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           読 書 猿   Reading Monkey
            第121号 (only birthday号)
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■読書猿は、全国の「本好き」と「本嫌い」におくるメールマガジンです。


■■『人文書のすすめ―人文科学の動向と基本図書』(人文会25周年記念委員会)==■ amazon.co.jp

 本とは人文書のことである、らしい。人々が「本を読まなくなった」とは人文
書をよまなくなったことであり、「本が売れなくなった」とは人文書が売れなく
なったことである、らしい。というか、だったらしい。人文書は「人間形成のた
めの基本図書」だとか、「この本は学術書とはいえても、人文書とはいえない」
だとか、人文書はずいぶんと偉そうである。
 しかし一方で、人文は、はっきり言えば「役立たず」ということだった。「役
立たず」だから、ある種の人たちには「実用以上の価値」があり、また別の人た
ちには「あんなの、あってもしょうがない」ものだった。ある種の人たちは、役
に立たないものにも時間やお金を費やすことができる(余裕がある)ということ
で自分たちを際立たせるのに使えたし、そうでないひとたちは「あのブドウは
すっぱい」というのが折り合いのつくところだった。
 人文や教養という「直接役に立たないものの実用性」を説く戦略は、だから諸
刃の剣だ。事は「人間性」にかかわることだから、「直接役に立たないものの実
用性」には、「誰にとっても」と付け加えなければならない。さっきのべた「実
用以上の価値」は、しかし誰彼を区別することに使えるからこその価値である。
人生が豊かになるのは、教養が内面の栄養になるからではなく(それはむしろ後
知恵に属する)、ある種の囲い込みに役立つからである。
 で、こういうことも言ってるブルデューの翻訳をたくさん出版してる某書店の
求人広告を見たら、「人文書出版の優良企業」と書いてあった。

 そもそも(などと考え出すとろくなことがないが)、人文とはなんだろう。古
そうなのでは、 《易経》賁の卦に「天文を観て以て時の変を察し、 人文を観て
以て天下を化成す(=よい方にあらためる)」とある。かっこいい。しかし人文
書の反対(あるいは対になるの)が、天文書であるとは思えない(だったらいい
な、と少し思うが)。ここでいう人文は、人文書の言うそれとは違うだろう。
 ぐっと新しいとこんなのがある。
「今でさえそれほどでなければ、人文の発達した未来即ち例の一大哲学者が出て
非結婚論を主張する時分には誰もよみ手はなくなるぜ。いや君のだから読まない
のじゃない。人々個々おのおの特別の個性をもってるから、人の作った詩文など
は一向面白くないのさ。現に今でも英国などではこの傾向がちゃんとあらわれて
いる。現今英国の小説家中でもっとも個性のいちじるしい作品にあらわれた、メ
レジスを見給え、ジェームスを見給え。読み手は極めて少ないじゃないか。少な
い訳さ。あんな作品はあんな個性のある人でなければ読んで面白くないんだから
仕方がない。この傾向がだんだん発達して婚姻が不道徳になる時分には芸術も完
く滅亡さ。そうだろう君のかいたものは僕にわからなくなる、僕のかいたものは
君にわからなくなった日にゃ、君と僕の間には芸術も糞もないじゃないか」
 いうまでもないが『我が輩は猫である』である。人文は発達するのである。し
かも人文が発達すると、読み手はいなくなるのである。芸術も絶滅である。……
これも人文書の「人文」ではないだろう。どちらかというと、「文明」に近い。

 人文書の「人文」は、多分humanitiesの訳語である。劉宗周だった
か「日月は天の文なり。 山川は地の文なり。 言語は人の文なり」ということを
言っている。 人間であることがどういうことかといえば、キケロ、あるいはそれ
以上に遡れる定義によるなら、人間であることとは「言葉使い」であることであ
る(蛇足だが「魔法使い」といった言い回しを思い出すと理解しやすい)。そし
て、これこそhumanityの起源であり、人文がhumanityの訳語と
して結びつく理由である。ちなみ劉宗周(劉子)は、中国の明末期の儒学者で朱
熹(朱子)の弟子。師の元で修身作法の書「小学」を編んだが、日本では、昌平
黌をはじめ、各藩校においてもこの「小学」が用いられ、明治に入ると初等教育
の学校が「小学校」と呼ばれたのもこれによっている( 「小学」においては具体
的な事柄を教え、「大学」ではそれをもとにして抽象的な道理を教えるというの
が、という朱熹の教育理念であった)。劉子は、のちに朱子学の固陋、陽明学の
横流を共に退け、独自の立場を打ち立てた思想家で、明が滅ぶ時には餓死を選ん
で運命を共にした人である。(つづく)


■■藤沢令夫『ギリシア哲学と現代』 (岩波新書) =============■amazon.co.jp

 古代ギリシア文学の専門家が、ふつうの人以上の資格をもって、現代社会の問
題について語るとしたら、それは「人間(の本質)は何千年経ようがどこの文化
/文明にあろうが対して変わらない」という前提があったればこそ、である。言
い掛かりだが、人文科学は、こうした前提の上に寄って立つ学問である。その意
味では遺伝子決定論も、脳科学も、人文科学として読もうと思えば読める。とい
うか本質主義(エッセンシャリズム)の手口は、(無意識であれ)都合よくねつ
造しておいた物事を「これは自然のことなんだ」と(無自覚であれ)言い含める
というものである。だから「自然」科学を参照することは、常套手段なのだ。
 社会科学が、こうした人文科学と区別されるとしたら、「人間が分かっても社
会は分からない」「社会がわからないと人間だってわからない」という傲岸さに
おいてである。それは「人間の本質」なんて認めない点で反=本質主義(エッセ
ンシャリズム)である。もちろん、よく言われるように「社会」について本質主
義(エッセンシャリズム)であるという疑いは拭いがたい。それでも「人間通」
なんぞよりは、はるかにましである。(次号に続く)


■■『シャ−ロック・ホ−ムズ対オカルト怪人』(河出文庫)=============■ amazon.co.jp

 言いたいことはいくつかあるが、むしろ「事実に語らせる」やり方の方がよい
かも知れない。
 まず、表紙をめくったところには、この本の成立にかかわった3人の人物が紹
介されている。前文を引用しよう。

「ジョン・H・ワトスン
 1852〜1940年。イングランド生まれ。医学者。王立医学会会員。ホームズの友
人。その冒険譚を発表。

ランダル・コリンズ
 1941年生まれ。社会学の博士と思われるが正体不明の人物。社会学関連の著作
がある。

日暮雅通
 1954年生まれ。青山学院大学卒。翻訳家。『ゴーストと旅すれば』『ホームズ
贋作展望会』他訳書多数。」

 いうまでもなく、最初が「著者」、次が「編者」、最後が「訳者」である。
 ワトスン博士については言うまでもなかろう。日暮氏については、後述する。
もんだいは「正体不明の人物」であるコリンズ氏である。訳者日暮氏の解説を読
もう。
「ところで、人を食ったようなまえがきを書いた編者、いや著者であるランダ
ル・コリンズについては、残念ながらほとんどデータがない。1941年生まれ
ということと、博士号をもっていることは確かなのだが、なんの博士なのか定か
でない。"The Discover of Society"(1972年)と"ConflictSociety"(1975年)と
いう著作があるところを見ると、社会学の研究者のようではあるが。」
この訳書に触れられたコリンズ氏についての情報は以上で終わりである。ちなみ
にこの訳書の初版は1995年であり、原書の方は1978年"The Case of
philosophers' ring"というタイトルで出版されている。

 さて、これを読むような人はインターネットを使える環境にあると思われるか
ら、以下は蛇足であるが(amazonなりgoogleなりで、"Randall Collins"と入力し
てボタンをクリックすれば容易に知れる程度の情報であるから)、少し補足しよ
う。
 まずは友枝敏雄他訳『ランドル・コリンズが語る社会学の歴史』(有斐閣,
1997)
の訳者あとがきから。「原著者コリンズは、1941年生まれのアメリカの社
会学社で、ハ−ヴァ−ド大学、スタンフォード大学、カルフォルニア大学バーク
レー校で学び、現在カルフォルニア大学リヴァーサイド校教授である。多くの著
作があるが、我が国では『社会の発見』(R.マコウスキーと共著、大野雅俊訳、
東信堂、1987)
、『資格社会---教育と階層の歴史社会学』(新堀通也監訳、東信
堂、1984)の邦訳によって知られるようになり、井上俊・磯辺卓三氏の名訳『脱
常識の社会学---社会の読み方入門』(岩波書店、1992)
でいっそう知られるよう
になった社会学社である。」
 次に名訳『脱常識の社会学---社会の読み方入門』の訳者あとがきから。「(著
作リスト:紹介の後に)……このリストからもわかるように、コリンズはかなり
多産な人といえるが、同時になかなか多才な人でもあるらしく、『賢者の指輪事
件』という推理小説なども出しているそうである。」

 なんだか「なぞ」は解けてしまった気がする。でも、翻訳家ならインターネッ
トを知らなくても『翻訳図書目録』(日外アソシエーツ,45/76から92/96まであ
る)くらい調べないのかね。『国立国会図書館蔵書目録』にも原著者名の原綴で
引けたはずだが。もちろん単なる「しらばっくれ」ということも考えられる。
 ついでにいうと、"Conflict Society"(1975年)も間違い。"Conflict
Sociology"が正解。先日、たまたまAbebooksからこの本が届いたばっかりだった
のだ。
 で、気の抜けるタイトルがついた当該の書だが、中身はできのよくないホーム
ズもののパスティーシュ。ホームズ、ワトソン以外、ほとんどすべて実在の人物
が登場(ラッセルとかヴィトゲンシュタインとかムーアとかケインズとかね)。
だから、どうだっていうのか。

 ジョージ・リッツア(『マクドナルド化の社会』などの邦訳もある)の1冊本
になった社会学史"SociologicalTheory 5th ed."の中には、リッツァ自身を入れ
て31人の「著明な社会学者」についての伝記的紹介の囲み記事がある。コリン
ズはその31人のなかにウェーバーやデュルケムやマルクスやゴフマンやコール
マンやブルデューやギデンズなどとともに入っていて、しかもホマンズなんかと
同様に「伝記的紹介biographical skethes」ではなく「自伝的紹介
autobiographical skethes」をやってる。あと、ウェーバーの『プロテスタン
ティズムと資本主義の精神』の米語訳は、タルコット・パーソンズの訳だが、現
在出回ってる版はこのコリンズが序文を書いている。という程度には知られた人
なのである。
 個人的には、コリンズの翻訳は、はじめて「社会学なのにおもしろい」と思っ
た本である。『脱常識の社会学』は最初に読む社会学書に最適で、『社会学の歴
』はネタ満載であることに加えて、とてもデュルケムに偏向しているところが
素敵。『数学の社会学』のブルア(これも、じみな邦訳タイトルに反してめちゃ
くちゃおもしろい本だ)とともに、私の中ではデュルケム3バカを構成してい
る。

 


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