蝉丸神社

今日は一日、遠足だった。めざすは逢坂山から大津。蝉丸関係の史跡をめぐる、である。

逢坂山にある蝉丸神社は、河原こじきの元締めである。
話は真宗中興の祖、蓮如あたりに始まる。頃は応仁の乱あたり、急激に成長してきた真宗=蓮如に対し、面白くないのは天台宗、比叡山延暦寺。ついに比叡山3000の僧兵に、本願寺は焼き打ちにあう。等身大の親鸞の木像を背負い、京都〜山科〜大津へと逃げ下る蓮如。しかしどこに逃げる場所があろうか。
大津には、同じく天台宗の三井寺があった(いまもある)。しかし同じ天台宗とは言え、教義解釈から比叡山とはすごぶる仲が悪い。しかし三井寺、僧兵600。とてもまともにはやり合えない。
蓮如が選んだのは、その三井寺であった。比叡山の敵とは言え、やはり天台宗、真宗とはあいいれぬばかりか心安からぬ思いは比叡山と同じである。その敵の懐に飛び込む覚悟の蓮如、その心中はいかばかりか。
三井寺は結局、蓮如を守ることにした。比叡山に一泡吹かすことを重く見たのだ。新興である蓮如を甘く見ていたのかも知れぬ。蓮如は3年、そこにとどまり、やがて迫害を逃れ、福井へ赴く。危険であるからという理由で、等身大の親鸞の木像は三井寺がいましばらく預かり置くことにした。
やがて蓮如は京都に戻り、信仰の本拠地を山ひとつ隔てた山科に置いた。広大な敷地を持つ山科本願寺である。あとは、件の親鸞の木像を迎えるばかりとなった。しかしである。今や蓮如の力を認めざるを得なくなった、三井寺は手の平を返し木像を返そうとはしない。そればかりか無理難題をふっかけてくる。かつて三井寺は、蓮如の命を助けてやった。今、三井寺は危急存亡の時、どうしても人の生首が二つ要る、本願寺が首二つ差しだせば、よろこんで木像はお返ししよう。いかに信仰厚き宗徒とは言え、己が首を差しだすものはない。
さて、ところかわって琵琶湖のほとり、堅田。ここに網を打つのも南無阿弥陀仏、網を引くもの南無阿弥陀仏といった熱心な宗徒である漁師がいた。名はゲンエモン。首の話を聞き、ならば我が首差し出そうと決心するが、心残りは息子のこと。いとまごいしようと家へと取って返し、息子ゲンベエに我が心中を打ち明ける。ゲンベエそれを聞き、私達は日々魚の殺生をし、糧にしている漁師です。その私達が、真宗のお役に立てるなら、父上、どうぞこの首を。よういうた、ゲンベイ。父ゲンエモン、愛しき息子の首を切り、それを背に三井寺へ。さあ、これは我が息子の首、そしてもうひとつはこの老いぼれの首だ。約束どおり、木像を返してもらおうか。これには三井寺大いに恐れ入り、真宗の余りにあつい信仰に胸打たれ、木像を返し、ゲンエモンももちろんそのまま返し、ゲンベエの首も手厚く葬った。これがかの有名なかたたのげんべいの話。そしてこれがその首です。
といった話をしてくれる真宗の寺へもいく。ここの坊主、嫉妬するほど話がうまい。涙を浮かべてる人もいる。あとで聞くと、真宗にはおそろしくすごい説教のメソッドが整備されていて、このかたたのげんべいの話は中でも十八番であるらしい。
かような真宗v.s.三井寺の対立があるのだが、当然三井寺の方にも同様のそれに匹敵するメソッドがある。明治期のも幾多の説教僧を排出し、浪曲その他日本の芸能の源泉のひとつに数えらえるのが三井寺派である。三井寺関係の近松寺もこのあたりにあり、近松門左衛門はここの縁のものとする伝説もある。
さて、先に述べたとおり、逢坂山にある蝉丸神社は、河原こじきの元締めである(現在でも寂れた建物に似つかわしくない著名な芸能人の名が記されている)。ここで発行されていた許可状は芸事をはじめさまざまな職種にわたる。芸人達は、その許可状を得るため(関所なんかで効力があったらしい)いくらかの上納をする。蝉丸伝説は、芸事に関するものだが、実のところ蝉丸神社とはその伝説にのった集金システムで、裏には件の三井寺がいたらしい。実際、蝉丸神社の成立はあたらしく、精々が桃山時代に遡れる程度である。
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