「ポンヌフの恋人」

「ポンヌフの恋人」という映画のこと

 何かを(目に)焼き付ける、というのは、ただ見ることと、よほど違っているのだろうか。例えば、映画に出てくる画学生の女の子の目は、革命祭の花火も、夜中大道で男が口から吹き上げる炎も、どんな光も明るさでなく、色でなく、痛みとして感じるだろう。網膜も、視神経も、光の粒子に(あるいは波動に)傷つけられる、この行為は、いったい見ることの極限なのか、あるいはそれを越えた/それともそれに反した何事かなのだろうか、と。

 例えば、カメラが「痛み」を感じるかどうかについて、ぼくらは結局知る由もないのだが(自分以外の誰のものであっても、「痛み」はただ自分が感じるようなものであると、類推する他ないのだけれど)、けれどたったひとつぼくらはカメラについて知っている。カメラは泣かない。この気持ちは泣けば済むほど簡単じゃないと知っても、ぼくらは時に泣く。泣いてしまうのに、カメラは決して泣かない。泣こうともしない。見ることと泣くことの関わりを、「見る器官」と「泣く器官」との隣接がしているその理由を、ぼくらはまるで知らないというのに(もちろん、ぼくらは眼球だけで見る訳じゃないし、涙腺だけで泣くんじゃない)、カメラが泣かない理由なら知っている。カメラは決して何かを「見た」りしないからだ。カメラの仕事は、とらえた像を、他の誰かに「見せる」ことであって、自らそれを「見る」ことじゃない。
 だからカメラは、「見る」のでなく、「焼き付ける」のだ。そしてその引き替えに「失明」するのだ。もちろん、フィルムには次のコマが用意されている。新たに「焼き付ける」ために、フィルムは1コマ分、巻き取られるだろう。そして繰り返し繰り返し、カメラは「焼き付け」、「失明」し続ける。それは「見せる」ために、繰り返し「見ない」ことを選択することだ。カメラは「焼け付ける」際の「痛み」さえ(たとえ感じることができたって)放棄するだろう。映像を必要とする他大勢のために、カメラは「見る」ことをしない。カメラが泣かないというのは(ジェルソミーナが泣かないのとを同じく)そういうことだ。

 ぼくらは、ある友人が語った次のコトバを覚えてる。“これは「光にたいする痛み」を感じる映画なのだ。網膜に直接焼きつけられる光の暴力に対する感受性の試練なのだ。”と。
 けれど、「光にたいする痛み」を感じない映画などあるだろうか。どんな映画も、スクリーンに投げつけられる、そしてそこで反射され、ぼくらの目に飛び込んでくる光でできているのだ。ぼくらはいつも、ほんのわずかの間、視神経系に像を「焼き付け」られ、「失明」している。「像」に一時、視覚を占拠される。この「残像」と呼ばれる現象なしには、映画は MOVIE と呼ばれることはなかっただろう(退屈なスライド・ショーで終わっていただろう)。焼き付けられた映像を見るために、ぼくらにはそんな視力が必要なのだ。けれど永遠に像が残ってしまうなら、ぼくらは何も見れなくなったろう。
 失明寸前の主人公の彼女は、その前につけられた照明のせいで、美術館で絵を見ることができなかった。光は、痛みを与え、そして映像を損なわせる。映画MOVIEは、映像に傷を負わせる、その光でできているのだ。だから明るい場所で上映することと同様に、複数の映画を同時に同じスクリーンで上映することはできない。映像が、映像を傷つけるのだ。

 失踪者であり失明者である彼女を探すために、彼女の家族は、彼女の顔写真のポスターを張り出す。それはまた眼の治療方法が見つかったことを伝えるものだった。橋で彼女と暮らしはじめた男は(彼こそ、あの口から炎を吹いていたあの男だ)、片っぱしからポスターに火を放つ。
 家族は、彼女を探し出し、その眼を治療することを(「映像の喪失状態」から彼女を救い出すことを)望んでいる。そのとき、彼女は失踪者でも失明者でもなくなるだろう。橋で暮らす男の元にいることもなくなるだろう。男はそれに対抗する。ここでも火=光は、映像を損なわせるもの奪うものだし、「失明」させるものだ。家族は、おびただしい数の彼女の顔写真のポスターを張り出し、映像を氾濫させる。男は火=光でもって、映像を破壊する。古典的であるどころか、古代的ですらある、この映像を巡る闘争、収奪(うばいあい)は、「映像の肉弾戦」の様相を呈するとはいえ、もっともありふれた「映像の暴力」を構成するものだろう。二者が対峙する。映像(の氾濫)によって、そして映像の(回復)でもって、傷つける者。そして映像を傷つける者。けれど、映像が、映像を傷つけるのだとしたら、彼らは双対なもの(相補的にして可換なもの)であるだろう。つまり、映像によって映像を傷つける者、そして映像を傷つけることで、映像を救う者。

 彼女が失踪したのは、忘れられないかつての恋人に会うためだった。会わせまいとする橋の男の抵抗もむなしく、彼女はかつての恋人を見つけ、アパートまで追いかけ、受け入れてくれなかった恋人を撃ってしまう。彼女は忘れるために、その映像を消し去るために、火を吹く橋の男のところにもどるだろう。彼こそは、映像を傷つける者だから。
 失明していこうとする彼女は、いよいよかつての映像=焼き付いてしまったものに固執するだろう(そのなかには無論、自分が撃ったかつての恋人もいる)。「あんたの姿、目に焼き付けておきたい」と願うだろう。そうするしかないからだ。
 忘れることはできない。焼き付いてしまったもの=映像は消し去れない。ぼくらは傷を「取り外す」ことはできない。橋の男は、彼女がいなくならないようにと、彼女の映像(ポスター)に火で焼いて回った。火=光が、映像を傷つけた。けれど、自分の内に入ってしまった彼女の映像(おもかげ)を消すことはできない。そんな方法を教えてくれる者はない、そんなものはないからだ。

 けれど、映像が、映像を傷つけるのだとしたら、人を「映像=焼き付いてしまったもの」から癒すのは・・・。

 映像は痛みを与え、そして映像を傷つけるだろう。ぼくらは傷を「取り外す」ことはできない。(ぼくらは網膜だけで見るのでない、けれど)ぼくらには、「次の網膜」はない。だから永遠に像が残ってしまうなら、ぼくらは何も見れなくなるだろう。ぼくらは傷を「取り外す」ことはできない。傷を傷つける他ない。痛みは避けられない、光による「外科手術」。しかも繰り返し繰り返し、いつも「見る」度に、ぼくらは視覚を放棄し、今度こそ僕らのために、眼に「焼き付けて」いるのだ。だから彼女は、視力を取り戻さなければならないだろう。それは「網膜」に張り付いた映像を自分自身で「傷つけていく」ために必要なのだ。

 
 映画MOVIEは、映像(ぼくら)に傷を負わせる、その光でできているのだ。 inserted by FC2 system