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           読 書 猿   Reading Monkey
            第123号 (パソコンを独習号)
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■読書猿は、全国の「本好き」と「本嫌い」におくるメールマガジンです。


■■花村太郎 企画執筆『知的トレーニングの技術(決定版)』(JICC出版)==■

 本屋へ行くと、似たような本がたくさんある。というか、実は書店にはタイ
トルがちがうだけで十数種類くらいしかないんじゃないかと思うくらい、似た
ような本ばかりある。たとえば「勉強したら、もう少しましに生きられる」と
か「勉強し続けなきゃ、人間不良債券になる」みたいな本とか。
 ハードディスクをとばして消えた書き物の中に、「勉強の仕方」について書
いたのがあった。もちろんウソばかりで固めたもので「独学を座学に終わらせ
ないためにはスケッチを学べ」とか「1年に1日はホメロスを読む日を」と
か、覚えている小見出しを書き出してみると、どれも自分ではやったことのな
いことばかりである。こういうウソねたを書かせると、ほんと右に出るものが
いないくらいレフト・ウイングだ。
 さて、タイトルを上げた本は、けっこう参考にしてたもの。なにしろ別冊宝
島17(1980年初版)である。パソコンは漢字が使えず、カナタイプのすすめな
んてコラムもあったりして、そこはそれだが、それとは別に今となっては書き
換えたいところ/書き加えたいことも随分あるが、(月並みな言い方だと)今
読み返しても発見がある。
 googleしてみると、「 多分、この現代において、 この本のノウハウを実践
してしまうと、 「賢人」か「革命家」のどちらかにしかなれないので、 絶版
になってしまったのだろう。 」というコメントを見つけた。(笑)。これ以上
のコメントを書きようがないので、この項はもうこれで終わりたいが、ちくま
新書の『思考のための文章読本』を書いている長沼行太郎氏が、この謎の独学
指南者「花村太郎」の正体だという話も聞いた。長沼行太郎っていえば、教育
出版から出てる「国語表現」の高校教科書の著者じゃないか(ちなみにふつう
の「総合国語」「国語1」「古典1」なんかは、加藤周一が監修あるいは代表
著者なのである)。


■■山本勝博『化学クラブ活動入門』(裳華房)==============■amazon.co.jp

 コンセプトが楽しい。
 「最近低迷しているといわれる化学クラブ」を活発にするあの手この手が満
載、というのである。ちょっとばかり「おもしろ化学実験」が流行ったことが
あったが、その一方で化学クラブは低迷したのである。
 小林まことはかつて、「どこの学校にも柔道部はある。そいつらが一冊ずつ
買えば、すごい数になる」とマーケティング(当て推量)して(笑)『柔道部
物語』を描いたが、全国にどれだけ化学クラブがあるのかよくわからないが、
現化学部や元化学部の人だけでなく、ここはひとつ、すべての好事家に強くお
勧めしたい。
 なにしろ「研究費の捻出」に始まり、困った時に便利な道具として、注射器
と企業・大学・研究所が並列される。そして「文化祭は化学クラブの活動のア
ピールの場 −押すな押すなの大盛況」と、文化祭でいかにうけるかが最終章。
化学部のくらいイメージを払拭するには文化祭しかない!とばかり、直径2mの
火の玉を口から吐き、小麦粉を用いた火吹き(いわゆる粉じん爆発である)な
んか披露するのである。ここまでやらなきゃいけないのか、化学部!? もっ
と他にやることがあるだろ化学部!? 
 心無い校則なんかで「火吹きのため、停学3日」とかにならないことを願う
ばかりである。


■■岡野玲子、原作:夢枕獏『陰陽師』(白泉社)=============■amazon.co.jp

 私見だが、鬱な気分には化け物の話が効くと思う。


■■アドラー『本を読む本』(講談社学術文庫)==============■amazon.co.jp
■■苅谷 剛彦『知的複眼思考法』(講談社+α文庫)============■amazon.co.jp
■■杉本 良夫, ロス・マオア『日本人論の方程式』(ちくま学芸文庫)====■amazon.co.jp

 読書論みたいな本は、かなりの部分を「本を読むべし」という、あまりケチ
がつけられない主張に当てて、ほかの部分を「こういう本を読め」という紹介
みたいなことに費やしてる。肝心の「読み方」については、ほとんど言うべき
ことがないようなものが多い。
 ほんとは「何を読むかよりも、どう読むかの方が大切」なのだそうだ。そこ
へいくと「読書リスト」や「書評」なんてのは二の次のものだろう。「読書リ
スト」というのは、その読者に「うわあ、このリストの本、ほとんど読んでな
いや」と言ってもらうことを目標のひとつにしているので、あるいは、いくら
かは気の効いたところ(場合によっては「アタマノヨイトコロ」)を見せない
と(プチ卓越化)、文筆家として商売あがったり、というところもあるので、
「おどかし」「こけおどし」といった要素が皆無ではない。やたらと(誰もが
知ってるが誰も読んでない、という意味で、いわゆる)「古典」ばかりが並ん
だり、「読まなきゃいけない」「読んでないのはなにごとか」といった脅迫め
いた言葉が含まれていたり、なんだかもうである。
 それはそうとお題が出た。よりにもよって「大学新一年生にすすめる本」で
ある。正確には付属校から内部進学で入ってくる若者達に、4月までに読んで
きなさいという「課題書」である。そんなこと、大学の先生が自分で考えれば
よさそうなものだが(実際に考えているらしいのだが)、そうなると「新一年
生が読める本」ではなく「新一年生に読ませたい本」になってしまって具合が
悪いらしいのである(要するに両者のギャップが相当あるのである)。「新一
年生」なんて毎年見ているだろうに、いつまでもそのギャップが埋まらないの
はいかがなものかと思うが(きっとこのギャップはいつまでも埋まらないのだ
と思わずにはいられないが)、それはそれとして。
 で、3冊あげたのが『本を読む本』『知的複眼思考法』『日本人論の方程
式』。
 『本を読む本』は前に読書猿でも取り上げた。1940年に出た本だが、ち
かごろ大学生が本を読めなくなってウンヌンという下りがある。さらに、この
本の最後に出てくる(この本の目標でもある)シントピカル読書=一つのト
ピックについて複数の書物から引っぱりだして比較対照する読書ができること
が、学士号(大学卒業の資格)を条件じゃないだろうか、という下りもある。
タイトル、目次、索引を活用すること、ざっと読んでどんな事が書いてあるか
当たりをつけること、その上で自分がその本に当たって解きたい疑問を作るこ
と、その疑問を解決するために読むこと等、シントピカル読書の前提である各
段階の読書についても丁寧に書いてある。「何を読むかよりも、どう読むかの
方が大切」という意味で、アンチ・ブックリストとして。
 『知的複眼思考法』は、もはや新定番。通説、常識にだまされないという、
ごく「当たり前」の思考法について、丁寧に(いまどきの大学生にもわかるよ
うに)説いている。アマゾンの読者書評に、有用だが、この思考法を「社会に
出て」からやると「へりくつ」といわれた、という微笑ましいのがあった。こ
ういう大卒生には、レイヴ、ウェンガー『状況に埋め込まれた学習』(産業図
書)を読んでおけばよかったのにね。「学習に関して重要なことは,教授行為
(instruction)の問題ではなく、学習の資源としての実践へのアクセスの問題で
ある。」とか「学習とは、知能や技能を個人が習得することではなく[←学習
の古典的定義]、実践共同体への参加を通して得られる役割の変化=過程のこ
とである」とかね。
 『日本人論の方程式』は、そのごく「当たり前」の思考法を使って(ほんと
常識的な手法しか使ってない)、日本についてのよくある/有名な通説、常識
を、それはそれは丁寧にコテンパンにした実例。「やってみせる」というの
は、大抵の場合にわかりやすい。「何をすべきか」しかいわない本が多い中
で、実際に「何ができるか」見せるというのは、それだけでも薦める理由にな
る。


■■ヘイリー『アンコモンセラピー』(二瓶社)============■amazon.co.jp

 すべての心理療法が催眠術を祖とすることは言を待たない。フロイトもパブ
ロフも、催眠術に夢中になった。そして近代心理療法は、そのルーツを押し隠
すことで成立した。催眠術は忌わしき出生の秘密として、卑しき奇かしの術と
して封印された。
 ミルトン・H・エリクソンは、催眠術を手法的に洗練させたのみならず(な
にしろ振り子も水晶玉もいらなない、トマトの話をしたり握手をしそこねたり
するだけで、あるいは診察室を強迫的に歩き回る相手に「もっと歩け」と促し
たり、全身不随のドイツ人をわざと「ナチ野郎」と罵ったりすることで、相手
をトランス状態に入れてしまうのだ)、その位置付け、意味付けすら変革させ
てしまった。そして誰よりも大胆に介入し、誰よりも素早く、問題の中でぐる
ぐると悪循環を続けるクライアントを救い出した。そしてエリクソン以後、彼
から何ごとかを学ぼうとした新進の心理療法家たちによって、それまでの受容
と分析を主とする原因志向の冗長な心理療法は、迅速で解決志向のそれに現代
化を遂げてしまった。
 エリクソンの術は、まるで合気道のそれのようだ。相手の行動や信念、時に
は治療抵抗や症状にすらエリクソンはぴったりと寄り添い、その力を利用して
技をかける(自分はキリストだと言い張り治療を拒否する患者には、「君には
大工の経験があったと思うが」と持ちかけ、木工の作業療法をさせる)。エリ
クソンはまた、己の卓越した術に拘泥しない。知り合いの美容師や仕立て屋の
応援を頼み、またクライアント自身を公立図書館で何日も読書させたりもす
る。そうして彼等を問題から救い出す。
 エリクソンの闊達な治療法は、当時の療法のみならず、現在のそれとくらべ
ても驚くほど短期間だ。彼はクライアントの過去や問題を詮索しない。クライ
アントに洞察も転移も要求しない。クライアントを分類せず、「個性ある一人
の人間」としてコミュニケーションする。悩めるクライアントに彼が期待する
のは、変化すること、ただそれだけだ。そのための方法もリソースもクライア
ントが自身が持っており、エリクソンはそれを喚起さえすればいいと知ってい
た。
 さて、エリクソンのわざは、個人的な天才のもので余人には真似できないと
思われていた。
 ベイトソンのもとで、「コミュニケーションについてなら、なにを研究して
もいい」と言われていたヘンリーとウィークランドは、ある日、町にやってき
たエリクソンのワークショップに出たいとベイトソンに申し出る。ベイトソン
は、以前バリ島の祭儀におけるトランス現象の映画を見てもらいにエリクソン
を訪ねたことがあった。二人は知り合いだったのだ。こうして、ヘンリーと
ウィークランドそしてベイトソンの3人は、なんどもエリクソンを訪ね、その
心理療法について学びはじめる。この3人に、家族のホメオスタシスに注目し
ていた精神科医のジャクソンが加わり、精神分裂病に関するコミュニケ−ショ
ン研究が始められる。この4人を核に(ベイトソンが抜け)Mental Research
Institute(MRI)が設立され、ヘイリ−とウイ−クランドによるエリクソン
の方法論研究を基軸として、やがてMRIのブリーフセラピーが成立する。彼
等は治療的ダブル・バインドなどの、問題−擬解決の悪循環を変えるパターン
介入を中心に、催眠抜きでエリクソンの療法を定式化することに成功した。他
にももっと忠実にエリクソンを継ごうとした新エリクソニアンたちもいるし、
(エリクソン自身の覚えはめでたくなかったが)催眠とリフレーミングを取り
入れたNLP(神経言語プログラミング)もエリクソンの後裔である。
 1973年に出たこの本(の原書)は、エリクソンのところへ出向いたひとりヘ
ンリーが、その時に聞いた話(録音テープ)を元に、自分なりにエリクソンの
心理療法をまとめたもの。エピソ−ド、エリクソンの語りが満載で、なぞの天
才の技と存在をひろく世間に知らしめた。たとえばオハンロンはタイムの記事
でこの「アリゾナのスベンガリ*1」の紹介記事を見て、そのあと本屋でこの本
を探し読んでみてぞっこんとなり、お金がないのでエリクソンの庭を草むしり
して(エリクソンに会いたいと手紙を贈ったオハンロンのところにかかってき
た電話は、「そちらはオハンロン造園店ですか?」というものだった)、彼の
話を聞いたり診察に立ち会ってその技を学んだ。
 エリクソンは言葉で人を弟子を誉めることはなかったが、この本を何冊も買
い求め、自分の知人に贈っていた。

*1スベンガリ: モーリエの小説Tribly(1894)に出てくる魔術師的催眠術師。
         なんらかの意図をもって催眠的支配力を行使する人物をこう言う。


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