この利己的(わがまま)な遺伝子(ぼくたち)を

 村上龍という人が「ローレンツがあったら、今の小説の90%はいらない」だったか「小説家の90%はやることない」だったか、どこかでうっかり言ってるそうです。うっかりどころか、あるいは本気なのかもしれません。でもそれをいうなら、ただ「今の小説の90%はいらない」とだけ言えばよかったのです。ローレンツもどちらかといえば、「今の小説の90%」に入るからです。もう少し村上氏の立場でいえば(肩を持つ理由なんて少しもないのですけど)、百年一日の(誰しもが先刻御存知の)惚れた腫れた物語を10回読むよりは、「何故恋なんかしてしまうのだろう?」という疑問に、何等かの「合理的解答」を与えてしまう動物行動学の方がおもしろい、と。わからないでもありません。
 動物行動学のインパクト(たとえば旧来の自然選択説では「説明つかない」利他的行動の発見なんか)に対して、「利己的遺伝子の適応戦略」という方便を繰り出すのは、また別の「社会生物学」という学問だそうです。動物行動学の「説明」を、さらに「下層」のレベルで(本当にそうなのかしりません)、つまり遺伝子のレベルで「説明」してくれるのだそうです(もちろんいっぱしの学問なので、それだけではありませんが)。だからトランスポゾンの働きやらメッセンジャーRNAをつくるときのスプライシング(切り貼り)やら、逆転写酵素によるメッセンジャーRNA→DNAの書き換えによるセントラル・ドグマの綻びだとかで(すいません、知らない言葉を並べてしまいました)、要するにDNA決定論を論駁したとしても、村上氏は小説を読み始めないでしょう(大きなお世話です)。もっともそんなに村上氏に小説を読んでもらいたい訳ではありません。
 E.O.ウィルソンという人だそうですが、その名も『社会生物学』という、邦訳だと5巻もある大きな本で、カミュの「不条理は死を命じるか?」という議論をとりあげ「無味乾燥」だと扱き下ろし、「生物は、より多くのDNAをつくるためのDNAの一手段にすぎない」ととどめを刺しているそうです。「文学」にケンカ売ってます。余計なことですがウィルソン先生だってもちろん大まじめです。
 遺伝子レベルで(「利己的」だの、「戦略」だの、あたかも遺伝子が意思を持ってるみたいな)擬人法的表現を「密輸入」しといて、それで「人間の行動」まで説明できるんだぜってのは、ずるいというより、ただレトリックのトリック的使用、ようするに言語詐欺、「程度の低い文学」じゃないか、と悪態つきたい訳でもありません。じつのところローレンツ博士だって、動物を観察して、彼らの行動に「恋愛」やら何やら、「人間がしてること」を見出していったのですから(それは博士の動物たちへの「愛」故にです)。その成果たる動物行動学が、今度は「人間という動物」の行動も説明するというのは、あたりまえです、ループです。もちろん私は日和見なので日和ますが、ローレンツ博士の本は大好きだし(『ソロモンの指輪』なんて泣いてしまいます、読んだことないけど)、ウィルソン先生も立派な学者だと思います。
 「恋なんて○○に過ぎない」とわかっても、それで余計に恋できたり、上手に恋できたりする訳ではありません。むしろ何かあきらめたり、身を引き離したりする時に「いいわけ」になるだけです。しょうこりもなく恋したときに、動物行動学は(あるいは訳知り顔のおじさんは)「人間はそういうもんだ」と言ってくれるだけです。それがどれほどある人にとっては救いになるでしょう。そしてある人にとって救いになった言葉が、どれほど他の人を抑圧し(苦しめ)たりするでしょう。 inserted by FC2 system