他人の行動を変えさせるのに最も有効なもの、それは「おどし」である。 脅迫・強要が刑法の禁じるところであるのに、催眠が野放しなのは、それだけの理由がある。 脅迫は、相手の想像力をテコに実際には危害を加えることなく、そう信じさせることで効果を生む。 |
やくざの人も忙しいので、用もないのに来たりしない。やくざの人はお願いに来る。普通に実現できる「お願い」なら、わざわざ「やくざ」して来る必
要はないので、やくざが来るのは、「無理なお願い」をするためである。
「お願い」の当事者は、やくざの人の友人だったり内縁の人だったりする。当事者は「お願い」する立場なので、それだけの「弱味」があって攻撃力が
落ちる。
やくざの人が仮に「当事者」であっても、そのときは別のやくざの人が攻撃を担当する。もちろん「当事者」もいっしょにやってくる。そうでないとまた「お願
い」にならないのである。
当事者はいっしょにきて、しかしあまりしゃべらない。やくざの人は「当事者」を代弁し、時折話の流れの中で、「当事者」に話を
ふったりするが、あくまでイニシアティブはやくざの人がにぎらなくてはならない。その場の「進行」は、やくざの人が握ることを、はっきりさせるために、無
言の/全権委任した「当事者」の役割は(無言であるが故に)重要である。やくざの人の脅しは、こうしたメタ・メッセージの次元までデザインされた、一種の
システムス・アプローチとなっている。
やくざの人は、用向きを言う。しかし「用向き」は「無理なお願い」であるので、それが「無理なお願い」であることはまず真っ先に認める。当事者に
非があるとき
は、先にそのすべてを認めてしまう。そうすることで応対者の反撃をあらかじめ封じることができる。なおかつ「非を認める」ことは、正しくて筋の通ったこと
を言うことで
あるので、応対者もそれを止めることができない。
これには2つの効果がある。一つは、「非を認める」ことは正しい主張であるので、反論の余地がない。つまりしゃべりまくれる。これでまず話の主導権を握
るのである。さらに、「非を認める」ことは正しい主張であるので、応対者はうなずくなり、あいずちをうつなり、意識的に/無意識にしてしまう。つまり現代
催眠で言うところのイエス・セットをつくることができるのである。
「用向き」は「無理なお願い」であるので、最終的には応対者は「それは、これこれこういう理由でできません」と答える。これも、やくざの人の台本
通りである。ここで一発、や
くざの人は怒鳴る。怒鳴らないと、いかに格好がそれっぽくても、やくざの人である感じがしないからである(もちろん出で立ち、服装も重要な要素である
が)。やくざの人の戦略としては、まず応対者に「私は
やくざの人である」ということを分ってもらわなくてはならない。どれほどわずかでも、応対者に恐がってもらわなくてはならないのである。
そしてこのタイミングで大きな声を出すと、これまでの「非を認める」=正しい主張をする場合とのギャップがより大きく認知され、より効果的でもある。声
色を使い分けるところなど、普通の声=正しい主張/大きな声=強引な主張というスプリッティングであり、理にかなった攻撃である。
怒鳴られても、普通の人は怒鳴り返す訳にはいかないので、応対者はまた理をつくして説明する。説明するしかないのである。やくざの人はそれを聞
く。やくざの人はプロなの
で、ちゃんと応対者がするくらいの説明は知っているのだが、この場ではちゃんと聞くのである。なぜか? 聞いて「おま
えのいうのは、これこれこういうことやろ」と、応対者の説明をまとめるためである。
この「まとめ」は、最もやくざの人の力量がでるところで、100%正解のまとめをして
しまう人もいれば、50%くらいしか的を得てない場合もある。多分いちばん効果的なのは80〜90%くらい、概ね正解なのだが違うところもある、しかしだ
いたい合ってるのでそれをわざわざ指摘するには及ばないだろう、という「まとめ」であろう。応対者は「そうです、その通りです」と言わざるを得ない。この
まとめの際の声は、先ほどのスプリッティング「普通の声=正しい主張/大きな声=強引な主張」でいえば、もちろん普通の声で行われる。そうすると「正しい
主張」である感じが出るからである。
こうして「説明」→「まとめ」がしばし繰り返される。その後、突然「おかしいやないけ!おまえ、さっき、こう言うたやないか!」とやくざの人は今
度は怒鳴る(大きな声を使う)のであ
る。
「こう言うた」内容は、応対者が説明した言葉だけでなく、当然やくざの人がまとめた「まとめ」も含まれる。「まとめ」に若干おかしいところがあったと
しても、それを指摘せずに先に進んでしまえば、応対者もそれを承認したことになり、承認したことなら「言ったも同然」なのである。もっというと、応対者が
説明した事項でも、やくざの人の「まとめ」に含まれてなければ、それは「言ったことにならない」のである。「おれがこれこれこうやなと確認したとき、お前
『そうで
す』言うたやないけ」なのである。
やくざの人は、相手の論理的な矛盾や単なる言い間違いを逃さない。逃さないだけでなく、しつこく追及する。
たとえば「そういうつもりで言ったのでは……もごもご」などと、応対者が口ごもったとしよう。するとやくざの人は、大きな声でこう応じる。
「『つもり』?お前、いま『つもり』言うたな。おう、確
かに聞いたぞ。『つもり』って、何え?お前はそういう『つもり』かもわからんけど、そんなもん、わしら(※)には全然わからんやないけ。『つもり』いうの
はな、『実
際はそうでないのに、そうであるかのような気持ち』ちゅうことや。辞書引いてみ、ボケ。大の男がわざわざ時間さいて、大事な話しに来てるちゅうのに、お前
『つもり』言うのけ!?そんないいかげんな、曖昧なこという奴に、大事な話ができるけ!」
と、「つもり」だけで30分くらいやるのである。その間、本題に話をもどそうとしても、がんとして受け付けない。「『つもり』が先じゃ。1段がないのに2
段があるけ!人間、何でコミュニケーションすんねん?言葉やろ!その言葉ないがしろにして、何で話が先進むんじゃ!」である。
※この「わしら
we」も重要である。「わしら」と言いながら、やくざの人は、無言の同行者(実はこの人のために、今回は懇願に来ているのである)の方を向く。無言の同行
者は、ここでうなずく。応対者は1人、やくざの人サイドは2人、数の優位による「社会的証明」の力がここで働く。これをしつこくやられると、相手が正しい
とは思わないまでも、こちらの正しさを主張する気力を応対者は次第に失しなっていくのである。
やくざの人も怒鳴ってばっかりではない。それでは相手も馴れてしまって効果が逓減するし、第一本人がつかれる。怒鳴り続けたかと思うと、すっと声
を押えやわらかく話し出す。
「わしら、
お願いに来てんにゃ。そんな「けんもほろろ」にやられたら、どうしようもないやんけ。わしらかて、自分が何もええ事してるとは思てへん。悪いもんは悪い。
払ってない
んやから、ダメなのもようわかる。どないしようもないのはよう分るんや。そやけど、こっちかて困ってるんや。払いとうても払えんときが、人間あるやろ。そ
やけど、規則ちゅうもんがある。それは守らなあかんわな。そやから、何かええ知恵ないか思もて、こないして相談に来てるんや。わしらよう知らんしわからん
けど、お宅ら専門家やろ。なんかええ手あったら教えてえな」
ここで、また同じ説明をすると「お前、わしの話、何聞いとったんじゃ!」と「大きな声〉モードになって怒鳴る。仮に「何かええ手」があったとしても、「何
でそれを先言わへんねん!
さっきからダメやダメやの一点張りやったんとちゃうんか!わし、そんなもん、お前から説明されてへんぞ。そやろ、お前、言うてへんやろ!」と再び怒鳴るの
である。
さっきの「つもり」だと、とにかく「『つもり』と言ってごめんなさい」と言うまで追及する。いまのだと「すいません、言ってませんでした」という
のを応対
者が認めるまでやる。
本題と何の関係がなくても、どんなささいなことでも、とにかく応対者にあやまらせるのが、やくざの人の大事な戦略である。
どんなことでもあやまると、わずかであっても態度が引いてしまう。隙ができる。それがやくざの人の狙いである。
本題→言葉尻を捉えて脱線→応対者が謝る→本題→言葉尻を捉えて脱線→応対者が謝る→本題……と、やくざの人は、ジクザグに進撃する。一度応対者が
謝る
と、やくざの人はほんのわずかでも陣地を増やしたことになり、逆に応対者はなくしたことになる。やくざの人は勢いを得、応対者は逆に勢いを失う。多分、人
間と言うのは、そんなに数多く謝れないようになっているのかもしれない。5、6回も謝ると、「もうどうにでもして」みたいな感じになる。
「おまえじゃ、話にならんわ。上のもん、呼びいな。なんちゅう名前や」
普通なら言わないのであるが、「もうどうにでもして」状態であるので、つい上役の名前を言ってしまうのである。これでとりあえず1面をクリアー。やくざの
人は次のステージへ。