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           読 書 猿   Reading Monkey
            第110号 (ぶっくりすと号)
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■読書猿は、全国の「本好き」と「本嫌い」におくるメールマガジンです。
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  『読書龍』『読書蛇』『読書鳥』『読書犬』『読書猪』などがあります。
 ■読書猿は、本についての投稿をお待ちしていました。


■■筒井康隆『地獄の沙汰も金次第』(新潮文庫)==============■

 筒井康隆はこのエッセイ集の中で、お話の中では金持ちが意地悪で、貧乏人が
いい人、と相場がきまっているが、現実は逆なんじゃないかとして、社長令嬢が
労働者にボコボコにされるひどい話を(たしかマンガの原作用)対案として提案
している。
 エッセイのつまらなさはさておき、筒井のこの指摘は、社会科学的にはまった
く正しい。社会によって「いい人」の規準は様々だが、どの社会でも「いい人」
をやるためには「資本」が必要だからである。そして「資本」というからには、
そいつは必ず希少であるからである。つまりある人は手にできるが、ある人は手
にできない、ということが生じるのである。
 もちろん「資本」は、お金とはかぎらない(お金であることや、お金がないと
維持できなかったり手に入らないことが少なくないが)。
 「資本」が手に入らない人たちが、どのような「やりくり」をするか、またそ
の「やりくり」が「いい人」の規準からはどう評価される類のものかについて
は、たとえばマートン(ロバート・K・マートン)の「何か言ってる」から参考
になる。(この人自身、努力してもしなくても、「すればするで非難され、
しなければしないで非難される」どん底貧乏人からアメリカ社会学会会長にまで
のぼりつめた人だったりする)。
 それはさておき、上のように考えると、なぜ資本持ち=「いい人」本人は自覚
してない《悪意》を、「いい人」から貧乏人が受け取ってしまうのかが理解しや
すい。ルサンチマン(ひがみ根性)? それはそのとおりだが、それでは単に
「名前」をつけただけで、プロセスを解明していない。
 『金持ち父さん』を読めばわかるように、資本持ちは「努力さえすれば、その
資本は誰にでも手に入る」と主張する。つまり手に入らないのは、努力してない
からに他ならない。しかし一方で、社会の全員が手に入れることができる、とす
るならば、完全に間違いである。それは資本主義がどうこういう話ではなくて、
「誰もが手に入れるならば、それはちっとも希少でない=したがって誰も欲しが
らない」からである。お金だけでなく、趣味の良さや教養といった文化資本でも
同じ事である。
 「難しい本を読める」という文化資本を持った人は、本を読まない人、読む時
間・理由・動機・習慣等々がない人、本を読めない人がいることを、しばしば視
野の外に置く。しかし「古典を読むのは当たり前」というのは、誰でもわかるよ
うに、ちっとも当たり前ではない(昔の人はもっと本を読んだというのも大ウソ
である。出版部数や進学率の変遷を見れば、読書家なんてのは人口のごくごく一
部でしかなかったことはすぐばれる。連中は自分たち内輪の経験を過度に普遍化
しているにすぎない)。希少なものを「当たり前」にすり替える主張は、自分た
ちだけが《人間》だと言っているに等しい(一種の詐術だ=社会の中に人々を上
下に切り分ける「望ましさ」を繰り返し生み出す、その仕組みの一端でもあ
る)。それだったら経済同友会みたいに「これから日本は市民社会だ。そして市
民とは年収700万円以上の人のことだ」とはっきり言った方がまだいい(アタ
マわるいけど)。

 これで「これを読まない奴はサル」とかいう帯がついた本への返事になってま
すか?


■■ファラロ『数理社会学』(紀伊国屋書店)==============■

 次にのべるようなフォークロア(民間伝承)がある。
 ある人にいわせると、「数理○○学」(たぶん数理社会学や数理考古学や数理
地理学や数理世間学みたいなもののことをいうのだろう)というのは、人文・社
会系の人たちの「理系に対するコンプレックス」に由来するのだという。
 念のために言っておくと、ここでいう「コンプレックス」は、「劣等感」を意
味する世間的用法だろうと予想されるから、心理用語としての誤用を責め立てて
も始まらない。もう少し踏み込んで言えば、この用法は「ある種の人文・社会系
の人たちは、理系の学問やその方法論に対して、ひそかに『我々は劣っている』
と感じており、だからこそ理系的な学問や方法論にすり寄ろうとして、数理○○
学なるものをやるのである」とでも言っているかのようである。もちろん、すぐ
わかるように、「劣っている」という自覚や無自覚な劣等感は、「すり寄るこ
と」に直結するとは限らない。ブドウにとどかないイソップのキツネよろしく、
「なんだい、あんなもの!(ブドウはすっぱい:数学なんかで社会が、心理が、
古代のロマンが、わかってたまるか)」という方向に出現することだってあり得
よう。このイソップのキツネ的感情は、当の理系サイドの学問に対してはもちろ
ん、むしろ理系ずれした「数理○○学」という裏切り者に向けられることだっ
て、十分にあり得る。また自身とほとんど同族のちょっと違ったものに対する嫌
悪感は、フロイトらも取り上げたトピックである。
 めんどくさい話はさておいても、「数理○○学」が「理系に対するコンプレッ
クス」に由来するのだとすれば、「数理○○学」を「理系に対するコンプレック
ス」よばわりする者もまた、「理系に対するコンプレックス」に深くおかされて
いると予想される。関西人がいうところの「アホいうもんが(も?)アホや」で
ある。
 ところで、実はこの発言は、よくある「数学のできない人文・社会系の人が、
数学に走った人文・社会系の人へおこなった批判」ではなく、(いまどきめずら
しい)科学的思考法を身につけたと自認する理系な人によってなされたものであ
る。自称「科学的」な人が、どうしたって「科学的」ではないとされる精神分析
的な説明を(知らず知らずのうちに?)、「科学的」ぶりっこ学問の出自を説明
するロジックとして採用したあたりが、なんだか精神分析的なエピソードに思え
たのである。


■■バートン・マルキール『ウォール街のランダム・ウォーク』(日本経済新聞社)=■amazon.co.jp

 儲け方の本には、循環構造的な欠陥がついてまわる。
 これはうろ覚えというよりも、あまりにもたくさんの人が同じ事を言っている
ので混同してしまっているのであるが、混同したまま書いてしまうと、サミュエ
ルソンがマートンにこう言ったという。「お若いの、それで儲かるなら論文など
書かず、どうして自分でやらないのかね」。
 ここでサミュエルソンは、1970年にノーベル経済学賞をとり、有名な経済
学の教科書の著者で、バシュリエの数理モデルやコールズの実証研究を受けて、
確実に儲かる株式投資の機会が存在しないという論文も書いている。一方マート
ン(ロバート・C・マートン)は、オプションの価格公式であるブラック=
ショールズの公式を証明し、のちにショールズとともに、「デリバティブ(金融
派生商品)の価格決定理論の新しい手法」で1997年のノーベル経済学賞を受賞
し、ショールズとともに自らの理念である「理論と実践の往復」を達成するため
に金融工学を駆使するヘッジファンドLTCM(LongTerm Capital Management)の設
立に加わった人。ドリームチームといわれたLTCMは、創設からわずか4年足らずで
巨額の損失をだして市場から姿を消したのはご存じの通り。加えて言うなら、
マートンは、MITでのサミュエルソンの弟子で、さっき出てきた成り上がり社
会学者のマートンの息子である(名前が似ているも道理)。
 ここまで書いてみると、やはり半ば意図的に記憶を混同している気がしてき
た。
 本題にかえって。儲け方の本には、循環構造的な欠陥がついてまわる。たとえ
本当に儲かる方法であっても、みんなに知れ渡ったら、もう儲からなくなる。自
己破壊的だ。要するに、その儲け方というのは、その儲け方という情報を知らな
い者から(間接的にであれ)儲けをかすめ取るやり方なのだ(ここには論理的な
飛躍があるが、黙っていれば気付かれないのは保証済み)。経済学者が「確実に
儲かる株式投資の機会が存在しない」といったり、「過去のデータ集めても、市
場の未来は予想できない」というのは、そういう情報はとっくに市場に織り込み
済みであると考えるからである。市場より知っていないと(情報をもっていない
と)、市場は出し抜けない(インサイダー取引で儲かるように、そういう情報を
持つことは不可能ではない)。市場の動きがランダム・ウォークであるというの
は、神さまがサイコロを降っているのではなく、市場とあなたは情報において、
せいぜいがフィフティ・フィフティ(大抵は市場の方がよく知ってる)、あんた
なんかに「市場の先」が読めるわけがないという話だ。過去のデータあつめて
も、いくらチャートや罫線をあれこれ細工しても、当たるも八卦、当たらぬも八
卦。
 マルキールは経済学者なので、タイトルどおり、そういうスタンス。これがテ
クニカル分析やってる人にはアタマに来る。いろいろ反論(というか揚げ足と
り)は多いが、こういうのを見つけた。「(マルキールは)テクニカル分析で儲
かるなら、コメントなど流さないで自己資本でやればいいではないかという。ジ
ム・ロジャーズならこういう。「給料日しか金と接点のない大学の教員に言われ
たくない」と。」
 しかし、ここは「大学の教員に何言われたって屁でもない」と言うところでは
ないか。

 今回の読書猿はいつにもまして「うろ覚え」を軸に構成されていることが読み
返してみて分かる。


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