ヴィーコ × デカルト

クリティカ対レトリカ


 デカルトが簡潔をモットーとしたとすれば、ヴィーコは豊かさを取り戻そうとした言える。
 デカルトが簡潔を目指し、それを実行しようとしたのは、彼の目標が真理にあったからである。その結果、デカルトは哲学に幾何学を導入することにより、「方法」の刷新を計った。これにより問題そのものがスマートになり、余計なおしゃべり、面倒な議論はそぎ落される。
 こうした明晰さはフランスそのもののモットーとなり、遂にはフランス語そのものが明晰なのだという勘違いが生まれることになる。これが勘違いだとすれば、ここにもう一人の勘違いした哲学者があり、それがヴィーコである。イタリア語は形象的であり、想像力豊かなのだ、と。
 フランスとイタリアという対比は、空間的な対比ではない。それは、同時に近代対古代の対立でもあった。近代哲学がデカルトから始まったと言うのなら、ヴィーコは極め付きの反動である。彼はデカルトの分析的方法を、古典的な用語を転用して「クリティカ」、新しいクリティカと呼ぶ。ヴィーコがこれに対置するのが「レトリカ」である。彼は新しい(近代の)クリティカの利点を挙げ、かつその短所を列挙している。
 クリティカは真偽の区別である。しかし、真と偽の他に、「真らしいもの」があるのではないか。真偽は永遠であるとすれば、個別的な、その場その場で妥当する(だけの)、いわば間に合わせの「真理」。ヴィーコはこれの根拠を、「理性」ではなく、「共通感覚(=常識)」に求める。賢慮(プルーデンス)と雄弁(レトリカ←トピカ)が生じるのもここからである。
 前者、クリティカの方法的核心が幾何学的方法(解析=分析)にあるとするなら、それは単一の線から出来ている、飛躍のない、装飾もない「精密さ」である。しかし、群衆に訴求力を持つのは、実は、そうした精密さではなく、先鋭さ、つまり、隠喩を用いて、遠く離れたものの間に類似関係を見、自由で広範な話法なのである。必要なのはまっすぐな定規ではない、「レスボスの定規」こそ重要なのだ。それは最高の真理へと至るものではなく、最低限の真理を目指すものだ。
 デカルトの方法は、いわば「もの言わぬ自然」を相手にした時にこそ威力を発揮する。ヴィーコが念頭に置いていたのは、むしろ人間なのである。ヴィーコが、自然科学ではなく、言語、詩(文学)、芸術、歴史、政治、法、そしてとりわけ医学と教育に関心を持っていたことは、こうした文脈で理解できる。
 しかし、例えば「医学」と言っても、ヴィーコが言うのは、原因を探究する科学としての近代的な医学ではなく、「徴候を見る」治療のことである。病気(病人)とは無限の多様性をもつもの、その場その場で異なるものであり、単一な「原因」の探究はここでは無力なのだ。しかも、原因とは、結果(病気)から遡及して得られた、事後的なものに過ぎない。重要なのは、病気の予防に役立つような、病気の徴候であり、そうした徴候(記号)を読み解く能力なのである。こうした観点からすれば、実は「原因」に関わる普遍的な真理と思われるものこそ、「作られた」真理にすぎない。真理とはフィクションである、というは、ヴィーコの最も重要なテーゼの一つである(これには実は、二種類の解釈がある。1)幾何学的真理の非現実性を強調する、批判的、否定的な立言であるとする解釈、2)真理(知ること)はむしろ制作行為(作ること)なのであって、我々は対象を構成する=作ることによってこそ対象を知ることができるのだという、積極的、肯定的な立言だとする解釈。後者の解釈によれば、歴史を始め、いわゆる人文科学こそ人間によって作られたものであるがゆえに、人間によって理解されるものだということになる。この場合、逆に自然は神の制作物であるから、人間には知られないことになるが。)。
 こうして、いわばヴィーコはデカルトの裏面をなす哲学者、思想家である。あるいは、ヴィーコこそ「人文科学におけるニュートン」だとする評価さえ、最近では現れている。しかし、あくまでヴィーコはデカルトの裏面、少なくとももう片面であり、片面でしかない。デカルトが居なければ、単なる反動にすぎない。ヴィーコの主観的な意図においては、デカルト的な知の秩序の逆転を目指したと言えようが、デカルトとヴィーコは、この意味で相補的であって、対立するのではなく、むしろ併存しているのである。ヴィーコのデカルト批判は、全面的な否定ではなく、デカルト的方法が全てに妥当すると見ることへの批判なのである。ヴィーコが見ているのは、そこから「抜け落ちている」ものであるにすぎない。しかし、しかも、そうしたものこそが重要なのである。


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