊にいたことや、放蕩を重ねたこと、
何か辛いことがあったらしいことがほのめかされている)が、ハイヂやクララ
のおばあさんのおかげで再び神さまを信じるに至るということになっているの
だが、これはアニメにはない部分だろう。「放蕩息子の帰還」にしては、少々
とうが立っているが。
ところで私に関して言えば、5頁に一回くらいの割合で泣いた。
■■吉田戦車・川崎ぶら『失敗成功中ぐらい』(角川書店)=========■
『たのもしき日本語』が面白かったからといってこれを買うと後悔すると思
う。
■■『二葉亭四迷全集』(筑摩書房)===================■
> 言文一致に就いての意見、と、そんな大した研究はまだしてないから、寧ろ
>一つ懺悔話をしよう。それは、自分が初めて言文一致を書いた由來――もすさ
>まじいが、つまり、文章が書けないから始まったといふ一伍一什の顛末さ。
> もう何年ばかりになるか知らん、余程前のことだ。何か一つ書いて見たいと
>は思ったが、元來の文章下手で皆目方角が分らぬ。そこで、坪内先生の許へ
>行って、何うしたらよからうかと話して見ると、君は圓朝の落語を知ってゐよ
>う、あの圓朝の落語通りに書いて見たら何うかといふ。
> で、仰せの侭にやって見た。所が自分は東京者であるからいふ迄もなく東京
>辯だ。即ち東京辯の作物が一つ出來た譯だ。早速、先生の許へ持って行くと、
>篤と目を通して居られたが、忽ち礑と膝を打って、これでいゝ、その侭で
>いゝ、生じっか直したりなんぞせぬ方がいゝ、とかう仰有る。
> 自分は少し氣味が惡かったが、いゝと云ふのを怒る譯にも行かず、と云ふも
>のゝ、内心少しは嬉しくもあったさ。それは兎に角、圓朝ばりであるから無論
>言文一致體にはなってゐるが、茲にまだ問題がある。それは「私が……で厶い
>ます」調にしたものか、それとも、「俺はいやだ」調で行ったものかと云ふこ
>とだ。坪内先生は敬語のない方がいゝと云ふお説である。自分は不服の點もな
>いではなかったが、直して貰はうとまで思ってゐる先生の仰有る事ではあり、
>まづ兎も角もと、敬語なしでやって見た。これが自分の言文一致を書き初めた
>抑もである。
> 暫くすると、山田美妙君の言文一致が發表された。見ると、「私は……で
>す」の敬語調で、自分とは別派である。即ち自分は「だ」主義、山田君は「で
>す」主義だ。後で聞いて見ると、山田君は始め敬語なしの「だ」調を試みて見
>たが、どうも旨く行かぬと云ふので「です」調に定めたといふ。自分は始め、
>「です」調でやらうかと思って、遂に「だ」調にした。即ち行き方か全然反對
>であったのだ。
> けれども、自分には元來文章の素養がないから、動もすれば俗になる、突拍
>子もねえことを云やあがる的になる。坪内先生は、も少し上品にしなくちゃい
>けぬといふ。徳富さんは(の其頃『國民之友』に書いたことがあったから)文
>章にした方がよいと云ふけれども、自分は兩先輩の説に不服であった、と云ふ
>のは、自分の規則が、國民語の資格を得てゐない漢語は使はない、例へば、行
>儀作法といふ語は、もとは漢語であったらうが、今は日本語だ、これはいゝ。
>しかし擧止閑雅といふ語は、まだ日本語の洗禮を受けてゐないから、これはい
>けない。磊落といふ語も、さっぱりしたといふ意味ならば、日本語だが、石が
>轉がってゐるといふ意味ならば日本語ではない。日本語にならぬ漢語は、すべ
>て使はないといふのが自分の規則であった。日本語でも、侍る的のものはすで
>に一生涯の役目を終ったものであるから使はない。どこまでも今の言葉を使っ
>て、自然の發達に任せ、やがて花の咲き、實の結ぶのを待つとする。支那文や
>和文を強ひてこね合せようとするのは無駄である、人間の私意でどうなるもん
>かといふ考であったから、さあ馬鹿な苦しみをやった。
> 成語、熟語、凡て取らない。僅に參考にしたものは、式亭三馬の作中にある
>所謂深川言葉といふ奴だ。「べらぼうめ、南瓜畑に落っこちた凧ぢゃあるめえ
>し、乙うひっからんだことを云ひなさんな」とか、「井戸の釣瓶ぢゃあるめえ
>し、上げたり下げたりして貰ふめえぜえ」とか、「紙幟の鍾馗といふもめッけ
>へした中揚げ底で折りがわりい」とか、乃至は「腹は北山しぐれ」の、「何で
>有馬の人形筆」のといった類で、いかにも下品であるが、併しポエチカルだ。
>俗語の精神は茲に存するのだと信じたので、これだけは多少便りにしたが、外
>には何にもない。尤も西洋の文法を取りこまうといふ氣はあったのだが、それ
>は言葉の使ひざまとは違ふ。
> 當時、坪内先生は少し美文素を取り込めといはれたが、自分はそれが嫌ひで
>あった。否寧ろ美文素の入って來るのを排斥しようと力めたといった方が適切
>かも知れぬ。そして自分は、有り觸れた言葉をエラボレートしようとかゝった
>のだが、併しこれは遂う/\不成功に終った。恐らく誰がやっても不成功に終
>るであらうと思ふ、中々困難だからね。自分はかうして詰らぬ無駄骨を折った
>ものだが……。
> 思へばそれも或る時期以前のことだ。今かい、今はね、坪内先生の主義に降
>參して、和文にも漢文にも留學中だよ。
> (明治三十九年五月「文章世界」所載)
いや、いいねえ(笑)。ポエチカル(笑)、たのもしき日本語(笑)。
■■ベーコン『学問の進歩』(岩波文庫)=================■
帰納法の提唱や4つのイドラ説をもって、フランシス・ベーコンを「近代科
学の祖」としてしまうなら、いささか公平さを欠くことになってしまうだろ
う。第一、デカルトに反旗を翻しレトリカ(あるいは人文的知)を擁護した
ヴィーコが、なぜ自分の守護聖人に他ならぬベーコン卿を選んだのかがわから
なくなる。
未完に終わった『大変革』の手始めに、『学問の進歩』においてベーコンは
学問の擁護と総点検を試みる。現行の学問に何が「欠けている」かを指摘する
ために、ベーコンは人間知性の分類から網羅的な学問体系(「知性の地球
儀」)を構築する必要があった。これは、現在の学問のみならず、人間知性の
可能性の総体、つまり未だ存在しないものもかつて存在したものも、すべて含
めるという意味で「網羅的」であった。彼の批判が、スコラ学者がいかに「人
間知性の可能性」を縮減し、学問をその可能性の実現から遠ざけたかを攻め立
てる一方で、ベーコンの「網羅」は誠実を極める。
しかしベーコンの「レトリカの擁護」は、消え去らんとする旧学問にも居場
所を分け与えようという消極的なものに止どまらなかった。彼はスコラ学者の
「精緻であり、かつ止めどもない議論」が学問の進歩をどれほど衰退させ、ど
れほど物笑いの種にしたかを漏らさず指摘するが、「無益な議論」の批判を彼
は「事実にだけ依拠する、もはや議論を要しない学問」の立場から行ったので
はなかった。
彼は科学者ではなく、まず弁護士から大法官へと登りつめた法律家だった。
実生活がそうであるように、彼にとっては、事実なしで結論が出ることは有り
得なかったが、事実だけで結論が出ることもなかった。議論はいつも生じる。
意見は常に異なり得るし、見解は相違する。しかし法律家がスコラ学者と異な
るのは、議論を際限なく続ける訳にはいかないことだった。正しく議論を行う
ために、つまり議論をきちんと終えるために、レトリカは用いられなければな
らず、またもっと鍛え上げられなくてはならなかった(そしてあの有名なイド
ラについて、それを破るのはデカルトのような理性の明証性ではなしに、むし
ろレトリカに属する「論破法」----その方面で発達は今後を待たなければなら
ないにしても----であるとベーコンは述べている)。この件に関しては、ベー
コンは、『レトリカ』を書いたアリストテレスすら「まだ足りない」と批評
し、むしろデモステネスやキケロらの実際の弁論家に組みしている。
「議論の余地がある問題」に目を閉ざし、それらを学から追い出すことは、
「人間知性の可能性」を縮減することに他ならない。元デカルト学徒であり、
かつ修辞学(レトリック)の教師だったヴィーコの批判は、デカルトの方法の
全否定ではなく(彼はその方法の存在価値も強力さも十分に認めていた)、
「しかし、それでは足りないではないか」ということだった。プレ・デカルト
のベーコンは、未だ登場していなったデカルトを「欠けているもの」としなけ
ればならなかった。そしてポスト・デカルトのヴィーコは、ベーコンを守護聖
人として、言葉や歴史や神話を「学問」に召喚する。
■■式部瀧三郎、木村己之吉(編)『男女交合得失問答』(?)=======■
一応、式部瀧三郎、木村己之吉(編)としたが、実は好く分からない。
奥付によると、出たのは明治19年(1885年にあたるだろう)で、この「東京
府平民 式部瀧三郎」、「東京府平民 木村己之吉」という二人は、「翻刻出
版人」という肩書きで掲載されているものである。のだが、果たしてこれはど
ういう資格なのだろう。むろん、現在のように出版社や印刷所が書いてあるわ
けではない。
ここで(編)としたのは、中に収められている記事は、そのそれぞれに「東
京駿河台 伊東某」というような(「某」まで原文のまま)署名のあるもの
で、だとすると式部、木村は著者とは言えないわけで、編者かなと、そう思っ
たわけである。
ともかく、明治の出版状況に詳しい方のご教示をお願いする。
ということにして、で、内容だが、タイトル(なんにょかうがふとくしつも
んどう)そのままである。
目次の一部を引いてみよう。ルビが興味深いので、ルビも引用する。()が
それである。
第一 生殖器論(こまうけきかいのこと)
第二 妻妾をして閏(みさほ)を守らしむるの法
第三 交合の際(おり)精液早く漏れて其情を尽くす能はざるを防ぐ法
……
第五 少女(おぼこ)と成女(いろけづきたる)を識別(みわけ)するの奇
法
第六 随意に(こころのまま) 男児(おとこのこ)を挙け(まうけ) 女
児(おんなのこ)を生む法
……
第十 陰茎(まへのもの)の勃起するを防ぐ法
第十一 精液(いんすい)を増多し精虫(こだね)を生せしむる法
第十二 婦人の月経(つきやく)不順を治する薬法
題十三 男女交合の際(とき)精液早く漏れて快味(よきあじ)尽くす能は
ざるを防ぐ法
第十四 交合の後陰部の拭浄(そうぢ)に注意すべし
……
第十九 娼妓(ぢょうろ)と交合するの害及其理由
……
第廿二 子女(こども)生来(うまれつき)の智愚(りこうばか)も亦交合
の道其正(ただしき)を得ると得ざるとに関す(問数件)
……
第卅一 交合を行うの度(ほど)を論ず
……
第卅三 生来(うまれつき)短小(ちいさ)なる陰茎をして長大ならしむる
法
……
第五十一 少女(きむすめ)と成女(きむすめてない)を鑑別(かんてい)
するの簡法
第五十二 手淫(ていたつら)の害に因て交合の快味を受るを能はざるを治
する法
第五十四 男女過淫(しすぎ)の害
……
途中引用を大幅に略したりしたのは、延々この調子でもあるし、同じテーマ
が繰り返し別記事として現われたり(「こまうけきかいのこと」がとりわけ多
い)からである。それに、質問(どうしたら好い子生まれるか、とか)が列挙
されているだけのコーナーもある(「問数件」というのはそいうこうことであ
る)。
つまり、はっきり云ってずさんな編集である。
本文は別に紹介する必要も、ま、ないであろう。
表紙を開けた扉部分には、たぶんイザナギとイザナミの国生みの神話の場面
だと思われる図が挿入してある。
本文中にも図版入り(もろにそのままの図の他、「ケヂラミノ図」などもあ
り)。