アイスキュロス × プラトン

舞台と法廷


 ギリシャ悲劇の上演は古代ギリシャの国家事業であるばかりでなく、当時の都市国家(ポリス)の人口からすれば、大多数といえるほどの観客が(それもポリスの有権者、外国人を問わず)参加できた国民的行事だった。それにはコトバと演技、合唱が総動員され、スペクタクルに満ちた祝祭であるだけでなく、ポリスの愛国心をかき立てそれを支えるための強力なメディアであり、その民主制を支えるための市民の教育機関ですらあった。伝説その他の知識、思想や正義といった観念を、これほど強く広く伝える(否、体験させる)手段は、もうこの先、生まれないと思われるほどだった。
 アイスキュロスの悲劇のうち、唯一完備した形で現存する三部作『オレステイア』を締めくくる第三部『エウメニデス(慈みの女神たち)」は、この劇を完結するだけでなく、ギリシャ悲劇そのものを完成させ、また完結させたとすら思える。事実、この悲劇の終わりは、「悲劇の次にくるもの」によって結ばれている。
 夫殺しと(その復讐としての)母殺しという罪の解決は、『エウメニデス』において、法廷にもちこまれる。オレステスは、父を殺した母への復讐を、アポロンの神託に従って遂行することを思い出すならば、オレステスがその後狂気に陥って復讐の女神に追われながら方々をさまようことも奇異なら、この解決もいささか納得がいかないものがある。なぜ神意(によるそそのかし)の後始末を、法廷が行わなければならないのか。
 実のところ、アイスキュロスが示す「次にくるもの」こそ、この法廷に他ならない。事態を解決するのは、もはや預言者や神託のコトバでなく、さまざまな議論を尽くして行われる法廷論争であり、その判決のコトバなのだ。つまりこの『エウメニデス』という「悲劇の解決」は、氏族社会からポリスへの、つまり復讐から判決への、「正義」が寄って立ち、また存在する場所の変化と移行を示している。これはまた、人々がさまざまな神話や伝承とともに正義と不正を学んでいた「悲劇」という学校が、やがてまもなく、ポリスの「法廷」にとって代わられるだろうことを告げている。事実「法廷」はいわば多様な論客と事件とが演じる一種の劇場であり、そして神話や伝説を手放した劇の舞台で演じられることどもはほとんど「法廷」のそれに似通ってくる。そればかりでない、「悲劇」は正義と不正を体験させるだけだったが、「法廷」は強力な力を持った正義を実際に作り出す場所であった(あらかじめ結末が決まっている訳ではないから、よくできた劇のようには、必ずしも結論を得られた訳ではないが)。これこそ、アイスキュロスが自らの「悲劇」の結末で教えた(あるいは確認した)事実だった。
 人々は、「法廷」で繰り広げられるさまざまな言説とレトリックから「何が正義であるか」だけでなく、「どうやって正義を作り出すか」までも学ぶようになり、またやがては積極的に法廷論客や法廷弁論の教師、すなわちソフィストたちから教えを受けるようになるだろう。
 若き頃、政治家を目指したプラトンの目の前にあったのは、しかしこの「法廷」=ポリスの衰退だった。すでにかつての力を失って久しい悲劇というジャンルでいくつかの仕事をしたと伝えられるこの「哲学者」には、もはや言論で正義を製造する政治家となることも、また大勢の前に繰り広げられる悲劇を上演することも適わなかった(その時代に生きた誰にもできないことだった)。
「演じるコトバ」と「論争するコトバ」の残響のなかで、ソクラテスが、コトバのやりとりで「真理」を産み落としてみせるソクラテスが、プラトンの目にどう写ったか想像するに難くない。そのプラトンが今度は「何が真理であるか、だけでなく、真理をどうやって生み出すか・真理はいかにして生まれてくるか」の劇を書くことになる。
 そこでは神話や伝説の代わりに、運命と英雄の葛藤の代わりに、さまざまな思想家と思想の主張と挌闘とが「舞台」に踊り出る。論じ合い、吟味し合うコトバのぶつかり合いの中で、「本当のこと」が生まれていく(もっとも「終わり」を要請される法廷や悲劇と異なり、哲学の議論は決着が着くとは限らない)。
 プラトンにとって哲学や真理は、明証性の要請に応えさえすればよいものではなかった。そのような真理についての考え方は、プロテスタントの(信仰に関する)個人的明証、デカルトの理性的明証、経験論の感覚的明証を祖先とする、我々の偏見である。プラトンにとって真理は論じられなければならず、哲学は哲学的議論でなくてはならなかった。だから「対話篇」は、プラトンの表現(手段)ではなく、彼の哲学そのものなのである。


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