マッハ × レーニン

「科学論」について


 レーニンのマッハ(主義)批判は、「お前らなんか結局バークリーだ」というに始まる。バークリーは哲学史上悪名高き「物なんてない」と主張した主観的観念論者で、おまけに僧侶だ。唯物論者(ということは当然無神論者)を自認する(くせにマッハにかぶれてた)連中にはこれ以上にない悪口だ。けれどマッハ本人は別にマルクス主義者じゃない。だからレーニンはすかさず畳み掛ける。「世界は私の感覚だ、という。ならば、私の感覚から独立して物は存在しないし、私の感覚を離れて他者も存在しない。とにかく私以外にはなにもない。こいつは独我論だ」。独我論だとどうしていけないのか? バークリーはともかく、科学にコミットするマッハは困ったことになるだろう。科学が持つべき客観性=共同(相互)主観性(みんながそうだと認めること)を構成できないからだ。だからマッハは「私の感覚」というべきところで「我々の感覚」というのだと(こっそり共同主観を持ち込むのだと)、レーニンは指摘する。とあるレーニン主義者によれば、この攻撃は論理実証主義から構造主義まで射程に収めるという。
 しかしこれは問題の読み違えだ。バークリーが問題にしたのは人間の知覚だが、マッハが問題にしたのは、科学者という「個人」の知覚でなく、科学という「法人」の知覚だ。だから問うべきは、「独我論だから科学でない」という点ではなく、「科学という独我論」であり、共同主観性が有する「独我論」なのだ。この「独我論」は、「科学の外に物はない。物質とは科学の対象であり、その限りで(客観的に=共同主観的に)実在する」とさえ言い出すだろう。こんなこと、レーニンは認めない。
 そしてマッハ(主義者)にとって「物質」は、そうした理論的存在者だった。理論の発展で何度でも書き換えられるものにすぎなかった。けれどマッハ(主義者)は、「物質」を放り出したのではなかった。マッハが行なったのは、科学を一旦括弧に入れることだった(括弧入れを可能とする超越論的主観が、マッハがこっそり持ち込もうとした「我々」の正体だ)。「科学論」だといってもいい。これは「科学」を対象に科学すること、つまり「科学」を理論的存在者にすることに他ならない。まるで「科学論」の外には、「科学」なんて実在しないというかのように。
 科学理論の発展が、どんどん「物質」観を塗り替える。素朴な物質観はかえって唯物論の足かせとなる。あるいは古い唯物論は、古い科学と心中する。思えば、原子論からして、素朴な意味での「物質」の否定であって、バークリーはむしろ生き生きとした物質を取り戻すために、立ち上がったのだ。バークリーは、素朴な物質観から退かなかった。いわば足を止めて打ち合った。小賢しく(また不信心な)理論を捨てて、「生き生きした感じ」の方を取った。マッハ(主義者)も、繁雑で分かり難くて、何だか自然と我々の間を結び付けるはずがかえって遠ざけ迂回させ隔ててるような理論的存在者を「放り出し」、感覚からやり直す方を選んだ。
 けれどそんな「物質」なんか、レーニンは少しも惜しくなかった。たかだか物質の「本質」なんて、レーニンには一時的なもの、相対的なものに過ぎなかった。何故なら、そんなものは理論の発展で何度でも書き換えられるものに過ぎないから。
 科学理論の発展が、どんどん「物質」観を塗り替える。バークリーは足を止めて打ち合い、マッハは、ストップモーションの中へ科学をカッコ入れすることで科学論を可能にし、機械論的唯物論(あるいは科学によって可能になったのにそれを忘れてる哲学)は、国府軍が陣地戦をやったように踏みとどまろうとし、そして唯物論的弁証法は、毛沢東の長征みたいに、「素朴な物質観」から無限の「撤退戦」を演じるだろう。レーニンはどこまでも退く覚悟でもって、「物」を死守する。レーニンのいう「物」(ほんとは括弧なんかつけちゃいけないのだ)は、加えてその客観性は、「理論」の中に塗り込めることなんかできないし、全然「共同主観性」なんかには解消されない。逆にその度「共同主観性=客観性」を打ち砕き、そのことによってのみ「科学という運動」は成立するのだ。「足を止める」ことが、レーニンにとって、観念論であり形而上学だ。我々は確かに感覚や生活世界からしかはじめられない。けれどそこに留まること、留まることに固執することは、(天空のイデアを持ち出すことと同じく)形而上学のはじまりなのだ。たとえばポパーは、反駁可能なもの、しりぞく覚悟のあるものだけを、科学と認めた。ポパー自身ははその基準によって、マルクス主義は科学じゃないとした。マルクス主義は、どんな反駁もスウェイで(身をそらして)かわしてしまうからだ。レーニンは結局、同じことを先に/あるいはもっと先のことまで先に言ってしまっている。
 マッハ主義者のも、さっきのレーニン主義者のも、「科学論」は、科学や認識の可能性や成立条件などについて述べたてるだろう。科学の客観性の可能性や成立条件を、たとえばさっき述べたように「共同主観性」から引き出してきたりするだろう。ちょうど物の客観性(実在性)を、科学から引きだそうとしたように。レーニンにとっては、物がそうであったように、科学は、つまり認識は、はなっから「客観的」に実在する。科学の、そして認識の客観性とは、共同主観的な(誰にとってもそうであるといった)認識が可能である、ということでなく、ただ「認識」というもの=「認識」という運動が、頑としてどうしようもないくらい在るということだ。「認識」は、可能であるというより、不回避なのだ。我々は好き勝手に、物のある/なしを選ぶことができないように、認識のある/なしを選ぶことができない。


inserted by FC2 system