=== Reading Monkey =====================================================
           読 書 猿   Reading Monkey
            第29号 (郵貯でぱるる号)
========================================================================
■読書猿は、全国の「本好き」と「本嫌い」におくるメールマガジンです。
  姉妹品に、『読書鼠』『読書牛』『読書虎』『読書兎』『読書馬』『読書羊』
  『読書龍』『読書蛇』『読書鳥』『読書犬』『読書猪』などがあります。
 ■読書猿は、本についての投稿をお待ちしています。

■■影山健・岡崎勝編『みんなでトロプス!』(風媒社)=========■amazon.co.jp

 トロプスというのは、スポーツsportの逆さつづり、tropsである。
「コーポレイティブスポーツ」や「非暴力トレーニング」「プレイフェア」な
んかの流れを組むものらしい。

 偶数の章はいろんなリクリエーションゲームの紹介、奇数の章はその理論付
け、つまり「何故、人間は体育系であってはいけないか」の説明である。

> 「スポーツバカ」という言葉は、単純で頭を使わず、権威に弱くて、いつも
>体制のお先棒かつぎにまわるスポーツ関係者に対する蔑称として使われている
>と思います。このような言葉が生まれてきたのも、スポーツマン達が、特殊化
>したスポーツに生活をとられ、自分の頭で物を考えることもせず、ひたすら指
>導者の命令通りにしか動けぬスポーツロボットにされてきた結果なのではない
>でしょうか。

ね。

> かつて学園闘争の嵐が吹き荒れていた時代に、運動部とか体育会とかに所属
>する人たちは、他の多くの学生たちが学問のあり方、社会のあり方について真
>剣に考え、その問題意識を具体的行動にうつした時、大学当局の用心棒のよう
>な役割を果たし、学生たちの運動をつぶしにかかりました。
> これら、体育会、運動部出身者は学校の体育教師となっていく場合が多いの
>ですが、ここでもその本性を余すことなく示していきます。私が住む愛知県は
>管理主義教育の先進県として全国にその名を知られたところですが、管理主義
>教育の中で行われている教師の体罰・暴力の実態を聞くと、体育教師がその尖
>兵となっている場合が非常に多いのに驚かされます。また最近では、企業がそ
>れぞれの生産性を上げるために社内教育というのが盛んですが、ここでも運動
>部出身者は重宝がられているようです。権威に対し従順で、疑うことを知ら
>ず、その上、大声を出して他人を命令し、下に置くことが大好きな人種なので
>すから、経営者サイドにとっては大変使いやすい人材であるに違いありませ
>ん。

ね、ね。

■■プラトン『パイドン』(中央公論社、他)=========■amazon.co.jp

 今日は朝からぴかぴかの上天気で空はまるでギリシャのようである。こうな
ればプラトンでも読むしかあるまい。
 プラトンの多くの対話篇の中でもソクラテスの最後を描いて名品の誉高い
『パイドン』を読んだ。伝統的に「魂について」というサブタイトルで呼ばれ
ているもので、時が時だけに話題はあの世とか魂の不死とか取り上げられ、こ
れがまたソクラテス=プラトンの中心的な教説でもあるという豪華な逸品であ
る。ライプニッツが感激して抜き書きというかそんなものを作っている。
 面白かった。

 いくつか気になったところがあった。62aである。池田美恵訳の世界の名著
版(中央公論社)ではこうなっている箇所だ。

>「……君にはたぶん、不思議に思えるだろうね。」
>ケベスがくすくす笑って、
>「ほんまに」とお国言葉まるだしで言いました。

 「ほんまに」である。
 藤沢令夫訳の筑摩の文学大系版(筑摩書房)ではこうなっている。

>「……おそらく君は不思議に思うだろうね。」
>ケベスは苦笑して、
>「まったくですがな」
>とお国なまりを出して言いました。

 「まったくですがな」である。The Collected Dialogues of Plato
including the letters版所収のTredennickによる翻訳(元はペンギンクラシ
ックスのものだが)、それではこうだ。

>Don't you think so?
>……And it probably seems strange to you that ……
>Cebes laughed gently and, dropping into his own dialect, said,
>Aye, that is does.

 'Aye'である。
 くすくすなのか、苦笑なのか、gentlyなのかも気になるところだが、翻訳者
はやはりお国言葉に悩むところであろうと思う。お国言葉、dialectと言う
が、当のケベスの故郷はテーバイでである。例のオイディプス王縁りの地だ。
とは言え、それが分かったとしてもそれが日本で言えばどういう地方に当たる
か分からないが、方言といったって日本語の場合には山ほどある。いくつか試
案を考えてみた。例えばこんなのはどうだろう。

 例1)
  「……君には、不思議に思えるだろうね。」
  ケベスは笑って、
  「そうずら」
  と、お国なまり丸出しで言いました。

 例2)
  「……君には、不思議に思えるだろうね。」
  ケベスは笑って、
  「ほんに、そうどすなあ」
  と、お国なまり丸出しで言いました。

 例3)
  「……君には、不思議に思えるだろうね。」
  ケベスは笑って、
  「そうじゃけんのう」
  と、お国なまり丸出しで言いました。

 例4)
  「……君には、不思議に思えるだろうね。」
  ケベスは笑って、
  「んだ」
  と、お国なまり丸出しで言いました。

 例5)
  「……君には、不思議に思えるだろうね。」
  ケベスは笑って、
  「そらそーだがね、たーけー」
  と、お国なまり丸出しで言いました。

 言うまでもないが、「たーけー」は「たわけ」であって、関西で言えば「あ
ほ」に当たるだろうが、あんまりしきりに使われるものだから、名古屋人は―
―と、知り合いの名古屋人が言うのだが――例えば学校などで先生に何か言わ
れて、「分かりましたたーけー」と言うほどに骨髄にまで染み込んだ言葉なの
だと主張するので付けてみたが、どうだろか。

■■正岡子規『仰臥漫録』(岩波文庫 他)===============■amazon.co.jp

 ぼくらは、この人がもうすぐ死ぬことを知っているのだが、それはこの人
だってちゃんと知っているのだが、それでもこの人は生きていて、だからモノ
を食べて、脱糞して、イタズラを考え、看病してくれている妹を「冷淡だ」
「強情だ」「同情同感なき木石の如き女なり」とののしり、母親に「たまら
ん、たまらん」と叫び、日記を書く。

>朝 粥四碗 はぜの佃煮 梅干し(砂糖つけ)
>昼 粥四碗 鰹のさしみ一人前 南瓜一皿 佃煮
>夕 奈良茶飯四碗 なまり節(煮ても少し生にても) 茄子一皿

 ぼくらは、この人がもうすぐ死ぬことを知っているので、ずっと寝たきりで
あることも知っているので、いくらなんでもこれは食べ過ぎじゃないかと思
う。人の日記を読んで心配する。

>この頃食ひ過ぎて食後にいつも吐きかへす
> 二時過牛乳一合ココア交て
>    煎餅菓子パンなど十個ばかり
>  昼飯後梨二つ
>  夕飯後梨一つ
> 服薬はクレオソート昼飯晩飯後各三粒(二号カプセル)
> 水薬 健胃剤
> 今日夕方大食のためにや例の左脇腹痛くてたまらず 暫くして
>屁出て筋ゆるむ

 ほら、みろ、とぼくらは思う。けれど、この人は少しも改めない。反省がな
い。「十個ばかり」とは何事か。「夕方大食のためにや例の左脇腹痛くてたま
らず」。大食のためだろうか、だって? もちろん、「ため」に決まってる。
ここまでくると、この人がもうすぐ死ぬことを知っているのに、「ざまあみ
ろ」とさえ思ってしまう。

>母は黙つて枕元に坐つて居られる 余はにわかに精神が変になつて
>来た 「さあたまらんたまらん」「どーしやうどーしやう」と苦し
>がつて少し煩悶を始める いよいよ例の如くなるか知らんと思ふと
>益乱れ心地になりかけたから「たまらんたまらんどうしやうどうし
>やう」と連呼すると母は「しかたがない」と静かな言葉、

 それはそうだ。しかたがないのだ。自分がもうすぐ死ぬことを知っているこ
の人は、この母を使いに出し、そして枕元の小刀と千枚通しに手を伸ばしてみ
る。ぼくらは、この人がもうすぐ死ぬことを知っているけれど、またこのこと
では死なないことも知っているので(なんとなれば、その後に、彼はこのこと
を日記に書いたのだから)、この人の日記を淡々と読み進める。死は来ない、
けれど遠くはない。

 風邪引いて寝てたので、また読み返した。


↑目次   ←前の号   次の号→  

ホームへもどる







inserted by FC2 system