ベルクソン × バシュラール

流れと切断


 ベルクソンは時間のことを「持続」と呼ぶ。この用語法そのものは別段新しくないし、むしろ古典的なものだ。我々が<時間と空間>として対比的に捉えるようになったのは、物理的な時間概念が哲学の中に導入されて以来、具体的にはカント以後のことで、それ以前は<時間と空間>ではなく、敢えて言うなら、<持続と広がり>という用語の方がむしろ一般的だったと言える。
 だが、ベルクソン以後の立場、特にバシュラールからすれば、ベルクソンが時間を「持続」として捉えたことは決定的であり、同時に決定的に間違っている。なぜなら、バシュラールにとって時間の本質は、持続、即ち流れではなく、その切断としての「瞬間」にあるからである。
 ベルクソンは時間から極力空間的要素を排除して、純粋な時間を直観しようとした。だが、そうしてベルクソンが見出した「持続=流れ」とは、まだ空間化される要素を含んでいるのではないか。むしろ時間とは、そうした水平に流れるものではなく、垂直に突出する「瞬間=切断」なのだ、とバシュラールは考える。つまりバシュラールは、ベルクソン以上に空間的要素を排除して時間を純粋化し、極限的な時間としての「瞬間」を見出すのである。
 ここからバシュラールは、ベルクソン的な直観に対しても批判を展開する。
ベルクソンの直観とは、実在の中に入り込み、その運動=変化に同調すること、いわば時間の流れに乗ることだった。だがバシュラールにとってそうした直観とは、いわば観想なのであって、受動的なものにとどまっている。むしろ重要なのは、瞬間における決断なのであり、そこから生まれる行為なのである。
 こうした連続性の切断、非連続の強調は、進化・進歩の非連続性の主張にも繋げられる。ベルクソンは進化を創造的なものとして捉えはしたが、それは内的必然性(潜在性)に支えられたものだった。バシュラールはむしろ、そこに偶然の介入による連続性の否定を見るのである。
 ベルクソンにとって重要なのは実在=時間の中に「入り込む」ことだった。
彼の持続とはつまり、相互浸透なのである。だが、バシュラールは、いわば時間を原子論的に考える。時間には、決して相互浸透しない原子のような「瞬間」がある。この立場から振り返れば、確かにベルクソンの哲学は一元的なものであった。なるほど空間の一様性に対する時間の多様な強度を打ち出したベルクソンではあったが、それはやがて生命の進化という壮大でもあれば全体主義的なヴィジョンに転化することになった。バシュラールはそうした全体性をこなごなに粉砕し、多元的な時間を導入しようとするのである。ベルクソンがスピノザの「永遠性」を時間化したのだとすれば、バシュラールはライプニッツのモナドを時間化したのである。これは単なるゴロ合わせではない。ベルクソンはスピノザと同じく内在の立場に立つのに対して、バシュラールは瞬間における垂直の運動によって、超越の契機を導入しようとしたのだと言える。
 ベルクソンはフランス哲学の中で、ほとんどデカルト以来と言ってよい超メジャーとなり、ノーベル賞までとってしまったが、それが彼の不幸であったと言える。ベルクソンは確かに広範な影響力を持ったが、彼の後継者はほとんど現れなかったのである(ベルクソン復興が行なわれたのは今世紀の後半になってからであり、その代表がロビネやドゥルーズである)。むしろ、ベルクソン以後のフランス哲学者は、ベルクソンを標的とすることによって自らの歩みを始めることになる。その代表にして初期のものがバシュラールである。
 ベルクソンの批判者の多くは、ベルクソン的連続に対して、切断=非連続の契機を導入しようとする立場であった。バシュラールの批判もその点にあり、その典型であると言える。だがバシュラールも、やはり時間を空間とは区別されたものとして見ようとしているのであり、その点ではベルクソンの提起した問題の圏内にいるのである。ベルクソンこそ本質的な意味で「時間」を哲学的な問題(ベルクソンにとっては唯一の哲学的問題)として取り上げたほぼ最初の哲学者なのであり、我々は時間の問題を扱う限りベルクソニアンなのである。
 しかしまた、バシュラールの「瞬間」論は、彼の詩学との関わりで述べられたものであり(「ポエジーとは瞬間化された形而上学である」)、そこに彼の独自性があったのだが、それは同時に、ベルクソンの形而上学に対する体系的・全体的批判への展開を阻害することになった。もはやベルクソンについて多くを語らないにも関わらず、ベルクソン的な全体性の破壊を体系的に遂行しようとしたのが後のレヴィナスである。


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