望遠鏡

「ひさしぶりだね」
ほんとうに。君とはもう会えないような、なんとなくそんな気がしてたよ。
「僕の方も、そうだ。昔は毎日のように、こんな風に話したというのに」
そうだ。確か君がぼくに「望遠鏡」の話をしてくれたことがあった。
「そんなこともあったかね」
君が光学工場で働いているときだったかな。ひゃっとすると手紙でだったかもしれない。
「ああ、おもいだした。確かに手紙でだよ。妙なことを覚えてるね」
ぼくはなんとはなしに、あの話に元気付けられるような気持ちがしたのだ。『この目で見るより大きく見えることに、望遠鏡の望遠鏡たるゆえんがある』。ぼくはこの歳になって、よく映画を見に行くんだが、『ズームアップ』というのがあるね。
「画面に最初小さく写っていたものは、次第に大きく写っていくやつだね。ズームアップにつかわれるレンズは、連続的に倍率を変化することができる。家庭用のビデオカメラにもついているね」
ところが、映画でものを次第に大きく見せるには、もう一つの技法があるんだな。なんのことはない、カメラ自身が対象に近付くことだけども。もちろん、ふたつの方法には共通点もある。視野自体が拡大し得ない以上、対象の拡大は、対象の写っている部分の縮小を意味する。「拡大」というのは、ようするにより小さな一部分を、さっきと同じフレームの大きさに引き延ばすことだから。けれど、二つの方法には、ただ画面を見ていても歴然とした違いがある。思い出しついでで悪いんだが、君ならこの二つをうまく説明してくれるんじゃないかと思ってね。こんな話をしてみたわけなんだ。
「なるほど。君の話をきいて、思い付いた範囲でいうんなら、こんな風なことがいえるかも知れない。ズームアップは、距離(隔たり)の割り算であり、接近は、距離(隔たり)の引き算である、とね。拡大する(大きく見る)ためには、対象との間に距離(隔たり)がなくてはならない。ズーム(引き寄せる)にしろ、近付くにしろ、埋め合わせられる距離が前提になるからね。もっともただ見るだけでも距離(隔たり)は必要だけれど」
すると、拡大する(大きく見る)ことは、究極的には距離ゼロへ向かうわけだな。
「拡大する(大きく見る)ことは、『もっとよく見る』ことのように思われるけれど、その極限は、ズーム(引き寄せる)にしろ近付くにしろ、〈見ないこと〉、つまりは視覚の、触覚への欲望を意味するのだ。君が言った『対象の拡大は、対象の写っている部分の縮小を意味する』というのを究極まで押し進めるなら、無限の拡大は、無限の視野の縮小−つまりいかなる微小の部分すら見ないことを示すじゃないか」
なるほど。けど、〈ズーム〉と〈近付くこと〉の違いはどうなる?
「さっきもいったとおり、割り算と引き算の違いだよ。まず、ズーム(割り算)から考えよう。たとえば100mの距離をもって隔たてられている対象(被写体)がある。今、100mの距離をもって隔たてられているが故に小さく見えている対象(被写体)を、2倍の望遠鏡で覗いて見る。これはすなわち100÷2で、対象を50mの距離の隔たりにおいたことと同じである。倍率を5倍、10倍と上げていくと、隔たりはそれぞれ20m、10mと割られていく。しかしどんなに倍率を上げても(大きな数で割っても)、隔たりは決してゼロにはならない」
けれど100/∞は、ゼロではないのかい?
「n→∞のとき1/∞→0という極限は、操作としての可能無限の意味するのであって、つまり上の式は「nをどんどん限りなく(途中でやめないで)大きくしていけば、1/∞は限りなく0に近付けるをことができる」という可能性を示すに過ぎない。実際に1/∞(や同じことだが100/∞)がゼロになるということではないのだ」
じゃあ、近付くこと(引き算)の方はどうなる?
「最初、カメラは対象(被写体)から100mの距離をもって隔たてられている。次に、カメラは移動して対象(被写体)から50mの距離のところまでいく。ここにおいて、50m分の距離(隔たり)を克服した(取り除いた)、つまり引き算したことになる。100−50=50。カメラがさらに30mちかずけば、50m−30m=20m。この方法(引き算)によってのみ、距離(隔たり)を完全に取り除き、ゼロとすることができる。それにひきかえ、カメラは最初の位置から動かず、ただ倍率のみを高めて偽りの接近を果たそうとするズーム(割り算)では、最初の距離(隔たり)は、どんなに倍率を上げようとも、無限小となって残り、すぐ〈目の前〉にあるかのように見えるのに、決して触れることは適わないだろう」
フックという学者が初めて〈顕微鏡〉を発明したとき、回りの連中にこう言われて嘲笑されたそうだ。『小さなモノが大きく見えるだって?そんなの、ただ近付けて見ればいいじゃないか』。彼らは、君の言う〈割り算〉と〈引き算〉の差異を理解しなかったのだけれど、それだけに〈見ること〉に関する素朴な想念を示していて、ぼくにはかえって興味深い。というのは、距離(隔たり)を自覚し得たのは、〈割り算〉しようとしたフックや(望遠鏡の)ガリレオであって、結局のところ〈引き算〉しょうとした連中は、〈見ること〉に必然的に付随する距離(隔たり)をたわいもなく忘れてしまったのだ。彼らは〈見ること→触れること〉の連続性を無邪気に信じていた。〈拡大する(大きく見る)こと〉=〈もっとよく見ること〉=〈近付いて(近付けて)見ること〉という、等号(イコール)を信じて疑わなかった。これが彼らの〈見ることの三位一体〉なのだ。
「はからずもぼくは、〈引き算〉の方を擁護してしまったようだが、対して君は〈割り算〉の弁明をしようというのかい?」
いいや、むしろ僕の主張はもっと強いものだ。〈引き算〉の〈見ることの三位一体〉の究極は、〈完全によく見ること〉=〈距離ゼロへ向かうこと〉だ。すると〈完全によく見ること=ありのままに見ること〉とは、隔たりを介せずにみること、つまり〈目で触れること〉ではないか?そのような視覚は、視覚を越えている。むしろぼくは、視覚を裏切ってるといいたい。だからぼくは、視覚の極限に〈触覚〉を置くような、〈引き算〉の〈見ることの三位一体〉に反対するのだ。
ぼくが君に言うことじゃないかも知れないが、フックの顕微鏡の〈倍率〉は、我々が触れることのできる〈表面〉を破壊してしまった。さっきまで触っていたすべすべした表面は、フックの〈倍率〉で見れば、とてもデコボコしていた。それだけではない。たかだか一滴の水の中にさえ、我々の世界に匹敵するほど複雑な世界を見つけてしまったのだ。もう、〈拡大する(大きく見る)こと〉は、〈もっとよく見ること〉でなく、まったく別のものを見てしまうことだった。いくら〈倍率〉をあげても、我々の見ているさらに「奥」に、微細だが今のそれと同じくらい多様で豊かな世界がある。〈倍率〉に応じて、異なった世界が見える。〈見ること〉は、もはや〈触れること〉に極限しないばかりか、どんな〈事象の底〉にも辿り着かない。それは〈見えない〉からでなく、同時にすべての〈倍率〉でみることはできないからである。 inserted by FC2 system